神代スペル
翌日の午後。
「北部街道において周辺環境の変質を確認。街道は全面封鎖され、現在も調査が続けられています。」
レグルスの落ち着いた声が宿の一室へ響いた。
第二星環から持ち帰った神代文明の資料と、各地の魔術塔から届いた報告書が机いっぱいに広げられている。
羊皮紙へ並ぶ神代文字と現代文字。そのどちらも、世界で起き始めた異変を静かに物語っていた。
アルノは資料へ視線を落とす。
読み終えた束はまだわずかだ。それでも今は神代文字より、レグルスが読み上げる報告の方へ意識が向いていた。
レグルスは一枚報告書をめくる。
「西方フォーブス村では汚染区域の拡大を確認。住民は全員避難し、村は封鎖措置が取られました。」
さらに次の一枚へ移る。
「東部森林では魔獣の異常凶暴化を確認。王国と魔術塔による討伐隊が派遣されています。」
部屋が静まり返る。
どの報告にも共通しているのは、邪竜が現れたあと、その土地が急速に変質していることだった。
アルノの脳裏へ、第二星環で読んだ運用記録の一文がよみがえる。
――周辺環境の変質。
神代文明が警告として残した記録は、千年以上の時を越え、いま世界各地で現実になっていた。
アルノは報告書から目を離さないまま、小さく尋ねる。
「……邪竜は?」
レグルスは静かに首を横へ振った。
「目撃報告はあります。」
「ですが、魔術塔の調査隊が到着した時には、すでに飛び去っています。」
そう言って、一枚の地図を机へ広げた。
北部。
西部。
東部。
各地へ赤い印が記されている。
アルノは地図を見つめた。
規則性は見えない。
ただ、邪竜が世界中を飛び回っているという事実だけが、嫌というほど伝わってくる。
「現在も各地の魔術塔が追跡を継続しています。」
レグルスの細い指が地図の上を静かになぞる。
「位置を特定でき次第、各国へ一斉に通達が入る体制です。」
追っている。
けれど、追いつけない。
邪竜は一か所へ留まることなく飛び続け、その後には汚染だけが残されていく。
アルノはゆっくりと拳を握り締めた。
地図へ散らばる赤い印は、そのまま被害の数だった。
第二星環で読んだ資料には、外側エネルギーの流出が周辺環境を変質させると記されていた。
いま目の前に並ぶ報告書は、その記録が決して過去の出来事ではないことを示している。
レグルスはさらに一枚の報告書を取り出した。
「第一星環周辺でも新たな報告が届いています。」
「最初に行った南西遺跡群だよね。」
リネが身を乗り出す。
「はい。」
レグルスは報告書へ目を落とした。
「周辺の森林では汚染区域の拡大を確認。草木の黒変現象も進行しています。」
銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳が静かに細められる。
「私は、邪竜が通過した影響だけではなく、第一星環で確認した裂け目から漏出し続ける異界エネルギーの影響が大きいと考えています。」
一度言葉を区切り、続けた。
「第二星環と同様であれば、裂け目が閉じない限り、周辺環境は変質し続ける可能性があります。」
部屋から音が消えた。
邪竜が去ったあとも、汚染だけは広がり続ける。
それは各地で起きている被害とは、明らかに性質が違っていた。
「……だったら。」
自然と言葉が漏れる。
アルノはレグルスを真っ直ぐ見た。
「第一星環へ向かうのは、どうでしょう。」
部屋の空気がわずかに張り詰めた。
レグルスはアルノの視線を受け止めると、迷うことなく静かに首を横へ振る。
「現時点では推奨できません。」
感情ではなく、積み重ねた事実を告げる声だった。
「第二星環を閉じるだけで、アルノさんは三日間意識を失いました。」
アルノは小さく息を呑む。
反論はできなかった。
術式が起動した瞬間、身体中の魔力を根こそぎ奪われるような感覚に襲われた。意識が遠のき、目を覚ました時には三日が過ぎていた。その記憶は今も鮮明に残っている。
レグルスは地図の第一星環へ静かに指を置いた。
「第一星環では、第二星環以上の規模で外側エネルギーが流出している可能性があります。」
「現在の状態で向かったとしても、裂け目を閉じられる保証はありません。」
淡々とした口調は変わらない。
だが、その言葉には観測と分析を重ねた末の重みがあった。
「むしろ、第二星環以上の危険が予想されます。」
静寂が落ちる。
アルノは膝の上で拳を握り締めた。
行かなければならない場所は分かっている。
裂け目を閉じなければ、この先も被害は広がり続けるだろう。
それでも、今の自分では届かない。
リネはそんなアルノを横目で見つめ、小さく息をつく。
励ます言葉は口にしなかった。
焦っているのは誰よりアルノ自身だと分かっていたからだ。
机いっぱいに広がる資料へ視線を落とし、レグルスは静かに続ける。
「だからこそ、今は神代文明の解析を優先します。」
「裂け目を閉じる術式を増やすこと。」
「そして、アルノさんが神代スペルを安全に扱える方法を見つけること。」
一拍置き、結論を告げる。
「それが、第一星環へ向かうための最優先事項です。」
アルノはゆっくりと頷いた。
遠回りに思えた。
けれど、何の準備もないまま第一星環へ向かったところで、同じことを繰り返すだけだ。
それでは意味がない。
窓から吹き込んだ風が、机の上の羊皮紙をさらりと揺らした。
乾いた紙の擦れる音だけが、静かな部屋へ小さく響く。
アルノは息を整え、顔を上げた。
「……分かりました。」
淡い灰色の瞳には、もう迷いはなかった。
「今できることをやります。」
その言葉を聞き、レグルスは小さく頷く。
「では、本題へ入りましょう。」
そう言って一枚の羊皮紙をアルノの前へ差し出した。
「私が今、最も気になっているのは――神代スペルです。」
レグルスが差し出した羊皮紙には、第二星環で記録した術式の写しが並んでいた。
床いっぱいに刻まれていた神代文字。
アルノが読み上げた二つの神代スペル。
そして、第二星環で確認できた術式の構造も、可能な限り書き写されている。
アルノは資料へ目を落とした。
羊皮紙いっぱいに並ぶ神代文字を目で追う。
まだ読めない文字の方が多い。
それでも、第二星環で見た時とは何かが違っていた。
文字を追うたび、その意味だけが静かに頭へ流れ込んでくる。
輪郭しか掴めなかったものが、少しずつ形を持ち始めている。
考え込むうちに、右手の指先が無意識に宙を動いた。
点と点を結び、見えない線をなぞる。
頭の中で術式の構造を組み立てる時の、いつもの癖だった。
レグルスはもう一枚の資料を机へ広げる。
「第二星環で確認できた神代スペルについて整理しましょう。」
神代文字は、神代文明で使われていた文字である。
日誌も。
管理記録も。
観測報告も。
第二星環で見つかった資料は、すべて神代文字で記されていた。
その膨大な文章の中に、ごくわずかだけ、術式を起動させるためのスペルが含まれている。
現代魔術にもスペルは存在する。
だが、神代文字から読み取れるそれは、現代の術式とはまったく異なる体系だった。
それが、神代スペル。
レグルスは資料へ記された二つの文字を指し示した。
「Nodus。」
「Ordo。」
アルノは静かに頷く。
どちらも、神代文字へ触れた瞬間、意味とともに頭へ流れ込んできた言葉だった。
そして、その言葉は魔力を乗せた瞬間、術式の一部として機能する。
「現時点で確認できた神代スペルは、この二つだけです。」
レグルスは資料を閉じる。
「ですが――。」
一枚、別の報告書を開いた。
「大量の魔力を消費した原因は、現在も特定できていません。」
アルノは無意識に右手へ視線を落とした。
第二星環が起動した瞬間の感覚を思い出す。
底の見えない穴へ魔力を流し込み続けるような感覚。
どれだけ注いでも終わりが見えなかった。
あの恐ろしい感覚だけは、忘れられない。
リネは資料を見比べながら首を傾げる。
「つまり……神代スペルだけなら、そこまで魔力を使わない可能性もあるってこと?」
「その可能性はあります。」
レグルスは短く頷いた。
「第二星環は神代文明の大規模施設でした。」
「施設そのものが、莫大な魔力を必要としていた可能性も考えられます。」
その時だった。
「僕も、そう思う。」
穏やかな声が部屋へ響く。
窓際へ目を向けると、窓から吹き込む風に長い銀髪をさらりと揺らしたエルディオンが、小さく微笑んでいた。深い碧の瞳が資料へ向けられる。
「第二星環だけじゃ、比較できない。」
レグルスも静かに頷く。
「はい。」
資料を整えながら続けた。
「原因を切り分けるには、比較材料が必要です。」
「比較材料?」
リネが尋ねる。
「神代スペルを、星環とは異なる環境で調べられる場所です。」
レグルスは地図を一枚広げた。
中央には、一か所だけ印が記されている。
「ここです。」
アルノは思わず身を乗り出した。
「……神殿?」
「アルカ神殿です。」
レグルスは地図へ視線を落としたまま説明を続ける。
「古くから信仰が続く神殿で、何度も改築されています。」
「ですが、地下には神代時代の区画が残されているという記録があります。」
「神代文字が刻まれた石碑や祭壇が現存している可能性もあります。」
アルノの胸が高鳴った。
もし、神代魔法陣を起動させることなく神代文字だけを調べられるなら。
第二星環とは違う条件で、神代スペルを検証できる。
「第二星環だけでは、まだ足りません。」
レグルスは静かに言った。
「第一星環へ向かうためにも、まずは情報を集めるべきです。」
アルノは地図を見つめる。
迷いはなかった。
「……行きましょう。」
自然と言葉が口をついた。
レグルスは小さく頷く。
「準備を進めます。」
こうして四人は、新たな手掛かりを求め、アルカ神殿へ向かうことを決めた。
◇
三日後。
四人は宿を発ち、アルカ神殿へ向かう街道を歩いていた。
空は高く晴れ渡り、柔らかな風が草原を渡っていく。街道沿いには畑が広がり、遠くでは農夫たちが鍬を振るっていた。
穏やかな景色だったが、すれ違う旅人の姿は以前より少ない。
隊商の荷馬車には以前より多くの護衛が付き、誰もが周囲へ気を配りながら進んでいた。
邪竜の出現は、人々の暮らしを静かに変え始めている。
アルノは荷物から一冊の手帳を取り出した。第二星環で書き写した神代文字の記録だった。
歩きながら文字を追う。
すべての意味が分かるわけではない。
それでも、以前はただの文字だったものが、今は輪郭だけでも掴めそうな気がしていた。
考え込むたび、指先が無意識に宙で点と点を結び、見えない線をなぞっていく。
「歩きながら資料を見るのは禁止。」
優しい声とともに、手帳がひょいと取り上げられた。
振り向くと、赤茶のポニーテールを揺らしたリネが苦笑している。
「着いてから、ゆっくり読めばいいでしょ。」
「……うん。」
アルノは少気まずそうに笑い、小さく頷いた。
街道はやがて森へ入る。
木漏れ日が揺れ、小鳥のさえずりが枝の間を渡っていく。
どこか張り詰めた空気は残っているものの、森そのものは穏やかだった。
日が山の端へ沈む頃、四人は街道を少し外れた開けた場所で野営の準備を始めていた。
リネは手際よく焚き火を起こし、その上へ鍋を掛ける。
アルノは集めた薪を傍らへ積み上げ、レグルスは近くの沢で汲んできた水を静かに鍋へ注いだ。
夕暮れの風が森を抜け、焚き火の煙をゆっくりと運んでいく。
エルディオンは少し離れた切り株へ腰掛け、長い銀髪を風に揺らしながら三人の様子を穏やかに眺めていた。
「よし。」
リネは満足そうに頷くと、荷物の中から小さな革袋を取り出した。
「じゃーん。」
革袋の口を開く。
中には、小さな木筒がいくつもきれいに収められていた。
「携帯ハーブセット!」
アルノが目を丸くする。
「完成したんだ。」
「うん。」
リネは嬉しそうに頷いた。
「アルノのお母さんと一緒に考えたの。」
一本目の木筒を開ける。
爽やかな香りがふわりと広がった。
「これは肉料理用。」
次の一本を開ける。
「これはスープ用。」
さらにもう一本。
「こっちは焼いた野菜に合うんだよ。」
木筒を並べ終えると、少しだけ胸を張る。
「野営って、どうしても味付けが単調になりがちだから。少ない材料でも、おいしく食べられるようにしたかったの。」
リネはにっこり笑った。
「カッセル商会で販売中です。」
少しだけ間を置く。
「おかげさまで、結構売れてるんだ。」
アルノも思わず笑みを浮かべた。
「母さん、喜んでたもんね。」
「すっごく協力してくれたから。」
リネはそう言って鍋へ具材を入れ、迷いなく木筒から香草を振り入れていく。
その様子を見ていたレグルスが、静かに口を開いた。
「……計量はされないのですか。」
「しないよ。」
答えながら、リネはさらに木筒を傾ける。
レグルスは鍋へ視線を向けたまま続けた。
「毎回、分量が変わると思いますが。」
「大丈夫。」
リネは笑ったまま、水を少しだけ注ぎ足す。
「たいてい美味しくできるから。」
レグルスはしばらく鍋を見つめ、小さく頷いた。
「経験則、ということですね。」
「そういうこと。」
木杓子で鍋をゆっくりとかき混ぜる。
やがて、湯気とともに香草の豊かな香りが立ち上り、森の冷え始めた空気へ溶けていった。
焚き火の向こうで、その香りを静かに吸い込んでいたエルディオンが、小さく目を細める。
「いい匂い。」
リネは嬉しそうに振り返った。
「もう少しでできるよ。」
ほどなくして四人は焚き火を囲んだ。
一口食べたエルディオンが、小さく笑う。
「おいしい。」
その一言だけで、リネの表情がふっと和らぐ。
エルディオンはもう一口口へ運んでから、穏やかな口調で続けた。
「リネはかわいいし、料理も上手だし。」
「いい奥さんになりそうだね。」
リネは一瞬固まったが、すぐに肩をすくめる。
「エルさんって…」
「天然のたらしですよね。」
目を細めながら言った。
エルディオンは長い銀髪をさらりと揺らし、不思議そうに首を傾げる。
「そう?」
本気で分かっていないらしい。
アルノは思わず苦笑しながら、湯気の立つスープへ視線を落とした。
昔からリネは面倒見が良く、料理も上手だった。誰かに褒められるのは、自分のことのように少しだけ嬉しい。
レグルスは静かにスープを口へ運ぶ。
一口飲むと、そのままもう一口。
しばらく味を確かめるように黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「香草の風味が強すぎません。肉の旨味も損なわれていない。」
リネが目を丸くする。
「それって、褒めてる?」
「はい。」
短い返事だった。
その一言に、リネは嬉しそうに笑う。
「よかった。」
焚き火の火が小さく爆ぜ、橙色の光が四人の横顔を柔らかく照らした。
食事を終える頃には、森はすっかり夜の静けさに包まれていた。
見上げれば、雲一つない夜空いっぱいに星が瞬いている。
「きれい……。」
アルノは思わず足を止めるように空を見上げた。
こんなふうに何も考えず星を眺めるのは、いつ以来だろう。
邪竜を追う旅は危険ばかりだった。
それでも、仲間と火を囲み、穏やかな夜を過ごせる時間がある。
そんなことが、少しだけ嬉しかった。
レグルスは焚き火へ薪を一本くべる。
「明日にはアルカ神殿です。」
その言葉に、三人は静かに頷いた。
焚き火が、ぱちりと小さく爆ぜる。
エルディオンは満天の星空を見上げ、穏やかに微笑んだ。
「悪くないね。」
誰も言葉は返さなかった。
静かな夜風だけが森を渡り、夜はゆっくりと更けていった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




