繋がった理由
裂け目は、音もなく広がっていく。
空気が震えるたび、床いっぱいに刻まれた神代魔法陣が淡く脈打った。
白い星環も低く唸り、地下空間そのものが苦しんでいるようだった。
裂け目の周囲だけ、温度の感覚が曖昧になる。
熱いのでも、寒いのでもない。
ただ、そこだけ世界の境目が薄くなっているような、不快な気配が肌へまとわりついていた。光石の明かりは届いているはずなのに、裂け目の近くでは色が沈み、音まで少し遠くなる。
アルノは喉の奥が乾くのを感じた。
裂け目の向こう側は見えない。
ただ暗いだけではなかった。
闇の奥で、見たことのない何かが静かに脈打っている。
色とも闇とも呼べない何か。
それを見つめているだけで、頭の奥がざわついた。
胸の鼓動が早くなる。
その裂け目から、何かが静かに漏れ出していた。
奥から、黒い雫のようなものが絶え間なく滴り落ちる。
その一滴が白い石床へ落ちた。
じゅっ、と小さな音が響く。
濁った黒は白い石の上をゆっくりと広がり、床いっぱいに刻まれた神代魔法陣を少しずつ侵していく。
アルノは息を呑んだ。
「……まさか」
見覚えがあった。
第一星環で見た光景が、脳裏によみがえる。
透明結晶の上に刻まれていた細い裂け目。
そこから滴り落ちる黒い雫。白い石床をゆっくりと侵していく黒い染み。
あの時は、ただ異常だと思った。
けれど今、目の前で起きている光景は、あまりにもよく似ている。
「第一星環と……同じだ」
思わず声が漏れる。
少したれた大きな灰色の瞳は、裂け目を見つめたまま動かなかった。
邪竜は、その様子を気にも留めなかった。
ゆっくりと裂け目へ顔を近付ける。巨大な首がわずかに傾き、金色の瞳が細められた。
こちらを敵として見ている様子もない。
ただ、目の前の裂け目だけを見ていた。
そして、邪竜は大きく息を吸った。
漏れ出していた何かが流れ込む。
裂け目から。
邪竜へ。
まるで水を飲むように。
何百年も続けてきた動作であるかのように、あまりにも自然だった。
「何してるんだ……」
アルノの声が震える。
隣ではリネも息を呑んでいた。
大きなアーモンド形の琥珀色の瞳が、邪竜から離れない。
それでもリネは無言でアルノの前へ半歩出た。小柄な背中が、こちらを守るように自然と位置を変える。
「……飲んでる?」
誰も答えられなかった。
邪竜はただ裂け目の前へ留まり、漏れ出す何かを取り込み続けている。
翼を畳み、首を伸ばし、異界から流れ出す黒い力を吸い上げる。
そのたびに黒い鱗の奥で鈍い光が走り、巨体の輪郭がわずかに揺らいだ。
まるで、傷ついた身体へ力を満たしているようだった。
「……そういうことか」
静かな声が響く。
アルノは振り向いた。
「エルさん?」
長い銀髪がゆっくりと揺れる。地下の淡い光を受けたその髪は、月光をそのまま流したように白く輝いていた。深い碧眼は裂け目から一度も逸れない。
「何ですか?」
エルディオンは裂け目から目を離さなかった。
「第一星環に残っていた傷跡。」
「あれは、邪竜が来た痕跡だった。」
アルノは息を呑む。
「僕たちが第一星環へ着いた時には、もうあそこを離れた後だったんだ。」
第一星環で見た壊れた石柱。
床の亀裂。
壁に残された深い傷跡。
そして、透明結晶の真上に刻まれていた裂け目。
あれは、過去の崩落ではなかった。
邪竜が残した痕跡だった。
あの裂け目も、その時に開かれたものだったのだ。
邪竜は裂け目を見つめたまま、静かに黒い何かを取り込み続けている。
「同じことを、ここでもやっている。」
エルディオンは静かに一歩前へ出る。
裂け目から漏れ出す黒を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「リネ」
短く呼ぶ。
リネはすぐに振り向いた。
「うん」
「アルノを頼む」
それだけで十分だった。
リネは琥珀色の瞳に力を宿し、小さく頷く。
「任せて」
エルディオンは穏やかに笑った。
そして迷いなく歩き出す。
星環へ。
邪竜へ。
長い銀髪がゆっくりと揺れる。
邪竜は裂け目から漏れ出す黒を取り込み続けていた。
だが、エルディオンが一定の距離まで近付いた瞬間。
金色の瞳がゆっくりと持ち上がる。
初めて、邪竜はエルディオンを見た。
静かだった。
それでも、その一瞬で空気が変わる。
地下空間に満ちていた低い振動が、ぴたりと意味を変えた。
邪竜の意識が、裂け目からエルディオンへ移る。アルノにもそれが分かった。
エルディオンは短いスペルを紡ぐ。
アルノには聞き取れなかった。
ただ、白い指先がわずかに動いただけだった。
次の瞬間、轟音が地下空間を揺らした。
白い閃光が邪竜へ突き刺さる。
巨体がわずかによろめいた。
黒い鱗が火花を散らし、地下空間へ衝撃波が広がる。
一拍遅れて、熱風が押し寄せた。
アルノは思わず腕で顔を庇う。
ローブが大きく揺れ、足元の石畳へ無数の亀裂が走った。
星環全体が激しく震える。
邪竜の巨体だけが大きく揺れる。
低い咆哮が地下空間へ響き渡った。
邪竜は初めて裂け目から顔を離し、ゆっくりとエルディオンを見据える。
「こっちを見た……!」
アルノが息を呑む。
「それでいい」
エルディオンは静かに笑った。
穏やかな笑みだった。
けれど、その碧眼だけは鋭く邪竜を見据えている。
再び魔力が集まる。
邪竜も大きく翼を広げた。
地下空間の空気が押し潰され、白い石柱が軋む。
裂け目から漏れ出す黒い雫は止まらないまま、床の魔法陣をさらに侵していた。
伝説の魔術師と邪竜。
五百年ぶりの戦いが、再び始まった。
その後ろで。
「……そういうことですか」
レグルスが静かに呟いた。
相変わらず両腕には資料を抱えたままだ。
「レグルスさん!?」
アルノが思わず振り返る。
レグルスは銀縁眼鏡を押し上げ、抱えていた研究日誌を開いた。
細い指が次々とページをめくる。
灰紫の瞳は裂け目と資料を何度も見比べ、揺れる光の中で神代文字を追っていた。
「Nodusです」
静かな声だった。
「異常発生前にも」
ページをめくる。
「異常発生後にも」
さらに一枚。
「再接続にも」
もう一枚。
「維持にも」
同じ単語が何度も現れる。
Nodus適用。
Nodus再接続完了。
Nodus維持継続。
レグルスは裂け目を見つめた。
「断定はできません」
その言葉は、いつものように慎重だった。
こんな状況でも、レグルスは推測と事実を混ぜない。
「ですが」
視線がゆっくりと床いっぱいの神代魔法陣へ落ちる。
「これは、星環を正常な状態へ保つための術式ではないでしょうか」
アルノは息を止めた。
裂け目。
星環。
床いっぱいに刻まれた神代魔法陣。
そして、Nodus。
結節点。
接続点。
頭の中で、ばらばらだった点が一つずつ線へ変わっていく。
第一星環。
第二星環。
Nodus。
裂け目。
神代魔法陣。
まだ一本には繋がらない。
それでも、確かに同じ線の上へ並び始めていた。
読めるだけだった文字が、初めて意味を持ち始める。
完全ではない。
それでも。
今なら、この魔法陣へ触れられる気がした。
灰色の瞳が神代魔法陣を映す。
指先が無意識に空中で線を結んだ。
点と点を繋ぐ。
欠けた場所を探す。
流れを追う。
胸の奥で、何かが静かに噛み合った。
「アルノさん!」
レグルスの声が飛ぶ。
アルノは力強く頷いた。
怖かった。
心臓はうるさいほど鳴っている。
足も少し震えていた。
それでも、今この魔法陣へ触れられるのは自分だけだった。
読めるだけじゃ終われない。
今度は、この魔法陣を理解したい。
アルノは大きく息を吸う。
灰色の瞳が、神代魔法陣を真っすぐ映した。
そして、迷わず駆け出した。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




