流れ
邪竜が、ゆっくりと立ち上がった。
折れていたはずの角は元へ戻り、裂けていた翼も、焼け焦げていた鱗も、何事もなかったかのように再生している。
地下空間へ、再び重い圧力が満ちていった。
アルノは息を呑む。
目の前で見ていた。
エルディオンの魔法は、確かに邪竜へ届いていた。
翼は裂け、角は折れ、巨体は床へ倒れた。誰が見ても、あれは致命傷だった。
それなのに、邪竜は立っている。
黒い鱗が光石の淡い光を鈍く反射し、金色の瞳が静かにエルディオンを見据えていた。
長い銀髪を揺らし、エルディオンは一歩も退かない。
深い碧眼に焦りはなかった。ただ、静かに邪竜を見ている。
邪竜が翼を広げた。
風が巻き起こり、白い石柱が低く軋む。
床いっぱいに刻まれた神代魔法陣の上を、冷たい圧が這うように広がっていった。
次の瞬間、エルディオンの姿が消えた。
白い閃光が走る。
轟音。
邪竜の巨体が揺れる。
だが、倒れない。
今度は真正面から受け止めた。
黒い鱗の上で光が弾け、火花のように散っていく。
邪竜は低く唸り、巨大な爪を振り下ろした。
エルディオンはもうそこにいない。
白い指先がわずかに動く。
次の瞬間、邪竜の足元で光が爆ぜた。
地下空間が震える。
アルノは反射的に身を縮めた。
リネがすぐに前へ出る。
赤茶色のポニーテールが揺れ、小柄な体がアルノを庇う位置へ自然に滑り込んだ。
「アルノ、下がらなくていい」
リネは振り返らないまま言った。
「私が守るから。アルノは、そっち」
その声は不思議なくらい落ち着いていた。
アルノは頷く。
「うん」
怖くないわけじゃない。
足はまだ震えている。
それでも、今ここで自分が見るべきものは邪竜ではなかった。
アルノは床へ膝をついた。
白い石はひんやりとしている。
戦闘の熱風が吹き荒れているのに、床そのものは冷たく、千年以上の時を抱えたまま静かにそこにあった。
神代文字。
幾重にも重なる円環。
複雑に交差する術式。
さっきまで読んでいた文字は、もうただの文字には見えなかった。
アルノは床いっぱいの神代文字を見つめる。
意味はもう分かる。
けれど、それだけでは足りなかった。
文字を読むだけでは、この術式は理解できない。
柔らかな栗色の髪が頬へ落ちる。アルノは息を整え、床へそっと手をついた。
その瞬間だった。
「……っ」
視界が変わった。
最初は、一本だけだった。
淡い白い光が、神代文字の溝を静かになぞる。
細く、頼りない線だった。
けれど、その線は途中で途切れず、隣の文字へ伸びていく。
そして、もう一本。
さらに一本。
光は少しずつ増えていった。
点だった文字が、線で結ばれていく。
ばらばらに見えていた術式が、ゆっくりと意味を持ち始める。
アルノは息を忘れた。
床いっぱいに広がる魔法陣の中を、光が巡っている。
円環をなぞり、文字と文字を繋ぎ、細い流れはやがていくつもの支流に分かれていった。
それは川に似ていた。
小さな流れが合わさり、大きな流れになっていく。
光は床を巡り、中央の透明結晶へ集まり始めた。
人の背丈をはるかに超える巨大な結晶が、淡く脈打つ。
集まった光はそこで終わらない。
透明結晶から、今度は四方へ流れ出した。
壁へ。
石柱へ。
天井へ。
地下空間全体へ。
白い石柱に刻まれた神代文字が、一つ、また一つと淡く輝く。
天井近くの光石が呼応するように揺らぎ、広大な地下空間全体が静かに息をし始めたように見えた。
「……見える」
声が漏れた。
自分でも驚くほど小さな声だった。
それでもエルディオンには届いたらしい。
邪竜の攻撃をかわしながら、エルディオンがほんの一瞬だけ視線を向ける。
「何が見える?」
短い問い。
アルノは床から目を離せなかった。
「線です」
指先が無意識に動く。
空中で点と点を結ぶように。
「全部、繋がっています」
「全部?」
「床だけじゃない。壁も、石柱も、結晶も……この空間ごと、一つの魔法陣みたいに」
言葉にして、アルノはようやく自分が何を見ているのか理解し始めた。
これは床の魔法陣ではない。
星環そのものが術式なのだ。
床に刻まれた文字は、その一部にすぎない。
壁も、石柱も、透明結晶も、天井の光石さえも、すべてが一つの流れの中に組み込まれている。
神代文明は、建物を造ったのではない。
巨大な術式を、施設の形で残したのだ。
レグルスが息を呑む音がした。
「施設全体が……術式」
銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳が、床から壁、壁から石柱へと忙しく動く。
彼は抱えていた資料を落としかけ、慌てて腕で押さえた。
「……だから記録が断片だったんですね」
「え?」
「施設全体で一つの術式なら、一部分だけ読んでも全体像は見えません」
レグルスの声には、抑えきれない熱があった。それでも、彼はすぐに表情を引き締める。
「アルノさん、流れの中心はどこですか」
「中心……」
アルノは光を追う。
無数の線は一度、透明結晶へ集まっている。
そこからまた四方へ流れ出している。
なら、中心は結晶。
そう思った瞬間、視線が止まった。
透明結晶の真上。
黒い裂け目。
そこから滴り落ちる黒い雫。
雫が床へ落ちた。
じゅっ、と小さな音がする。
その瞬間、光の流れがわずかに乱れた。
ほんの少し。
普通なら見逃してしまうほどの変化。
けれど、アルノには見えた。
流れが揺れた。
黒い雫が落ちた場所だけ、白い線が歪む。
歪んだ流れはすぐに周囲の術式へ吸収され、何事もなかったように戻ろうとする。
だが、完全には戻らない。
ほんの少しだけ、乱れが残る。
「違う……」
アルノは呟いた。
リネが振り返る。
「アルノ?」
「流れが、乱れてる」
アルノは床を見つめたまま言った。
「黒い雫が落ちるたびに、線が歪む。でも、魔法陣がそれを戻そうとしてる」
レグルスがすぐに反応した。
「戻そうとしている?」
「うん。流れが乱れるたびに、元へ戻ろうとしてる。」
そこまで言って、アルノは唇を結んだ。
分からない。
まだ、何を保とうとしているのかまでは分からない。
言い切ってはいけない気がした。
だから言葉を探す。
「この星環は、ただ動いてるんじゃなくて……流れを整えようとしてる」
地下空間が再び震えた。
邪竜の尾が石柱を薙ぎ払う。白い石柱の一部が砕け、破片が飛び散った。
リネが動く。
アルノへ飛んできた石片を、拳で叩き落とす。
砕けた石が足元へ散った。
「続けて」
リネは短く言った。
琥珀色の瞳が、優しくも強くアルノを見る。
「ちゃんと見てるから」
アルノは頷いた。
胸の奥が熱くなる。
守られている。
だから、自分は見なければならない。
アルノはもう一度、流れを追った。
床。
透明結晶。
壁。
石柱。
天井。
そして、裂け目。
黒い雫が落ちる。
流れが乱れる。
星環が整えようとする。
また雫が落ちる。
また乱れる。
また戻そうとする。
その繰り返しだった。
「……ずっと」
アルノの声が震えた。
「ずっと、これを続けてるんだ」
レグルスが小さく息を吸う。
「星環が、ですか」
「分からない。でも、そう見える」
アルノは床へ手をついたまま、光の流れを追い続ける。
「この魔法陣は、何かを止めるだけじゃない。流れを保とうとしてる。乱れたら戻して、また乱れたら戻して……ずっと」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが震えた。
千年以上。
この施設は、誰もいない地下で。
ただ、刻まれた役割を果たし続けていたのだろうか。
そう思うと、目の前の白い石床が急に遠いものに見えた。
遺跡ではない。
これは、まだ終わっていないものだ。
今も働いているものだ。
低い咆哮が響く。
邪竜が翼を振るった。
エルディオンは正面から受け止めるように魔法を放つ。
白い光が黒い鱗へ突き刺さり、衝撃波が地下空間を走った。
だが、邪竜はもう倒れない。
裂け目から力を取り戻した巨体は、先ほどよりも重く、強く見えた。
エルディオンは小さく息を吐く。
「長引くと、面倒だね」
軽い声だった。
だが、アルノには分かった。
エルディオンは余裕ぶっているのではない。
状況を見ている。
勝てないのではない。
勝っても、終わらない。
それをもう理解している。
「アルノ」
エルディオンの声が飛ぶ。
「線は、まだ見えてる?」
「見えてます」
「なら、それを追って」
白い閃光が邪竜の爪を弾く。
「君にしか見えない」
アルノは小さく頷いた。
胸の鼓動は速いままだった。
それでも、迷いはなかった。
エルディオンは「役に立て」とは言わない。
「失敗するな」とも言わない。
ただ、見えているものを見ろ。
それだけだった。
アルノは深く息を吸う。
淡い灰色の瞳が、床いっぱいを巡る光を映した。
点は増えている。
線も見える。
けれど、まだ足りない。
流れの始まりと終わり。
乱れた場所。
戻そうとしている力。
全部が見えているのに、まだ一つに繋がらない。
頭の中に、点が一つずつ並んでいく。
第一星環。
第二星環。
透明結晶。
黒い雫。
まだ線にはならない。
けれど、もう少しで繋がりそうだった。
その時だった。
透明結晶が、かすかに明滅する。
ほんの一瞬。
気のせいかと思うほど小さな光だった。
「……今」
アルノは思わず目を凝らした。
「反応した?」
レグルスが呟く。
アルノは床いっぱいを巡る流れを見つめる。
線は変わらない。
それでも。
流れを追っていくと、一か所だけ、不思議と視線が吸い寄せられる場所があった。
理由は分からない。
そこだけ、妙に気になる。
他の神代文字と何が違うのかも説明できない。
ただ、そこへ触れなければならない。
そんな感覚だけが、胸の奥へ静かに残った。
地下空間を轟音が揺らす。
邪竜の咆哮。
白い閃光。
爆発。
エルディオンが邪竜を押し返すたび、衝撃波が地下空間を駆け抜けた。
砕けた石片が舞う。
「アルノ!」
リネが一歩前へ出る。
飛来した石片を拳で叩き砕き、そのまま視線を戦場へ戻した。
「集中して!」
「うん!」
アルノは頷き、もう一度床へ視線を落とした。
流れは、まだ続いている。
千年以上。
止まることなく。
誰もいない地下で、静かに役割を果たし続けてきた流れ。
その中に、一か所だけ。
どうしても目を離せない場所があった。
アルノはゆっくりと手を伸ばす。
指先が床へ触れようとした、その時だった。
邪竜が、不意に動きを止めた。
エルディオンではない。
裂け目でもない。
金色の瞳が、ゆっくりとアルノへ向く。
背筋が冷えた。
初めてだった。
邪竜が、アルノを見たのは。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




