Purus
祭壇の間を出た頃には、外はすっかり夜になっていた。
地下区画の調査は、そこで打ち切られることになった。
守護者との戦闘で大きな負傷者は出なかったものの、祭壇の奥には未確認の術式や通路が残されている。
日が落ちてから無理に調査を続けるべきではないというセルドの判断に、異を唱える者はいなかった。
神官長セルドに先導され、一行は長い石階段を上っていく。
頭上へ埋め込まれた光石の淡い光だけが足元を照らし、静まり返った石造りの通路へ靴音が小さく響いた。
長い階段を上り切ると、開かれた扉の向こうには、星の瞬く夜空が広がっていた。
アルノは何度も背後を振り返った。
石階段の先はすでに薄暗く、祭壇の間を見ることはできない。
それでも、白い狼の姿をした守護者と、その奥から現れた石板の光景が、瞼の裏へ鮮明に残っていた。
祭壇の内側に封じられていた石板。
その表面へ、たった一語だけ刻まれていた神代文字。
Purus。
浄化。
意味は分かる。
文字を目にした瞬間、考えるより先に、その言葉が持つ意味が胸の奥へ流れ込んできた。
第二星環で見つけたNodusとOrdoに続く、三つ目の神代スペルだった。
だが、それ以上のことは何も分からない。
どのように使うのか。
本当に魔法として発動するのか。
そもそも、石板へ刻まれていた一語が、第二星環で見たものと同じ性質を持つのかさえ確かではなかった。
第二星環では、NodusとOrdoは巨大な神代魔法陣を構成する一部として存在していた。
床へ刻まれた同心円や導線、石柱へ並ぶ神代文字。
そのすべてが星環という施設へ繋がり、二つのスペルは術式を動かすための意味を担っていた。
今回は違う。
石板の周囲に、それと組み合わさる魔法陣はなかった。
少なくとも、アルノには見つけられなかった。
祭壇の内側に置かれていたのは、御神体として守られてきた一枚の石板だけだ。
Purus。
たった一語だけが、何千年もの間、守護者によって守られていた。
考え始めると、指先が無意識に動いた。
階段の手すりから手を離し、空中に点を置くように人差し指を動かす。
石板と祭壇、守護者、そして神殿全体を結ぶ見えない線を探すように、何度も指先で空間をなぞった。
「転ばないでね」
すぐ隣から、柔らかな声が飛んできた。
アルノが我に返ると、リネがこちらを見ていた。
光石の淡い明かりを受けた赤茶色のポニーテールが肩の後ろで揺れ、大きな琥珀色の瞳には心配そうな色が浮かんでいる。
「ご、ごめん」
「考えるのはいいけど、階段を上ってる時くらい足元も見ようね」
叱るというより、転ばないよう見守っている声だった。
リネはアルノが足を止めていないことを確かめると、自分も歩幅を緩めて隣を歩く。
先を行くセルドは二人の会話へ振り返ることなく、静かに階段を上っていた。
その背中は先ほどまでと変わらず落ち着いて見えたが、祭壇の中から御神体が見つかったことへの驚きは、まだ消えていないはずだった。
代々、地下区画を守るよう伝えられてきた。
理由は知らされていない。祭壇の中に何があるのかも、誰一人知らなかった。
ただ守ることだけが受け継がれ、その理由が今日、初めて形となって現れたのだ。
地上へ続く最後の扉が開くと、冷たい夜風が地下の空気を押し流した。
祈りを終えた参拝者たちの姿はすでになく、回廊の灯りが白い石造りの神殿を淡く照らしている。
セルドは地上へ戻ったところで立ち止まり、一行へ向き直った。
「本日の調査は、ここまでといたしましょう。祭壇の周辺については、明日以降、神殿の者たちとともに改めて確認いたします」
深く刻まれた皺の奥にある目が、一人ずつを静かに見渡す。
「石板は、神殿でお預かりします。あれが何であるか、私たちにはまだ分かりません。しかし、代々守れと伝えられてきたものを、この場所から持ち出すわけにはまいりません」
「それがいいと思います」
アルノは素直に頷いた。
石板を持ち出せれば、より詳しく調べられるかもしれない。
だが、それは神殿が何千年も守ってきた御神体でもある。調査のためとはいえ、自分たちだけの判断で外へ運んでよいものではなかった。
セルドは少しだけ表情を和らげた。
「必要であれば、いつでも祭壇へご案内いたします。写しを取ることにも異論はございません」
手で直しながら顔を上げると、少し離れた場所に立つエルディオンが目に入った。
回廊へ灯された明かりが長い銀髪を淡く照らし、その光を映した碧眼は静かな落ち着きを湛えている。
何も考えていないように見える時でも、その瞳だけは祭壇で見た光景を一つひとつ整理しているようだった。
アルノが名残惜しそうに地下へ続く入口へ視線を戻した、その小さな仕草を見逃さなかったのだろう。エルディオンはふっと笑う。
「気になる?」
「……はい」
隠しても仕方がなかった。アルノは小さく笑いながら答える。
「かなり」
「うん。顔に出てる」
エルディオンはそれだけ言うと、ふっと目元を和らげた。
からかわれたわけではない。
神代文字や魔法陣を前にすると、アルノが他のことを忘れてしまうのを、エルディオンは誰よりよく知っている。
そのことを面白がりながらも、止めようとはしなかった。
「写しを取っておこうか」
「いいんですか?」
「忘れないうちに描いた方がいいでしょ。アルノ、今夜ずっと考えるつもりだし」
「……そこまで分かります?」
「分かるよ」
アルノは少しだけ頬が熱くなるのを感じ、視線を逸らした。
すぐそばでリネが小さく笑っていたが、何も言わずにいてくれた。
その夜、一行へ用意された神殿の客室には、静かな灯りがともっていた。
古い石壁に囲まれた質素な部屋だったが、掃除は行き届いている。
窓辺には小さな花瓶が置かれ、白い花が一輪だけ挿されていた。
外からは風に揺れる木の葉の音と、ときおり回廊を歩く神官の足音が聞こえてくる。
部屋の中央に置かれた机には、一枚の紙が広げられていた。
アルノが祭壇で見た石板を書き写したものだ。
紙の中央には、神代文字でPurusと記されている。
石板の傷や文字の深さまでは再現できなかったが、線の角度や配置は記憶に残っていた。
アルノは何度も筆を止め、頭の中に浮かぶ文字と見比べながら、できるだけ正確に書き写した。
本物の石板は神殿の最奥へ戻されている。
数千年前から残る神代文明の遺物であり、神殿が守り続けてきた御神体だ。
調査のためとはいえ、持ち出すという選択肢は最初からなかった。
レグルスは机の正面に座り、細い指で銀縁眼鏡の位置を整えた。
淡い金髪の隙間から覗く灰紫色の瞳が、紙へ書かれた文字を静かに追っている。
すぐに意見を口にせず、線の形、文字の配置、石板が置かれていた状況を一つずつ頭の中で整理しているようだった。
観測した事実と推測を混ぜない。
それは旅に加わった頃から変わらない、レグルスの研究者としての姿勢だった。
「どう思います?」
待ち切れず、アルノが尋ねる。
レグルスは紙から目を離さないまま、少しだけ考えた。
「神代スペルである可能性は高いと思います」
「可能性、ですか」
「断定するには材料が足りません」
淡々とした即答だった。
石板へ神代文字が刻まれていたこと。
それを神代術式による守護者が守っていたこと。
アルノには、その意味が自然に理解できたこと。
どれも神代スペルである可能性を示しているが、それだけで確定とは言えないらしい。
机の脇に立っていたリネが、少し困ったように笑った。
「レグルスって、そこだけは絶対に譲らないよね」
「事実と推測を分けるのは必要です」
「うん。分かってるよ」
リネは反論することなく、アルノの前へ温かい茶を置いた。
地下から戻ってから、ほとんど何も口にせず写しを取っていたことに気付いていたのだろう。
「少し飲んで。冷める前にね」
「ありがとう」
カップを両手で包むと、冷えていた指先へじんわりと熱が戻ってくる。
香草の穏やかな香りが立ち上り、張り詰めていた思考がほんの少しだけ緩んだ。
それでも、視線はすぐ紙へ戻る。
Purus。
浄化。
意味は不思議なほど自然に分かる。
辞書で単語を覚えた時とは違う。
文字を見た瞬間、その言葉が含んでいる意味が、最初から自分の中にあったもののように理解できる。
しかし、理解できるのはそこまでだった。
NodusやOrdoとどのように違うのか。
単体で発動するのか。
何を対象とし、何をもって浄化とするのか。考えても答えは出ない。
机の端へ置いたアルノの指が、無意識に動き始めた。
紙へ触れることなく、文字の周囲へ見えない点を置く。
その点同士を結び、魔法陣として成立する形を探すように、何度も小さな線を描いた。
だが、どれだけ組み替えても、Purusの周囲に必要な構造が見えてこない。
「使ってみれば?」
リネが言った。
あまりに自然な提案だったため、アルノはしばらく意味を理解できなかった。
顔を上げると、琥珀色の瞳がまっすぐこちらを見ている。
「そんな簡単に言うけど……」
「でも、気になるんでしょ」
アルノは返事に詰まった。
否定できない。
地下から戻って以来、頭の中にあるのはPurusのことばかりだった。
意味を知った以上、実際に何が起きるのか確かめずに眠れるとは思えない。
窓辺で静かに紅茶を飲んでいたエルディオンも、机の方へ目を向ける。
長いまつげの下で、碧い瞳がわずかに楽しそうな色を帯びた。
「僕も気になる」
「エルさんまで……」
「せっかく見つけたんだし、何もしないまま眺めてる方が難しいでしょ」
その言葉は、アルノの性格をよく理解した上でのものだった。
紙へ視線を戻す。
Purus。
浄化。
単純に汚れを落とすことなのか。
毒や病を取り除くのか。魔力へ作用するのか。
それとも、第二星環で経験したように、神代文明独自の意味が含まれているのか。
「検証は必要です」
レグルスが静かに口を開く。
「ただし、対象と距離を限定した上で行うべきです。第二星環でアルノさんの魔力が大量に失われたことを考えれば、発動した場合の消費量も観測しなければなりません」
「やっぱり、そうなりますよね」
「当然です」
こちらも迷いのない返事だった。
リネは机へ手をつき、アルノの顔を覗き込む。
「怖いなら、明日にしてもいいよ」
「……少し怖い」
アルノは正直に答えた。
第二星環で神代スペルを読んだ時の感覚は、今も鮮明に残っている。
底の見えない穴へ魔力を吸い込まれていくような感覚。
指先から体温が失われ、立っていることさえできなくなった。
目を覚ましたのは三日後だった。
もしPurusも同じなら、また倒れるかもしれない。
それでも、試してみたいという気持ちは消えなかった。
「でも、確かめたい」
アルノがそう答えると、リネは無理に止めなかった。
小さく頷き、机から離れる。
「分かった。じゃあ、私も一緒に行く。少しでも変だと思ったら、すぐやめようね」
「うん」
リネは、何でも代わりに決めるわけではない。
アルノが迷っている時は待ち、決めた後は隣へ立つ。
それが昔から変わらない彼女の優しさだった。
結局、Purusの実験はその日のうちに行われることになった。
選ばれた場所は神殿の裏手にある、小さな石碑の並ぶ区画だった。
祈りの場からは離れており、この時間に人が訪れることもない。
念のためセルドへ事情を説明し、周囲へ立ち入らないよう神官たちにも伝えてもらった。
夜の空気は冷たく、山から吹き下ろす風が木々の枝を揺らしている。
雲の切れ間から覗く月は細く、神殿の白い壁を淡く照らしていた。
エルディオンが浮かべた光球が、石碑の周囲を柔らかく照らす。
並んでいる石碑は、どれも長い年月を経ていた。表面は風雨に削られ、角が丸くなっている。試験対象に選んだ一基には、黒い雨染みが何本も垂れ、石の白さを覆っていた。
「これなら、変化が分かりやすいですね」
レグルスは石碑の前へしゃがみ込み、表面の状態を確認した。
指先で汚れの一部へ触れ、紙へ簡単な記録を残していく。
「表面の黒ずみは、雨水と土埃によるものと思われます。石材そのものにも欠けと摩耗があります。発動後にどこまで変化するか確認します」
アルノは数歩離れた場所で、写しを取った紙を開いた。
Purus。
神代文字を目にした途端、灰銀色の瞳へ光球の明かりが映り込み、硝子のような銀色が静かに浮かんだ。
「緊張する?」
隣に立ったリネが、小さな声で尋ねる。
「少し」
心臓が速い。紙を持つ指先へ力が入り、古いローブの袖が手の甲までずり落ちていることにも気付かなかった。
その手へ、白い指先がそっと触れた。
エルディオンが紙の端を軽く押さえている。
強く握ったわけではない。
ただ、アルノが紙を落とさないよう支えるような触れ方だった。
「無理に成功させなくていいよ」
穏やかな声だった。
「何も起きなかったら、それも分かったことの一つだから」
アルノは少し驚き、エルを見上げた。
深い碧眼には焦りも期待もない。ただ、アルノがどうするかを静かに待っている。
「……はい」
息を整え、石碑へ向き直った。
最初は、文字の意味だけを意識した。
浄化。
汚れをなくす。
そう考えながら、神代文字へ自分の魔力を重ねる。喉の奥で音を確かめ、ゆっくりと発音した。
「Purus」
声は夜の静けさへ溶けた。
何も起きなかった。
石碑は黒い雨染みに覆われたまま、光を宿すこともない。
風が木々を揺らし、遠くで夜鳥の鳴く声がしただけだった。
アルノはしばらく石碑を見つめたが、どれだけ待っても変化は現れない。
「発光、魔力反応ともに確認できません」
レグルスが落ち着いた声で記録する。
リネはアルノの肩がわずかに落ちたことへ気付き、すぐには何も言わなかった。
失敗したと決めつけず、次の言葉を待っている。
「やっぱり違うのかな……」
アルノは紙へ視線を落とした。
神代スペルではなかったのかもしれない。
あるいは、魔法陣や別のスペルと組み合わせなければ発動しないのだろうか。
「もう一回やってみよう」
エルディオンが言った。
アルノが顔を上げる。
「何か違いました?」
「うん。文字を読んだだけに見えた」
「読んだだけ……」
「第二星環で使った時、アルノはNodusとOrdoの意味を掴んでたでしょ」
エルは石碑へ視線を向けたまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「あの時は、音を正しく発音したから動いたわけじゃない。アルノが言葉の意味を理解して、そこへ魔力を重ねたから反応したんだと思う 」
アルノは第二星環での出来事を思い返した。
Nodus。
結節。
離れたもの同士が交わり、力を受け渡す場所。
Ordo。
秩序。
乱れた流れを正し、あるべき並びへ戻すもの。
あの時は、文字を声に出しただけではなかった。
神代文字から流れ込んだ意味を受け止め、自分の中で形にした上で発音していた。
「神代スペルは、読むものじゃない」
エルディオンの碧眼がアルノを映す。
「その言葉が何を意味しているのか、ちゃんと理解した時に初めて応えてくれる。」
その言葉が、胸の中へ静かに落ちた。
アルノはもう一度、目の前の石碑を見る。
黒い雨染みは、長い年月の中で石碑へ付着したものだ。
石そのものではない。
けれど、欠けた角や表面を走る細かな傷は違う。
それは石碑が長い時を刻んできた証だった。
失われたものを戻すことと、余計なものを取り除くことは違う。
その瞬間、Purusという言葉の意味が、少しだけ鮮明になった。
浄化。
壊れたものを直すことではない。
本来そこにあるべきではないものだけを、静かに取り除く。
胸の奥に引っ掛かっていたものが、わずかにほどけた。
Purusという一語が、先ほどよりも深く自分の中へ沈んでいく。
アルノは一度目を閉じた。夜風の冷たさを頬に感じながら、呼吸を整える。
指先が空中へ上がった。
石碑の輪郭をなぞり、その表面へ付着したものだけを分けるように、見えない線を結んでいく。
石と汚れ。
残すものと、取り除くもの。
その境界を、自分の中で明確にした。
アルノは一度目を閉じ、Purusという言葉が持つ意味を胸の奥で理解する。
そこへ自分の魔力を静かに重ね、ゆっくりと目を開いた。
淡い灰銀色の瞳が、光球の明かりを受けて静かに輝く。
「Purus」
魔力を乗せた言葉が夜の静寂へ響いた瞬間、柔らかな白い光がアルノの指先から溢れ出した。
言葉へ重ねられた意味は明確だった。
強い光ではない。
夜の闇を押し退けるのではなく、包み込むような柔らかな光だった。
白い光は細い流れとなって石碑へ届き、その表面を静かに覆っていく。
誰も声を上げなかった。
光が触れた場所から、黒い雨染みが薄れていく。
一筋ずつ。
まるで水へ溶けるように黒ずみが消え、長い年月の間、汚れに覆われていた白い石肌が姿を現した。
やがて光が収まる。
夜の静けさが戻った。
石碑は、先ほどとはまったく違う姿になっていた。
「……消えた」
リネが小さく呟く。
レグルスはすぐに石碑へ駆け寄った。
灰色の外套の裾が地面を滑り、銀縁眼鏡の奥の瞳が珍しく大きく見開かれている。
石碑の表面へ指を滑らせ、何度も角度を変えて確認する。
紙へ残していた記録と見比べ、黒ずみがあった場所へ鼻先が触れそうなほど顔を近付けた。
「痕跡がありません」
声がわずかに上ずっていた。
「付着していた黒い汚れだけが除去されています。石材そのものに変化はありません」
アルノも恐る恐る石碑へ近付く。
先ほどまで表面を覆っていた黒い雨染みは、跡形もなく消えていた。
けれど、石の隙間へ根を張った苔はそのまま残り、欠けた角も戻ってはいない。
表面を走る細かな傷や、長い年月をかけて風雨に削られた丸みも変わらなかった。
しかし、その違いがはっきりしたことは大きかった。
浄めるべきものだけを見極め、静かに取り除く。
それだけ。
しかし、その違いがはっきりしたことは大きかった。
「アルノさん」
レグルスが勢いよく振り返る。
「魔力消費は?」
問われて初めて、アルノは自分の内側へ意識を向けた。
魔力は確かに減っている。指先から何かが流れ出た感覚もあった。
だが、第二星環の時とは比べものにならない。
足に力は入る。頭痛も吐き気もなく、意識もはっきりしている。
少し走った後のような疲労はあるが、立っていられないほどではなかった。
「減ってます」
アルノは驚きを隠せないまま答えた。
「でも、少しです。今すぐもう一度使えと言われても、たぶん使えると思います」
レグルスは黙って頷き、すぐに記録へ書き加える。
「第二星環で消費した魔力は、神代スペルを発動したためではなく、星環という巨大施設を起動したためだった可能性が高そうです」
「まだ可能性なんだ」
リネが穏やかに笑う。
「現時点では」
レグルスは紙から目を上げずに答えた。
けれど、その筆を動かす速さから、内心ではかなり興奮していることが伝わってくる。
エルディオンは少し離れた場所から石碑を眺め、満足そうに目を細めた。
「使えたね」
アルノは白くなった石碑を見る。
「……使えました」
口に出しても、まだ実感が追いつかない。
神代スペル。
Nodus。
Ordo。
そしてPurus。
神代文明の言葉が、少しずつ自分の中へ増えている。
文字の意味を知るだけではない。
その意味を理解し、自分の魔力を通して、現代の世界へ働きかけることができた。
嬉しさと同時に、わずかな怖さもあった。
神代文明が残したものへ近付くほど、自分が知らない領域も広がっていく。
たった一語の意味を誤れば、何が起きるのか分からない。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
石碑を見つめる灰銀色の瞳には、もう不安だけではなく、確かな光が宿っていた。
「第一星環周辺の異常にも、有効である可能性があります」
レグルスが記録の手を止め、静かに口を開く。
アルノはすぐには返事をしなかった。
頭に浮かんだのは、第一星環周辺について聞いていた情報だった。
黒く変色した森。異界エネルギーの漏出による影響。
Purusが取り除くのは、本来あるべきではないものだ。
もし、異界から流れ込んだ力が、この世界にとって異物として扱われるなら。
浄化できるかもしれない。
しかし、汚れた石碑と、広大な土地へ広がった異界エネルギーでは規模が違う。
対象の性質も、必要な魔力も分からなかった。
「試してみる価値はあります」
アルノは慎重に答えた。
「でも、効くとはまだ言えません。石碑の汚れと、第一星環の異常が同じものかも分からないので」
「その通りです」
レグルスはすぐに頷いた。
推測を推測のまま扱う。その姿勢は、アルノにも少しずつ身に付き始めていた。分からないものを無理に断定する必要はない。
ただ、分からないからこそ確かめに行く。
夜風が境内を抜け、木々の葉を揺らした。
リネはアルノの顔を覗き込み、体調に変化がないことをもう一度確かめると、ようやく肩の力を抜いた。
「倒れなくてよかった」
「僕もそう思う」
「本当に。三日も寝られたら、また心配するからね」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ」
柔らかく笑い、リネはアルノのローブの袖へ付いた土を軽く払った。
エルディオンはそんな二人を見ながら、白い石碑へ目を向ける。
「意味が分かれば使える。でも、言葉だけ知ってても動かない」
「はい」
「面白いね」
その言葉に、アルノも小さく笑った。
エルディオンにとっては、多くの魔法が簡単なものに見えている。
そんな彼が神代スペルを前にして、分からないことを面白いと言う。
それが少し嬉しかった。
自分だけが置いていかれているのではない。
エルディオンにも分からないものがあり、同じものを見ながら、一緒に答えを探している。
アルノは夜空を見上げた。
雲の切れ間には、数え切れないほどの星が広がっている。
王都では灯りに紛れて見えなかった星々が、神殿の上で静かに瞬いていた。
Purus。
神代文明が残した三つ目の言葉は、確かに自分の手の中にある。
その力が何のために生まれ、どこまで通用するのかは、まだ分からない。
それでも、立ち止まる理由はなかった。
次に向かうべき場所も、すでに決まっている。
第一星環。
神代文明の痕跡を辿り、その先にある答えを探す旅は、まだ始まったばかりだった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




