休息の時間
十日ぶりに目覚めた次の日、窓から差し込む柔らかな朝日が部屋を照らしていた。
アルノはゆっくりと目を開け、木造りの天井をぼんやりと見上げる。
昨日より身体は少し軽くなった気がしたが、布団から身を起こしただけで腕にも足にも思うように力が入らなかった。
十日間眠り続けていた身体は、一日休んだ程度では元へ戻らないらしい。
深く息を吸い、ゆっくりと床へ足を下ろす。
立ち上がることはできたものの、身体の芯にはまだ鉛を抱えているような重さが残っていた。
一歩踏み出すたびに足へ力を込め直さなければならず、普段なら意識もしない動作が妙にぎこちない。
焦る必要はないと頭では分かっている。
それでも、自分の思うように身体を動かせないことが少しだけ悔しかった。
第一星環を閉じることはできた。
けれど、その代償は決して小さくなかったのだと、改めて思い知らされる。
その時、部屋の扉が軽く叩かれた。
「起きてる?」
聞き慣れた声とともにリネが姿を見せる。
蜜茶色のポニーテールを揺らしながら部屋へ入ってくると、アルノが立っている姿を見て小さく頷いた。
「昨日より顔色いいね。」
「そうかな。」
リネはほっとしたように小さく息を吐いた。
「ちゃんと起きてくれて、本当に良かった。」
「え?」
「十日も起きないんだもん。」
少しだけ視線を逸らし、照れ隠しのように続ける。
「毎朝、今日こそ起きるかなって見に来てたんだから。」
アルノは思わず言葉を失った。
「……ごめん。」
「謝るなら、次から無茶しないこと。」
そう言ってリネはいつもの調子に戻る。
「歩けそう?」
アルノは一度自分の足元を見つめ、小さく息を吐いた。
「やってみる。」
二人は宿の廊下へ出た。
ゆっくりと一歩踏み出す。
続けてもう一歩。
歩けないわけではないが、数歩進んだだけで身体が重くなり、呼吸も少しずつ浅くなっていく。
十日という空白は、アルノが思っていた以上に大きかった。
リネは何も言わず、その半歩後ろを歩いている。
手を貸すことはしない。
それでも、もしふらつけばすぐ支えられる距離だけは崩さなかった。
「無理しないで。」
「うん。」
短い返事だけで十分だった。
廊下の窓から外を眺めると、町はいつも通りの朝を迎えていた。
店先では開店の準備が始まり、荷馬車が石畳をゆっくりと進んでいく。
子どもたちの笑い声が風に乗って聞こえ、焼き立てのパンの香りがどこからともなく漂ってきた。
第一星環で何が起きたのか、この町の人々は知らない。
それでも、こうして穏やかな朝を迎えられている。
その景色を見つめながら、アルノは胸の奥で静かに息をついた。
閉じれたんだ。
その実感が、ようやく心へ染み込んできた。
朝食を終えた頃、レグルスが宿の一室へやって来た。
銀縁眼鏡の位置を整えながら机へ資料を置き、いつもの落ち着いた口調で言う。
「体調を確認します。」
「お願いします。」
アルノが椅子へ腰掛けると、レグルスは脈拍や瞳の反応、魔力量の状態を順番に確認していく。
さらに神代文字を見た時の頭痛や耳鳴りの有無まで細かく質問し、その結果を一つずつ手帳へ書き留めていった。
「歩行状態は昨日より改善しています。」
手帳へ視線を落としたまま静かに続ける。
「頭痛は。」
「ありません。」
「耳鳴りは。」
「少しだけあります。」
「神代文字を見た際の違和感は。」
「今は大丈夫です。」
レグルスは小さく頷き、最後の一行を書き加えた。
「身体の回復は順調です。」
アルノはほっと肩の力を抜く。
部屋の空気が少しだけ静かになる。
「今回の昏睡は、第一星環起動時の過剰な魔力消費が原因です。」
レグルスは淡々と告げた。その口調に責める色はない。ただ事実を積み重ねているだけだからこそ、その現実は重く胸へ落ちてくる。
アルノは小さく頷いた。
「……分かっています。」
「今日は無理をしないでください。」
「はい。」
レグルスは小さく頷き、手帳を閉じた。
「では、また後ほど。」
レグルスが部屋を出ると、宿の中は再び静けさを取り戻した。
リネも「あとでご飯持ってくるね」と言い残し、宿の食堂へ向かう。
部屋にはアルノ一人だけが残った。
窓の外では、夕暮れがゆっくりと町を染め始めている。
宿屋の二階。
外からは馬車の車輪が石畳を転がる音や、人々の話し声が微かに聞こえてきた。
第一星環のすぐ近くとは思えないほど、穏やかな時間が流れている。
自分は十日間眠っていた。
でも世界は、その間も止まらなかった。
当たり前のことなのに、不思議と少しだけ寂しかった。
その時、扉が軽く叩かれる。
「暇?」
返事をする前に、エルディオンが部屋へ入ってきた。
「暇です。」
「良かった。」
勝手に椅子へ腰を下ろす。
いつもの調子だった。
しばらく二人とも何も話さない。
それでも、不思議と気まずくはない。
アルノは窓の外を眺めたまま、小さく口を開いた。
「僕もエルさんみたいなら良かったです。」
ぽつりと漏れた言葉だった。
言ってから、少し後悔した。
情けない。
十日も寝込んで、みんなに心配をかけて、それでもまだ自分に足りないものばかり数えている。
エルディオンは首を傾げた。
「どんな?」
「強くて」
「うん」
「魔力も多くて」
「うん」
「倒れたりしなくて」
少しだけ笑う。
笑ったつもりだった。
うまく笑えたかは分からない。
「何でもできるじゃないですか」
エルディオンは黙った。
否定すると思った。
そんなことないよ、と軽く笑うと思った。
でも違った。
本当に考えているみたいだった。
やがて、少し困ったように笑う。
「やだなぁ」
「え?」
「アルノはアルノのままがいいよ」
アルノは顔を上げた。
「どうしてですか」
エルディオンはしばらく考えた。
いつものように、適当に答えることもできたはずだ。
でもそうしなかった。
窓から入る夕方の光が、銀髪の輪郭を柔らかく照らしている。
「神代文字読んでる時のアルノ好きだし」
アルノは固まった。
一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「楽しそうだから」
軽い声だった。
「分からないもの見つけると目が変わるし、新しい文字見つけると嬉しそうだし、遺跡見つけた時もそうだった。見てて面白いんだよね」
アルノは何も言えなかった。
ずっと、変だと思ってた。
人と違うものが見える。
接続がみえる。
魔法陣の線の意味が気になって仕方がない。
それを気味悪がられたことはある。
面倒だと言われたこともある。
見習いのくせに余計なことを言うなと怒られたこともある。
でも。
楽しそうだと言われたのは初めてだった。
「そんなの関係ないです」
思わず言った。
声が少し震えた。
「結局、僕は十日寝てたんですよ」
それが現実だった。
神代文字が読めても、接続が見えても、閉じ方が分かっても、身体が追いつかない。
エルディオンは黙った。
優しい顔になった。
「関係あるよ」
静かな声だった。
「楽しそうに魔法陣を見てるところ、僕は好きだけどな。」
アルノは言葉を失った。
胸の奥が少し熱くなる。
どう返せばいいのか分からない。
嬉しいと言えば変な気がした。
恥ずかしいと言うのも違う。
ただ、今までずっと自分でも持て余していた部分を、誰かがちゃんと見ていたのだと思った。
しかもそれが、エルディオンだった。
「でも魔力量は欲しいです」
真顔で言った。
一拍置いて、エルディオンが吹き出した。
「あはは」
「笑うところですか」
「ううん。それはそうだと思って」
エルディオンはまだ笑っている。
「魔力量は欲しいね」
「はい」
「どうにかしようか」
エルディオンは立ち上がる。
「今日はもう休もう。」
「はい。」
「明日、少し試してみようか。」
「試す?」
「魔力の使い方。」
アルノは首を傾げる。
エルディオンはそれ以上説明せず、小さく笑った。
「たぶん、今までより楽になるよ。」
そう言い残して部屋を出ていく。
残されたアルノは、その背中を見送りながら静かに息を吐いた。
魔力量は変わらない。
それでも、エルディオンがそう言うなら。
少しだけ、信じてみようと思えた。
◇
翌朝
宿の裏手へ出ると、小さな石畳の広場が朝の光に照らされていた。
夜露を含んだ草が風に揺れ、木々の枝葉を抜けた木漏れ日がまだら模様を地面へ落としている。
宿の賑わいもここまでは届かず、聞こえるのは鳥のさえずりと葉擦れの音だけだった。
エルディオンは広場の中央まで歩くと、石畳へしゃがみ込み、指先で静かに線を描いていく。
淡い光を帯びた魔力が白い石の上を滑り、小さな魔法陣がゆっくりと姿を現した。
複雑な術式ではない。
見習いでも扱える、ごく基本的な魔法陣だった。
描き終えたエルディオンは立ち上がり、その術式を見下ろしながら穏やかに笑う。
「今日は魔法そのものじゃない。」
エルディオンは穏やかに笑う。
「魔力の使い方を覚えよう。」
そう言うと、エルディオンは魔法陣へわずかに魔力を流し込む。
術式が淡く輝き、静かな光が円を描くように広がった。
それだけだった。
エルディオンから魔力が流れ続けている気配は、もうない。
それでも魔法陣は安定した光を保ち、自律するようにゆっくりと回転を続けていた。
アルノは思わず目を見開く。
「……魔力を止めた。」
「うん。」
エルディオンは魔法陣から目を離さず、小さく頷いた。
「術式は、一度動き始めれば自分で動ける。」
その言葉に、アルノは第一星環での出来事を思い返す。
起動したあとも、自分は最後まで魔力を流し続けていた。
術式を支えていたつもりだった。
だが実際には、術式そのものはすでに動き始めていたのかもしれない。
「アルノは最後まで支えようとする。」
エルディオンは静かな口調で続けた。
「それは悪いことじゃない。でも、そのせいで必要以上に魔力を使ってる。」
アルノは魔法陣を見つめたまま、小さく息を吐く。
言われてみれば、その通りだった。
魔法陣が完成するまでではなく、終わる瞬間まで、自分はずっと魔力を流し続けていた。
第二星環でも。
第一星環でも。
知らず知らずのうちに、それが当たり前になっていた。
「一回やってみようか。」
アルノは静かに頷き、石畳へしゃがみ込む。
深く息を吸い、術式を組み立てる。
だが、身体は勝手に魔力を流し続けてしまった。
「惜しい。」
エルディオンは小さく笑う。
「癖になってるね。」
アルノは恥ずかしそうに視線を伏せた。
もう一度、術式を組み直す。
今度は術式が動き始めた瞬間だけを見極める。
そこで意識して魔力を切った。
魔法陣は揺らぐことなく静かに回り続ける。
アルノは思わず息を呑んだ。
自分の魔力は、もう流れていない。
それでも術式は止まらなかった。
「……できた。」
驚いたように呟くと、エルディオンは満足そうに目を細めた。
「そう。それが術式を信じるってこと。」
アルノは回り続ける魔法陣を見つめた。
「じゃあ……神代魔法も同じように魔力を止められるんですか?」
エルディオンは少しだけ考え、それから首を横に振った。
「うーん、それは分からない。」
「分からない?」
「少なくとも、星環は別物だった。」
穏やかな口調のまま続ける。
「第一星環は術式を起動したあとも、施設そのものが君の魔力を取り込み続けていた。あれは普通の魔法とは構造が違う。」
アルノは第一星環での感覚を思い出す。
胸の奥から、際限なく魔力が引き抜かれていった、あの感覚だった。
「あれは、僕が魔力を流し続けていたからじゃ……。」
「違う。」
エルディオンは静かに首を振る。
「君が止めても、たぶん吸われてた。」
その一言に、アルノは息を呑んだ。
「だから今回教えたのは、普通の術式の使い方。」
エルディオンは石畳へ描かれた魔法陣へ視線を落とした。
「普段の無駄な消費を減らせれば、その分だけ最後まで残せる魔力は増える。星環でも、その積み重ねはきっと無駄にならない。」
アルノはもう一度、石畳の魔法陣へ視線を落とした。
深く息を吸い、術式へ必要な分だけ魔力を流す。
淡い光が線を巡り、魔法陣が静かに起動する。
その瞬間を見極め、アルノは意識して魔力を止めた。
魔法陣は揺らぐことなく、静かな光を保ったまま回り続ける。
「……今度は自然にできた。」
思わず漏れた声に、エルディオンは穏やかに頷いた。
「うん。その感覚を忘れなければ大丈夫。」
アルノはゆっくり息を吐く。
魔力量は変わらない。
けれど、魔力の使い方は変えられる。
その小さな違いが、いつか自分を助けてくれるのかもしれない。
そんなことを考えた、その時だった。
「また考えてる。」
エルディオンが苦笑する。
図星だった。
アルノは照れたように笑い返した。
「顔に出てましたか。」
「うん。」
エルディオンは肩をすくめた。
「終わったことを考えても、あの時には戻れない。」
そう言って空を見上げる。
朝の陽射しを受けた銀髪がさらりと揺れ、白い花を思わせる淡い香りが風に乗って流れた。
「でも、次は変えられる。」
アルノもつられるように空を見上げる。
雲一つない青空が広がっていた。
第一星環で得た経験も。
十日間眠り続けたことも。
無駄ではなかったのかもしれない。
そう思うと、胸の奥に張りついていた重苦しさが少しだけ軽くなった。
「もう一回やってみます。」
アルノは石畳へ向き直る。
今度は迷わなかった。
術式を組み立て、必要な分だけ魔力を流す。
起動を確認すると、静かに魔力を切る。
魔法陣は乱れることなく光を保ち続けた。
先ほどよりも自然だった。
エルディオンは満足そうに頷く。
「うん。今の方がずっといい。」
その一言だけで十分だった。
アルノは小さく笑う。
魔力量は増えていない。
それでも、戦い方は変えられる。
そんな小さな希望が、胸の奥で静かに芽吹き始めていた。
その日の昼過ぎまで、アルノは何度も同じ術式を繰り返した。
複雑な魔法ではない。
見習いでも扱える初歩的な魔法陣ばかりだ。
それでも、魔力を必要以上に流さず、術式が動き始めた瞬間を見極めて手を離すという感覚は、思っていた以上に難しかった。
最初は止めるのが早すぎて術式が崩れた。
次は逆に遅すぎて、余計な魔力を流してしまう。
何度も失敗を繰り返しながら、それでも少しずつ身体が感覚を覚えていく。
「……今の。」
エルディオンが穏やかに口を開く。
「かなり良かった。」
アルノは石畳へ描いた魔法陣を見つめた。
術式は安定して光を保ち、静かに役目を果たし続けている。
自分の魔力は、もう流れていない。
それでも止まらない。
その当たり前の事実が、アルノには新しい発見だった。
「同じ魔法なのに……。」
思わず呟く。
「こんなに違うんですね。」
「魔法は変わってないよ。」
エルディオンは笑う。
「変わったのは、アルノ。」
その一言に、アルノは照れたように苦笑した。
ほんの少しだけ。
それだけなのに、身体へ残る疲労感は最初とは比べものにならないほど軽い。
魔力量そのものは増えていない。
それでも、使い方を変えるだけで、ここまで変わるのか。
第一星環で倒れた自分を思い返しながら、アルノは静かに息を吐いた。
あの経験も無駄ではなかったのだと思えた。
昼食を終えたあと、一行は宿の食堂でゆっくりとした時間を過ごしていた。
昼時を過ぎた店内は落ち着いており、旅人たちも思い思いに食事や休憩を楽しんでいる。
窓から吹き込む風が心地よく、第一星環の地下で感じた重苦しい空気が嘘のようだった。
リネはスープを飲みながら、ちらりとアルノを見る。
「顔色戻ってきた。」
「ほんと?」
「うん。いつもの感じ。」
「よかった。」
アルノはほっとしながらパンをちぎる。
まだ柔らかいものしか食べれないが、食欲も少しずつ戻ってきていた。
向かいではエルディオンがのんびりと紅茶を飲んでいる。
窓から差し込む陽射しを受けて銀髪が淡く輝き、その穏やかな横顔を見ていると、不思議とこちらまで肩の力が抜けていく。
「食べれるようになったなら安心かな。」
エルディオンが微笑む。
「体力も、そのうち戻るよ。」
「魔力量は変わりませんけどね。」
アルノが真顔で返すと、リネが思わず吹き出した。
「気にしてる。」
「気になりますよ。」
「まあ、それはそうだけど。」
そんな何気ないやり取りに、食堂の空気が少しだけ和らぐ。
その時だった。
食堂の入口が静かに開き、レグルスが姿を現した。
銀縁眼鏡の奥の灰紫色の瞳は真っ直ぐこちらを向いている。
その腕には何枚もの資料と、大きく丸められた一枚の地図が抱えられていた。
アルノはその様子を見て、自然と表情を引き締める。
レグルスが大量の資料を持ってくる時は、決まって何か大きな動きがあった時だった。
「戻りました。」
短く告げる声に、先ほどまでの穏やかな空気が静かに張り詰める。
レグルスはテーブルへ資料を置き、丸められていた地図をゆっくりと広げた。
そして、一同を見渡して静かに口を開く。
「邪竜の新たな目撃情報が入りました。」
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




