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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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Nodus

 金色の瞳が、アルノを見ていた。


 裂け目でもない。

 エルディオンでもない。

 ただ静かに、その視線だけがアルノへ注がれている。


 背筋を冷たいものが走った。

 理由は分からない。

 けれど、何かを見抜かれたような感覚だけが胸の奥へ残る。


「アルノ!」


 エルディオンの声が地下空間へ響いた。


「やれ!」


 短い一言だった。


 同時に、邪竜が地を蹴る。

 轟音とともに白い石床が砕け、黒い巨体が一直線にアルノへ迫った。

 翼を広げることすらない。ただ踏み込んだだけで、景色が一瞬で塗り替わる。


「させない!」


 リネが飛び出した。

 赤茶色のポニーテールが大きく揺れ、小柄な身体がアルノの前へ滑り込む。

 拳を握り締め、真正面から迎え撃とうとする。


 だが、間に合わない。

 邪竜の方が速かった。

 金色の瞳は、一度もアルノから逸れない。


 その瞬間だった。

 白い閃光が二人の間へ割り込む。


 轟ッ――。


 爆炎が地下空間を埋め尽くし、邪竜の巨体を横から吹き飛ばした。

 黒い鱗が火花のように散り、衝撃波が白い石柱を震わせる。

 長い銀髪がゆっくりと揺れた。


「こっちだ。」


 穏やかな声だった。

 けれど、深い碧眼だけは笑っていない。


 邪竜が低く唸り、巨大な爪を振り下ろす。

 エルディオンは避けなかった。

 右手を静かに持ち上げる。

 白い炎が指先へ灯った。

 小さな火だった。

 だが次の瞬間、その一点へ圧縮されていた魔力が一気に解き放たれる。


 轟音。


 地下空間が白く染まった。

 邪竜の巨体が再び吹き飛び、床を削りながら何十メートルも滑っていく。

 砕けた黒い鱗が辺りへ飛び散り、石床へ深い傷跡を刻んだ。

 それでも、エルディオンは歩みを止めない。


 一歩。

 また一歩。


 爆炎の向こうへ静かに歩き続ける姿は、激戦の最中とは思えないほど自然だった。


 右手が再び上がる。

 白い光が集まる。

 次の一撃が放たれた。


 邪竜の左翼が大きく裂ける。

 続く魔法が右角を砕いた。


 さらにもう一撃。

 爆発が黒い身体を飲み込み、地下空間へ重い轟音が幾重にも響き渡る。


 アルノは思わず息を呑んだ。

 圧倒している。

 伝説の魔術師が、本気で邪竜を倒しにいっている。

 一撃ごとに致命傷だった。

 普通の魔獣なら最初の一撃で跡形もなく消えている。

 それほどの魔法が、容赦なく邪竜へ叩き込まれていく。


 それでも。

 邪竜は倒れない。


 裂けた翼を引きずりながら立ち上がり、折れた角のまま一歩、また一歩と前へ出る。

 その姿を見て、エルディオンは初めて小さく息を吐いた。


「……やっぱり。」


 視線がほんの一瞬だけ裂け目へ向く。

 裂け目から漏れ出す黒い力。

 傷つくたび、それが邪竜へ流れ込み、失われた身体を修復していく。

 何度倒しても終わらない。

 裂け目がある限り、この邪竜は立ち上がる。

 エルディオンはすぐに視線を戻した。

 迷いはない。

 邪竜を押さえ込みながら、短く叫ぶ。


「アルノ!」  


 白い閃光が再び地下空間を駆け抜ける。


「続けて!」


 アルノは大きく息を吸った。

 邪竜を見る。

 エルディオンを見る。

 そして、もう一度床へ視線を落とした。


 戦いの轟音は絶えない。

 石柱が砕ける音。

 魔法が弾ける音。

 邪竜の咆哮。

 そのすべてが地下空間へ響いている。


 それでも。

 床いっぱいに巡る光だけは乱れなかった。

 白い流れは神代文字を伝い、幾重にも重なる円環を巡り続けている。

 その流れを追っていく。


 ゆっくり。

 慎重に。


 すると、一か所だけ視線が止まった。

 他の文字と何も変わらない。

 形も。

 大きさも。

 刻まれた深さも。

 それでも。

 そこだけが、不思議と強く意識へ残る。


「……ここだ。」


 アルノは小さく呟いた。


 理由は説明できない。

 ただ、この術式はそこから始まる。

 そんな確信だけがあった。


 そっと指先を伸ばす。

 白い石床へ触れるように。

 神代文字へ指が重なった。

 ひやり、と冷たい感触が伝わる。


 何も起きない。

 一瞬だけ、そう思った。


 だが。

 足元の神代文字が淡く輝いた。


 小さな光だった。

 けれど、その光は隣の文字へ伝わる。


 一文字。

 また一文字。

 光はゆっくりと術式の中を走り始めた。


 床だけではない。


 壁。

 石柱。

 透明結晶。

 地下空間全体へ。


 まるで長い眠りから目覚めるように、星環全体へ淡い光が広がっていく。

 レグルスが息を呑んだ。


「動いた……。」


 誰に向けた言葉でもなかった。

 研究者としての、純粋な驚きだった。


 アルノは視線を離さない。

 流れが変わっていく。

 今まで別々だった線が、一つへまとまり始める。

 床いっぱいへ刻まれた神代文字が呼応し、透明結晶の内部で淡い光がゆっくりと脈打った。

 光の流れは、一つの神代文字へ収束していた。  


 アルノは静かに息を吸い、指先へ魔力を流す。  

 神代文字が淡く輝いた。


「――Nodus」


 神代語が口をついて出る。


 意識して選んだ言葉ではない。

 神代文字へ触れた瞬間、その音だけが頭の奥へ流れ込んできた。

 星環が応える。

 白い光が円環を巡り、裂け目の真下まで一気に駆け抜けていった。


 流れは止まらない。

 術式はまだ終わっていない。


 もう一つ。

 あと一つだけ。

 足りないものがある。


 アルノは光を追った。

 すべての流れは、透明結晶の中心へ集まっている。


 その奥。

 一つの神代文字が、静かに光を待っていた。


 意味は分かる。


 けれど。

 何を起こす文字なのかは、まだ分からない。


 それでも。

 アルノは迷わなかった。


 静かに息を吸う。

 そして、その神代文字を見つめた。

 アルノは静かに息を吸った。


 床いっぱいを巡る光は、すべてその神代文字へ集まっている。

 他の文字とは違い、術式全体がその一文字へ流れ込むように見えた。

 その神代文字だけは違った。

 “乱れたものを整える ” 

 そんな意味だけが静かに頭へ流れ込んでくる。

 その先に何が起きるのかは分からない。  

 それでもアルノは迷わなかった。


 指先へ、静かに魔力を流す。

 神代文字が淡く輝いた。


「――Ordo」


 神代語が地下空間へ響いた。


 その瞬間、透明結晶が眩い光を放った。

 床いっぱいに刻まれた神代文字が一斉に輝き、白い光が円環を駆け巡っていく。


 流れは壁を伝い、石柱を巡り、遥か頭上の天井へ伸びていった。

 地下空間全体が呼応するように震え、地の底から低い唸りが響く。

 裂け目の周囲で空間が揺らいだ。

 黒い雫が落ちるたびに乱れていた流れが、今度は白い光に押し戻されていく。


「……動いてる」


 レグルスの声が聞こえた。

 アルノは返事をしようとした。

 だが、その前に身体の奥から何かが一気に引き抜かれた。


「え……」


 魔力が星環へ流れ込んでいく。

 自分の意思で流した量とは比べものにならない。

 底の見えない穴に引きずり込まれるように、身体の奥にあるものが際限なく奪われていった。


「っ……!」


 胸の奥が焼けるように痛み、頭の芯へ鋭い熱が走った。

 視界が大きく揺れ、足先から少しずつ力が抜けていく。

 アルノは反射的に手を離そうとした。


 動かない。

 神代文字へ触れた右手が、床へ縫い止められたように離れなかった。

 魔力は止まらない。

 耳の奥で高い音が鳴り、地下空間の景色が白く霞んでいく。


「アルノ!」


 リネの声が聞こえた。


 けれど、遠い。

 まるで深い水の底から呼ばれているようだった。


 星環は動き続ける。

 透明結晶の中心で強い光が脈打ち、そのたびに白い波紋が地下空間全体へ広がっていった。

 裂け目が震える。

 黒い雫が止まり、細く開いていた空間の傷がゆっくりと縮み始めた。

 動いている。  

 星環が、確かに応えている。

 けれど、喜ぶ余裕はなかった。

 星環はまだ足りないとでもいうように、さらに魔力を求めてくる。


 鼻先へ温かいものが伝った。

 赤い雫が一滴、白い石床へ落ちる。

 視界が傾いた。


「アルノ!」


 リネが駆け寄り、アルノの腕を両手で掴んだ。


「手を離して!」


 離したい。

 けれど、離れない。

 アルノは身体を反らし、必死に右腕を引いた。

 それでも神代文字へ触れた手は動かず、魔力だけが容赦なく吸い上げられていく。

 裂け目は、ゆっくりと閉じていく。


 だが、その前にアルノの意識が遠のき始めた。


「リネ!」


 エルディオンの声が響く。


「引いて!」


 リネは歯を食いしばり、アルノの腕を抱え込むようにして全身を後ろへ反らした。


「離して……!」


 リネは声を上げながら、全身の力でアルノを後ろへ引いた。


 次の瞬間、アルノの右手が神代文字から弾かれる。  

 身体は勢いよく後ろへ倒れ込み、リネと一緒に白い石床へ転がった。


  同時に、地下空間を満たしていた低い唸りが途切れる。

 床を巡っていた白い光は静かに消え、石柱を走っていた輝きも一つ、また一つと薄れていった。


 残ったのは、閉じた裂け目と、耳が痛くなるほどの静寂だけだった。


 裂け目を見つめていた邪竜が、ゆっくりと顔を上げる。

 金色の瞳が細く揺れた。

 その視線は裂け目を探すように周囲をさまよい、やがて何も残っていないことを悟る。

 地下空間に、低い唸り声だけが響いた。


 エルディオンは静かに右手を掲げる。

 白い炎が指先へ集まった。

 先ほどまでとは比べものにならないほど濃密な魔力が圧縮され、周囲の空気さえ震え始める。


「これで終わりだ。」


 小さな呟きだった。

 次の瞬間。

 白い閃光が地下空間を一直線に貫いた。


 轟音。


 衝撃。


 邪竜の巨体が大きくのけ反る。

 黒い鱗が砕け、白い石床へ無数に散った。


 だが。

 邪竜は咆哮しない。


 ただ静かに翼を広げる。


 邪竜はエルディオンを見ようともしなかった。

 裂け目もない。

 黒い力も、もう流れてこない。

 邪竜は静かに巨体を翻した。


「待て!」


 エルディオンが追撃を放つ。


 白い閃光が邪竜の背を貫いた。

 黒い鱗が砕け散る。

 それでも邪竜は止まらない。

 巨大な翼が一度だけ大きく羽ばたく。

 風圧が地下空間を吹き抜けた。

 そのまま闇の奥へ飛び去っていく。

 羽音だけが、何度も反響した。


 やがて。


 それも静かに消えた。


 地下空間へ残ったのは、耳が痛くなるほどの静寂だけだった。


 誰もすぐには動けない。

 砕けた石柱。

 焼け焦げた床。

 そして、閉じた裂け目。

 さっきまでの激戦が嘘だったように、星環は静まり返っていた。


「アルノ!」


 リネが駆け寄る。

 白い石床へ横たわるアルノの肩を支え、その顔を覗き込んだ。


「大丈夫!? 返事して!」


 アルノはゆっくりと目を開く。

 視界はまだ霞んでいた。

 頭の奥が鈍く痛む。

 身体には力が入らない。

 それでも、小さく息を吐いた。


「……邪竜は?」


 エルディオンは闇の向こうを見つめたまま答える。


「逃げた。」


 短い一言だった。


 アルノは目を閉じる。


 裂け目は閉じた。

 星環も静かになった。


 それでも。

 邪竜は、まだ生きている。


 その事実だけが、重く胸へ残った。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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