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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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黒変の森

 翌朝、一行はアルカ神殿をあとにした。


 神官長セルドをはじめ、神殿の者たちは石段の下まで見送りに来ている。

 朝の空気は澄み渡り、白い石造りの神殿は柔らかな陽光を浴びて静かに輝いていた。


「お気を付けて。」


 セルドは深く一礼する。


「御神体を見つけていただいたご恩は、神殿一同、生涯忘れることはございません。」


「こちらこそ、お世話になりました。」


 アルノも頭を下げた。

 祭壇の奥で見つけた石板。

 そこへ刻まれていた神代文字――Purus。

 アルカ神殿で手に入れた三つ目の神代スペルが、第一星環周辺で確認されている黒変にも通用するのか。

 その可能性を確かめるため、一行は再び南西遺跡群へ向かった。


 神殿を出てから数日。

 一行は街道を西へ進んだ。


 旅そのものは穏やかだった。

 だが、立ち寄る村々で耳にする話だけは共通していた。

 最近、森の魔獣が妙に荒れている。

 以前なら見かけなかった場所で姿を現し、人を襲うことも増えているという。

 不穏な話を聞きながら、アルノたちは旅路を急いだ。


 そして数日後。

 一行は再び、南西遺跡群へ続く山道へ足を踏み入れる。


 森は朝露に濡れ、柔らかな陽光を受けた木々が静かに枝を揺らしていた。

 頭上では幾重にも重なった葉の隙間から木漏れ日が差し込み、風が吹くたび、枝葉の擦れ合う音と鳥のさえずりが森の奥から静かに聞こえてくる。


 前に訪れた時と変わらない。

 少なくとも、そう見えた。


 アルノは何度も地図と周囲を見比べながら歩く。

 歩きながら、指先が無意識に空中をなぞった。


「何か気になる?」


 少し前を歩いていたエルディオンが肩越しに振り返る。

 朝日を受けた長い銀髪がさらりと揺れ、深い碧眼がアルノを映した。


「まだ分からないんですけど……。」


 アルノは森の奥へ視線を向ける。


「何か、落ち着かなくて。」


 エルディオンは否定も肯定もしなかった。

 小さく笑みを浮かべる。


「そういう勘って、案外当たるんだよね。」


 一拍置き、木々の向こうへ目を向けた。


「今日は面白いものが見られるかもしれない。」


「そんな予感がするんですか?」


「うん。」


 気負う様子もなく頷く。


「嫌な予感も一緒だけど。」


 その言葉に、誰も返事はしなかった。

 レグルスだけが地図を確認しながら静かな声で口を開く。


「この先が南西遺跡群です。」


 淡い灰紫色の瞳が前方へ向く。


「前回調査時には、周辺環境に目立った異常は確認されていませんでした。」


 一拍置き、続けた。


「ですが現在は、この一帯で黒変現象と魔獣の凶暴化が確認されています。」


 事実だけを積み重ねた報告だった。

 だからこそ、その言葉は重く胸へ響く。

 アルノは小さく息をつき、森の奥へ視線を向けた。


 しばらく歩いた、その時だった。


 木々の幹に、細い黒い筋が浮かんでいる。

 樹皮を這うように伸びる黒ずみ。

 根元の土にも、墨を滲ませたような黒い染みが静かに広がっていた。

 葉はまだ青さを残している。

 それでも、森全体から少しずつ生気が失われ始めていることは、一目で分かった。


 風が吹く。

 枝葉の擦れる音に混じり、森の奥から低い唸り声が聞こえてきた。

 前に訪れた時には聞こえなかった音だった。

 リネが静かに腰を落とし、森の奥へ視線を向ける。


「……魔獣。」


 次の瞬間、茂みを突き破るように一頭のウルフ型魔獣が飛び出した。

 目は濁り、牙を剥き出しにして一直線に飛びかかってくる。


「来る!」


 リネが一歩前へ出る。

 振り下ろされた前脚を身を沈めてかわし、そのまま踏み込みながら拳を突き上げた。

 魔獣は地面を転がり、なおも立ち上がろうとした。


「……まだ?」


 理性を失ったように、何度倒されても飛びかかってくる。

 エルディオンの指先から放たれた小さな光弾が魔獣の額を撃ち抜く。

 動きが止まり、森へ静寂が戻った。

 前に訪れた時には、こんな気配はなかった。

 レグルスは周囲を見渡しながら手帳を開く。


「報告どおりですね。」


 淡々とした口調だった。


「黒変は森全体へ広がり始めています。」


「魔獣も、その影響を受けている可能性があります。」


 アルノは近くの木へ歩み寄った。

 幹には細い黒い筋が幾筋も浮かび、樹皮の溝を縫うように伸びている。

 指先でそっと触れる。


 冷たい。

 だが、木そのものはまだ生きていた。


 枝先の葉は風を受け、小さく揺れている。

 完全に枯れてしまったわけではない。

 まだ間に合う。

 アルノはゆっくりと息を吸った。


「ここで試します。」


 エルディオンが小さく頷く。


「うん。」


「森そのものへ使うのは初めてだ。」


 アルノは木へ向き直った。

 胸の奥へ、神代文字を思い浮かべる。

 Purus。

 浄化。

 アルノは静かに手をかざす。

 神代文字の意味を胸の奥で理解し、その言葉へ自分の魔力を重ねた。


「Purus」


 魔力を乗せて発音した瞬間、柔らかな白い光が指先から溢れ出す。


 夜の検証で見たものと同じ光だった。

 光は幹を優しく包み込み、黒い筋へ静かに染み込んでいく。


 白い光が触れた場所から、黒ずみはゆっくりと薄れていった。

 樹皮を覆っていた黒は音もなく消え、本来の色が姿を現していく。

 やがて光が収まった。

 黒い筋は跡形もなく消えていた。


「……消えた。」


 リネが小さく息を漏らす。

 アルノも恐る恐る樹皮へ触れた。


 冷たさは残っている。

 だが、先ほどまで感じていた重苦しい気配は消えていた。

 レグルスはすぐに木の前へしゃがみ込み、樹皮や根元を細かく観察する。

 銀縁眼鏡の奥の灰紫色の瞳が、浄化された範囲を一つずつ確認していった。


「黒変は消失しています。」


 指先で樹皮をなぞる。


「木そのものへの損傷は確認できません。」


 記録を書き留めながら、小さく続けた。


「少なくとも、黒変に対してPurusは有効です。」


 アルノは胸をなで下ろした。


 石碑だけではない。

 生きた木にも効果があった。

 その事実だけでも、大きな収穫だった。

 エルディオンは長い銀髪を風に揺らしながら穏やかに笑う。


「思ったより素直に効いたね。」


「はい。」


 アルノもようやく表情を緩めた。

 その後も、一行は森の中を歩きながら黒変を調べていく。


 黒ずみを見つけるたび、アルノは立ち止まり、Purusを発動した。

 柔らかな白い光が木々を包み、黒い筋だけが静かに消えていく。

 浄化を終えた木々は、重苦しい空気を吐き出したように枝葉を揺らす。

 その周囲だけ、森へ流れる風が少しだけ軽くなった気がした。

 アルノは何度もPurusを使い続けた。

 足はしっかり地面を踏みしめ、意識もはっきりしていた。

 レグルスはその様子を一つひとつ記録していく。


「疲労感はありますか。」


「少しあります。でも、まだ使えます。」


「頭痛は。」


「ありません。」


「吐き気は。」


「ないです。」


 レグルスは静かに頷き、手帳へ書き加えた。


「神代スペル単独運用は安定。」


「継続使用も可能と判断します。」


 リネはそのやり取りを聞きながら、小さく笑う。


「思ったより使えるね。」


 アルノも頷いた。


「うん。」


 視線の先では、黒変を取り除いた木々が朝の風を受けて静かに枝葉を揺らしていた。

 黒変を見つけるたび、アルノは足を止める。

 胸の奥へ神代文字を思い浮かべ、その意味を静かに受け止める。


「Purus」


 柔らかな白い光が木々を包み込んだ。

 樹皮を這っていた黒い筋はゆっくりと薄れ、やがて本来の色を取り戻していく。


 調査は夕方まで続いた。

 浄化できた木は十数本。

 森全体から見れば、ごくわずかな範囲に過ぎない。

 それでも黒変が消えた場所だけは、周囲とは違う穏やかな空気が流れていた。


 日が西へ傾く頃、一行は森の合間の開けた場所へ簡易野営地を設けた。

 エルディオンが周囲へ静かに結界を展開すると、リネが焚き火へ鍋を掛ける。

 やがて温かなスープの匂いが辺りへ広がり、一行はようやく肩の力を抜いた。


「今日はよく頑張ったね。 」


 温かなスープを口へ運びながら、リネが笑う。

 アルノも頷いた。


「うん。」


「何度も使ったけど、大丈夫そう。」


 第二星環を起動した時のような激しい消耗はない。

 魔力は減っている。

 それでも、まだ立っていられる。

 レグルスは食事を終えると、静かに手帳を開いた。


「現在の感覚は。」


「七割くらい残ってると思います。」


「頭痛。」


「ありません。」


「吐き気。」


「ないです。」


 レグルスは静かに頷く。


「現時点では、神代スペル単独運用は安定していると考えてよさそうです。」


 その一文を書き終え、ようやく手帳を閉じた。

 焚き火の向こうでは、エルディオンが湯を沸かしている。

 炎に照らされた長い銀髪が柔らかな光を帯び、立ち上る湯気の向こうで深い碧眼が細められた。


「今日は安心して眠れそうだ。」


「そうですね。」


 アルノは焚き火を見つめながら答えた。

 Purusは確かに黒変へ作用した。

 その事実だけでも、ここまで来た意味はあった。


 静かな夜だった。

 森の奥から聞こえる獣の声も、昼間ほど近くは感じられない。

 焚き火の火が小さくはぜる音を聞きながら、一行はそれぞれ眠りについた。


 ◇


 翌朝、空が白み始めるより早く、アルノは野営地を出た。

 昨日最初にPurusを使った木の状態が気になり、自分の目でもう一度確かめておきたかったのだ。

 朝露に濡れた森は静かで、湿った土を踏むたびに足元から小さな音が返ってくる。

 枝葉の間から差し込む淡い光も、遠くで聞こえる鳥の声も、昨日と何も変わらないように思えた。


 だが、目的の木を見つけた瞬間、アルノの足は止まった。


「……え」


 昨日、黒ずみを取り除いたはずの樹皮に、細い黒い筋が再び浮かび始めていた。

 まだ色は薄く、浄化する前ほど広がってはいない。そ

 れでも、昨日にはなかった黒が樹皮の溝を這うように伸び、ゆっくりと幹を覆い始めている。

 アルノは駆け寄ると、黒ずみへ指先を触れた。

 見間違いではない。

 昨日Purusで取り除いたものと、同じ感触だった。


「レグルスさん!」


 声を聞いて、仲間たちはすぐに集まった。

 レグルスは事情を聞くより先に木の前へしゃがみ込み、樹皮の状態を確かめる。

 根元の土へ触れ、周囲の木々にも視線を巡らせたあと、昨日の記録と見比べながらしばらく黙って観測を続けた。


「浄化そのものは成功しています」


 やがてレグルスは立ち上がり、黒い筋へ視線を向けたまま続ける。


「昨日の記録では、黒変は一度完全に消失しています。Purusの効果が切れて元へ戻ったのではなく、同じ場所へ新たな黒変が生じたと考える方が自然でしょう」


 アルノは樹皮を見つめた。

 昨日、自分の手で確かに消した。

 それでも黒ずみは、また同じ場所へ広がり始めている。


「第一星環から異界エネルギーが漏れ続けているのであれば、浄化したあとも森は影響を受け続けます」


 レグルスは事実と推測を切り分けるように、慎重な口調で説明した。


「現時点では断定できませんが、黒変を生み出す供給源が残っている可能性は高いと思います」


 その言葉を聞いた瞬間、アルノの脳裏へ第二星環の光景がよみがえった。

 地下深くで開いていた裂け目と、そこから漏れていた異界エネルギー。

 目の前に現れた異常だけを取り除いても、流れそのものを止めなければ終わらなかった。


「……同じなんだ」


 小さく漏れた声に、リネがアルノへ顔を向ける。赤茶色のポニーテールが朝風に揺れ、琥珀色の瞳には心配と警戒が浮かんでいた。


「第二星環と?」


「うん。Purusで黒変は消せる。でも、森へ流れ込んでいるものが止まっていなければ、また同じ場所が侵される」


 アルノは黒い筋から森の奥へ視線を移した。

 木々の向こうには南西遺跡群があり、その地下深くには第一星環が眠っている。


「このまま浄化を続けても、終わらない」


 Purusが役に立たないわけではない。

 侵食された森を元へ戻すためには、きっと必要になる力だった。

 だが、それを使うのは原因を止めたあとでなければならない。

 今のままでは、黒変を取り除くそばから新しい侵食が広がり続ける。

 アルノの指先が、無意識に空中をなぞった。

 森の木々と地面、その先にある遺跡を繋ぐ見えない流れを追うように、点と点の間へ細い線を結んでいく。


「原因を止めないと、この森は元に戻りません」


 口にすると、胸の中で答えがはっきりと形を持った。

 エルディオンは少し離れた場所から、アルノが見つめる先へ目を向けていた。

 朝の光を受けた長い銀髪がさらりと揺れ、深い碧眼には穏やかさを残しながらも、すでに次に調べるべき場所を見定めたような鋭さが宿っている。


「じゃあ、確かめに行こうか」


 いつもと変わらない軽い口調だったが、その一言に迷いはなかった。

 レグルスは最後にもう一度黒変の状態を記録すると、静かに手帳を閉じた。


「昨日の浄化結果と、今朝の再発状況は記録できました。原因を特定するには、第一星環を再調査する必要があります」


 リネも森の奥へ視線を向け、周囲に魔獣の気配がないことを確かめてから頷く。


「じゃあ、ここで同じことを繰り返してても仕方ないね」


 誰も異を唱えなかった。

 一行は野営地へ戻ると、手早く荷物をまとめた。

 焚き火の跡を消し、周囲へ忘れ物がないことを確かめてから、南西遺跡群へ続く山道へ再び足を向ける。

 朝日に照らされた森は、一見すると静かだった。

 鳥の声も聞こえ、葉の間を吹き抜ける風も穏やかに感じられる。

 それでも、木々の幹には細い黒い筋が残っている。

 昨日浄化した場所にも新たな黒ずみが広がり、森の奥から染み出した何かが、今も少しずつ周囲を侵し続けていた。


 Purusによって、黒変を取り除けることは分かった。

 だが、それだけでは森は救えない。

 黒変を生み出し続ける原因を止めなければ、この侵食は終わらない。


 アルノは森の奥を見据えた。

 木々の向こうには南西遺跡群。

 その地下深くで、第一星環は変わらぬ沈黙を守っている。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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