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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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19/19

繋がった理由

 裂け目は、音もなく広がっていく。


 空気が震えるたび、床いっぱいに刻まれた神代魔法陣が淡く脈打った。

 白い星環も低く唸り、地下空間そのものが苦しんでいるようだった。


 裂け目の周囲だけ、温度の感覚が曖昧になる。

 熱いのでも、寒いのでもない。


 ただ、そこだけ世界の境目が薄くなっているような、不快な気配が肌へまとわりついていた。光石の明かりは届いているはずなのに、裂け目の近くでは色が沈み、音まで少し遠くなる。


 アルノは喉の奥が乾くのを感じた。

 裂け目の向こう側は見えない。


 ただ暗いだけではなかった。

 闇の奥で、見たことのない何かが静かに脈打っている。

 色とも闇とも呼べない何か。

 それを見つめているだけで、頭の奥がざわついた。


 胸の鼓動が早くなる。

 その裂け目から、何かが静かに漏れ出していた。

 奥から、黒い雫のようなものが絶え間なく滴り落ちる。

 その一滴が白い石床へ落ちた。


 じゅっ、と小さな音が響く。


 濁った黒は白い石の上をゆっくりと広がり、床いっぱいに刻まれた神代魔法陣を少しずつ侵していく。


 アルノは息を呑んだ。


「……まさか」


 見覚えがあった。

 第一星環で見た光景が、脳裏によみがえる。


 透明結晶の上に刻まれていた細い裂け目。

 そこから滴り落ちる黒い雫。白い石床をゆっくりと侵していく黒い染み。

 あの時は、ただ異常だと思った。

 けれど今、目の前で起きている光景は、あまりにもよく似ている。


「第一星環と……同じだ」


 思わず声が漏れる。

 少したれた大きな灰色の瞳は、裂け目を見つめたまま動かなかった。

 邪竜は、その様子を気にも留めなかった。


 ゆっくりと裂け目へ顔を近付ける。巨大な首がわずかに傾き、金色の瞳が細められた。

 こちらを敵として見ている様子もない。

 ただ、目の前の裂け目だけを見ていた。


 そして、邪竜は大きく息を吸った。

 漏れ出していた何かが流れ込む。


 裂け目から。

 邪竜へ。


 まるで水を飲むように。

 何百年も続けてきた動作であるかのように、あまりにも自然だった。


「何してるんだ……」


 アルノの声が震える。

 隣ではリネも息を呑んでいた。

 大きなアーモンド形の琥珀色の瞳が、邪竜から離れない。

 それでもリネは無言でアルノの前へ半歩出た。小柄な背中が、こちらを守るように自然と位置を変える。


「……飲んでる?」


 誰も答えられなかった。


 邪竜はただ裂け目の前へ留まり、漏れ出す何かを取り込み続けている。

 翼を畳み、首を伸ばし、異界から流れ出す黒い力を吸い上げる。

 そのたびに黒い鱗の奥で鈍い光が走り、巨体の輪郭がわずかに揺らいだ。

 まるで、傷ついた身体へ力を満たしているようだった。


「……そういうことか」


 静かな声が響く。

 アルノは振り向いた。


「エルさん?」


 長い銀髪がゆっくりと揺れる。地下の淡い光を受けたその髪は、月光をそのまま流したように白く輝いていた。深い碧眼は裂け目から一度も逸れない。


「何ですか?」


 エルディオンは裂け目から目を離さなかった。


「第一星環に残っていた傷跡。」


「あれは、邪竜が来た痕跡だった。」


 アルノは息を呑む。


「僕たちが第一星環へ着いた時には、もうあそこを離れた後だったんだ。」


 第一星環で見た壊れた石柱。

 床の亀裂。

 壁に残された深い傷跡。

 そして、透明結晶の真上に刻まれていた裂け目。


 あれは、過去の崩落ではなかった。

 邪竜が残した痕跡だった。

 あの裂け目も、その時に開かれたものだったのだ。


 邪竜は裂け目を見つめたまま、静かに黒い何かを取り込み続けている。


「同じことを、ここでもやっている。」


 エルディオンは静かに一歩前へ出る。

 裂け目から漏れ出す黒を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「リネ」


 短く呼ぶ。


 リネはすぐに振り向いた。


「うん」


「アルノを頼む」


 それだけで十分だった。


 リネは琥珀色の瞳に力を宿し、小さく頷く。


「任せて」


 エルディオンは穏やかに笑った。

 そして迷いなく歩き出す。


 星環へ。

 邪竜へ。


 長い銀髪がゆっくりと揺れる。


 邪竜は裂け目から漏れ出す黒を取り込み続けていた。


 だが、エルディオンが一定の距離まで近付いた瞬間。

 金色の瞳がゆっくりと持ち上がる。

 初めて、邪竜はエルディオンを見た。

 静かだった。


 それでも、その一瞬で空気が変わる。


 地下空間に満ちていた低い振動が、ぴたりと意味を変えた。

 邪竜の意識が、裂け目からエルディオンへ移る。アルノにもそれが分かった。


 エルディオンは短いスペルを紡ぐ。

 アルノには聞き取れなかった。


 ただ、白い指先がわずかに動いただけだった。


 次の瞬間、轟音が地下空間を揺らした。


 白い閃光が邪竜へ突き刺さる。

 巨体がわずかによろめいた。

 黒い鱗が火花を散らし、地下空間へ衝撃波が広がる。


 一拍遅れて、熱風が押し寄せた。


 アルノは思わず腕で顔を庇う。

 ローブが大きく揺れ、足元の石畳へ無数の亀裂が走った。


 星環全体が激しく震える。

 邪竜の巨体だけが大きく揺れる。

 低い咆哮が地下空間へ響き渡った。

 邪竜は初めて裂け目から顔を離し、ゆっくりとエルディオンを見据える。


「こっちを見た……!」


 アルノが息を呑む。


「それでいい」


 エルディオンは静かに笑った。

 穏やかな笑みだった。

 けれど、その碧眼だけは鋭く邪竜を見据えている。

 再び魔力が集まる。


 邪竜も大きく翼を広げた。

 地下空間の空気が押し潰され、白い石柱が軋む。

 裂け目から漏れ出す黒い雫は止まらないまま、床の魔法陣をさらに侵していた。


 伝説の魔術師と邪竜。

 五百年ぶりの戦いが、再び始まった。


 その後ろで。


「……そういうことですか」


 レグルスが静かに呟いた。

 相変わらず両腕には資料を抱えたままだ。


「レグルスさん!?」


 アルノが思わず振り返る。


 レグルスは銀縁眼鏡を押し上げ、抱えていた研究日誌を開いた。

 細い指が次々とページをめくる。

 灰紫の瞳は裂け目と資料を何度も見比べ、揺れる光の中で神代文字を追っていた。


「Nodusです」


 静かな声だった。


「異常発生前にも」


 ページをめくる。


「異常発生後にも」


 さらに一枚。


「再接続にも」


 もう一枚。


「維持にも」


 同じ単語が何度も現れる。


 Nodus適用。

 Nodus再接続完了。

 Nodus維持継続。


 レグルスは裂け目を見つめた。


「断定はできません」


 その言葉は、いつものように慎重だった。

 こんな状況でも、レグルスは推測と事実を混ぜない。


「ですが」


 視線がゆっくりと床いっぱいの神代魔法陣へ落ちる。


「これは、星環を正常な状態へ保つための術式ではないでしょうか」


 アルノは息を止めた。


 裂け目。

 星環。

 床いっぱいに刻まれた神代魔法陣。

 そして、Nodus。


 結節点。

 接続点。


 頭の中で、ばらばらだった点が一つずつ線へ変わっていく。


 第一星環。

 第二星環。


 Nodus。

 裂け目。

 神代魔法陣。


 まだ一本には繋がらない。


 それでも、確かに同じ線の上へ並び始めていた。

 読めるだけだった文字が、初めて意味を持ち始める。


 完全ではない。

 それでも。

 今なら、この魔法陣へ触れられる気がした。


 灰色の瞳が神代魔法陣を映す。


 指先が無意識に空中で線を結んだ。

 点と点を繋ぐ。

 欠けた場所を探す。

 流れを追う。

 胸の奥で、何かが静かに噛み合った。


「アルノさん!」


 レグルスの声が飛ぶ。

 アルノは力強く頷いた。


 怖かった。

 心臓はうるさいほど鳴っている。

 足も少し震えていた。


 それでも、今この魔法陣へ触れられるのは自分だけだった。

 読めるだけじゃ終われない。

 今度は、この魔法陣を理解したい。


 アルノは大きく息を吸う。

 灰色の瞳が、神代魔法陣を真っすぐ映した。


 そして、迷わず駆け出した。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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