邪竜の進路
「入ります。」
部屋の扉が開き、レグルスが姿を現した。
銀縁眼鏡の奥の灰紫色の瞳は真っ直ぐ前を見据え、その腕には数枚の資料と大きく丸められた地図が抱えられている。
その様子を見た瞬間、アルノは自然と背筋を伸ばした。
レグルスが大量の資料を持ってくる時は、決まって何か大きな動きがあった時だった。
「邪竜の追加報告です。」
短い一言で、部屋の空気が静かに張り詰める。
レグルスはテーブルへ地図を広げ、その上へ報告書を一枚ずつ並べていった。
各地の目撃情報。
汚染された村。
魔獣が凶暴化している森。
それらを示す赤い印が、地図の上には幾つも記されていた。
アルノは思わず身を乗り出す。
「増えてる……。」
「あなたが眠っていた十日間の報告です。」
レグルスは静かに答え、一本の線を指先でなぞった。
「最初の目撃は西部山岳地帯。その後、南方街道沿いで二件。さらに昨日、南西海岸で新たな目撃情報が確認されています。」
「十日で、そこまで……。」
リネが思わず息を呑んだ。
赤い印は迷うことなく南西へ続いていた。
まるで、何かを目指して進んでいるようだった。
「海岸まで来たんですね。」
アルノが呟くと、レグルスは小さく頷く。
「現在の移動速度を考慮すると、このまま南西へ進む可能性が最も高いでしょう。」
そして、その指先は南西の海へ浮かぶ小さな島で止まった。
「目的地として最も可能性が高いのは、死の島です。」
その名を聞いた瞬間、エルディオンがわずかに眉を寄せた。
「死の島……? ここはイオ島じゃないの?」
アルノは思わず聞き返す。
「イオ島?」
レグルスは地図へ視線を落としたまま説明する。
「正式名称はイオ島です。ただ、現在は死の島という呼び名の方が一般的ですね。長年、人が住めない島となっていますから。」
「……死の島。」
エルディオンはその名を確かめるように繰り返した。
五百年前を知る彼にとって、その呼び名は初めて耳にするものだった。
アルノはそんな横顔を見つめながら、ふと尋ねる。
「エルさんは、その……イオ島へ行ったことがあるんですか。」
部屋へ短い沈黙が落ちた。
リネもレグルスも、自然とエルディオンへ視線を向ける。
「あるよ。」
返事は驚くほどあっさりしていた。
「どんな場所だったんですか。」
エルディオンは地図の上の小さな島を見つめ、遠い記憶を辿るように目を細める。
「人が住んでいて、港があって、漁で暮らしてる人が多い、ごく普通の島だった。」
その静かな声を聞きながら、アルノの脳裏へ一つの光景が浮かぶ。
朝になれば漁船が港を出て、夕方には魚を積んで帰ってくる。
家々からは夕食の匂いが漂い、子どもたちが笑いながら道を走る。
今では死の島と呼ばれる場所にも、そんな当たり前の日常が確かに存在していたのだ。
「応援要請を受けて向かったんだ。」
エルディオンは静かに目を細めた。
「僕が着いた頃には、避難はもう終わりかけてた。」
「港には漁船だけが残っていて、人影はほとんど見えなかった。」
その時の光景を思い返すように、エルディオンはしばらく地図から目を離さなかった。
その一言に、部屋の空気が静かに重くなる。
アルノの脳裏には、第一星環で見た黒変がよみがえっていた。
木々を侵し、魔獣を狂わせ、森そのものを蝕んでいた異界エネルギー。
もし五百年前のイオ島でも同じ現象が起きていたのなら、穏やかな港町は、ほんの短い時間で姿を変えられてしまったのかもしれない。
レグルスは地図へ視線を落としたまま静かに口を開く。
「死の島で確認されている汚染は、第一星環周辺で確認した現象と一致しています。」
指先がゆっくりと島の位置をなぞった。
「イオ島にも星環、あるいはそれに類する神代施設が存在する可能性は十分あります。」
淡々とした分析だったが、その言葉は誰もが抱き始めていた予感を裏付けるものだった。
エルディオンも静かに頷く。
「第一星環には、邪竜が残した裂け目があった。」
深い碧眼は、地図の上の小さな島を見つめたまま動かない。
「あいつは、そこから漏れ出した異界エネルギーを取り込んでいた。星環は異界から力を受け取るために造られた施設なんだと思う。」
アルノの脳裏に、地下深くで見た黒い裂け目がよみがえった。
空間を引き裂くように開いた傷口。
そこから溢れ出した異界エネルギーは森を侵し、魔獣を凶暴化させていた。
邪竜は偶然あの場所へ現れたわけではない。
異界エネルギーを求め、自ら星環を探していた。
そう考えれば、これまで点だった出来事が一本の線となって繋がっていく。
「邪竜は、その力を求めて星環を探している……?」
アルノが静かに問い掛けると、エルディオンは小さく頷いた。
「たぶんね。」
軽い返事だった。
けれど、その言葉には妙な説得力があった。
エルディオンは南西へ続く赤い印の先へ指を置いた。
「次に向かっているのは、イオ島かもしれない。」
レグルスも否定はしなかった。
「現在確認されている進路と、邪竜が星環を目指しているという仮説は矛盾しません。ただし、島に星環が存在するかどうかは現地で確認する必要があります。」
アルノはもう一度地図を見つめた。
西部山岳地帯から南へ下り、さらに南西へ伸びる赤い印。その進路は一本の流れとなって海へ続き、その先にはイオ島が静かに描かれている。
五百年前には人々が暮らし、今では死の島と呼ばれる場所。
そこに次の星環があり、邪竜もまた、その場所を目指しているのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が静かに熱を帯びた。
「急がないと。」
思わず漏れた言葉だった。
レグルスはアルノへ視線を向け、穏やかな口調で答える。
「ええ。でも、焦ってはいけません。」
一拍置き、その視線がアルノの身体へ向けられた。
「現在の体調では長距離の移動だけでも負担になります。第一星環の影響は、まだ完全には抜けていません。」
責めるような言い方ではない。
仲間として現実を伝えているだけだった。
アルノも素直に頷く。
「分かっています。」
アルノは小さく頷いた。
もう焦るつもりはなかった。
急ぐことと、急ぎ過ぎることは違う。
第一星環で、その違いは嫌というほど思い知った。
エルディオンはやり取りを静かに聞いていたが、不意に小さく笑った。
「じゃあ、目的地は決まりだね。」
肩の力が抜けるような、いつもの口調だった。
その一言だけで、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
アルノは思わず笑みを浮かべた。
本当に、この人は変わらない。
初めて出会った日、何でもないことのように「世界を救いに行こうか」と笑った時と同じだった。
窓の外では、夕陽がゆっくりと西の海へ沈もうとしていた。
イオ島。
五百年前には人々が暮らし、今は死の島と呼ばれる島。
その地下には、まだ誰も知らない星環が眠っているのかもしれなかった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




