繋がる記録
しばらく休息を取った後、研究室には静かな空気が戻っていた。
真鍮のランプは変わらず乳白色の光を灯し、机の上に広げられた羊皮紙や革張りの本を柔らかく照らしている。古い紙と革、乾いた木の匂いが混ざり合い、湖底の施設とは思えないほど落ち着いた空気を作っていた。
レグルスが一冊の分厚いファイルを机へ置いた。
「こちらです」
アルノは首を傾げる。
「何?」
「第一星環調査記録です」
思ったより厚い。
アルノは目を丸くした。
「こんなに?」
「現地で確認した情報をまとめました」
レグルスは当然のように答えた。
淡い金髪は少し乱れていて、銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳には、休息明けとは思えない熱が残っている。
リネが呆れたように息を吐いた。
赤茶色のポニーテールが肩の上で揺れる。
「いつの間にやったの?」
「休息中です」
「それ、休んでないよ」
リネは腰へ手を当て、困ったようにレグルスを見た。
「ちゃんと寝ないと、いざって時に動けないよ」
「少しは休みました」
リネは怪しんだが何も言わなかった。
ただ、仕方ないな、という顔で机の横へ立つ。
文句は言うけれど、ちゃんと見ている。
アルノはそんな幼なじみの横顔を見て、少しだけ安心した。
机の上には資料が並べられている。
星環運転日誌。
異常報告書。
星環管理記録。
そして、第一星環調査記録。
どれも千年以上前の神代文明へ繋がる手がかりだった。
けれど、机の上に並べられている様子だけを見れば、王都の魔術塔で行われる調査会議とそう変わらない。
遠い神代の記録が、今こうして自分たちの目の前にある。
そのことが、不思議だった。
レグルスが銀縁眼鏡を押し上げる。
「現時点で分かっていることを整理します」
研究者の時間が始まった。
「まず、星環です」
レグルスは星環管理記録を開いた。
細い指が、綴じ込まれた書類の端を慎重に押さえる。
「少なくとも神代末期には、七つの星環が存在していました」
アルノも資料へ目を落とす。
第一星環、正常稼働。
第二星環、正常稼働。
第三星環、停止。
第四星環、異常発生。
第五星環、正常稼働。
第六星環、応答なし。
第七星環、正常稼働。
文字そのものは、もう読んでいる。
意味も分かっている。
「第六だけ変だね」
リネが静かに言った。
「停止じゃない」
「応答なし、ですね」
レグルスも頷く。
「私も気になっています」
「意味が違うの?」
アルノが尋ねる。
「分かりません」
レグルスは一息ついて、
「ただ、わざわざ表現を変えている以上、同じ状態とは考えにくいですね。停止は機能が止まっている状態。応答なしは、連絡に対して返答がない状態、と読むべきでしょう」
事実から可能性を積み上げていく。
レグルスらしい考え方だった。
アルノはもう一度、管理記録へ視線を落とした。
第一星環と第二星環。
自分たちが実際に足を踏み入れたのは、その二つだけだ。
けれど、記録には七つの星環が記されている。
世界は、自分が思っていたよりずっと広い。
その広さが、文字の並びだけで胸の奥へ迫ってくる。
第一。
第二。
まだ知らない星環。
空中で点と点を結ぶように、細い線をなぞる。
自分でそれに気付き、アルノは慌てて手を止めた。
それを見ていたエルディオンが、少しだけ笑う。
長い銀髪が肩からさらりと流れ、真鍮のランプの光を受けて淡く輝いた。
深い碧眼は資料ではなく、アルノの手元を静かに見ている。
「気になる?」
「……はい」
アルノは小さく頷いた。
「繋がってる気がして」
「うん」
エルディオンは穏やかに頷くだけだった。
説明を求めることも、答えを急がせることもない。
その静かな待ち方が、不思議とアルノの肩から力を抜いてくれた。
「次に第四星環です」
レグルスが異常報告書へ視線を移した。
空気がわずかに変わる。
アルノも昨日読んだ記録を思い返した。
第四星環より異常報告。
外側接続異常。
封鎖処理開始。
封鎖処理、一部失敗。
部屋が静まり返る。
真鍮のランプの光だけが、机の上でかすかに揺れていた。
「一部失敗って、嫌な言葉だね」
リネが顔をしかめる。琥珀色の瞳が細くなった。
難しい理屈は得意ではなくても、それが良くない知らせだということは分かっている。
「ええ」
レグルスも静かに頷く。
「問題は、この後の記録が残っていないことです」
「失敗した後、どうなったか分からないってこと?」
「そうです」
アルノは資料へ視線を落とした。
分からないことばかりだった。
外側。
封鎖。
星環。
神代時代の人たちは、何をしていたのだろう。
何を閉じようとしていたのだろう。
その時、別の資料に目が止まった。
同じ単語が、何度も出てくる。
「あれ……」
「どうしました?」
レグルスが身を乗り出す。
アルノは指先でその文字を示した。
「これ……何度も出てる」
資料には同じ神代文字が繰り返し記されていた。
Nodus適用。
Nodus再接続完了。
Nodus維持継続。
「読めますか?」
レグルスが静かに尋ねる。
アルノは目を閉じた。
文字の形を見る。
線の流れを追う。
意味が、ゆっくりと頭の中でほどけていく。
「結節点……」
唇から言葉がこぼれた。
「接続点。繋ぎ目。そんな意味だと思う」
けれど、それ以上は分からない。
何を繋ぐのか。
どんな役割を持つのか。
そこまでは読み取れなかった。
レグルスが第一星環調査記録を開く。
「こちらをご覧ください」
書き写された神代文字を見た瞬間、アルノは目を見開いた。
「……この文字」
第一星環調査記録に記された神代文字。
そして運転日誌に繰り返し現れる神代文字。
二つは、同じだった。
「同じです」
アルノは資料を見比べながら呟いた。
レグルスも小さく頷く。
「確かに一致しています」
第一星環で確認された文字。
第二星環で見つかった運転日誌。
別々だった記録が、少しずつ繋がり始めていた。
アルノは資料を見つめる。
読める。
けれど、まだ理解できない。
「結局、星環って何なんだろうね」
リネがぽつりと言った。
誰もすぐには答えられなかった。
星環は、ただの遺跡ではない。
神殿でもない。
研究施設だけでもない。
七つ存在し、互いに連絡し、状態を管理し、何かを維持していた。
そこまでは分かった。
けれど、それが何なのか。
神代の人々は、何を管理していたのか。
失われた記録の先には、何が待っているのか。
答えはまだ、霧の向こうにある。
アルノは資料の上に置いた自分の手を見る。
さっきまで空中で点と点を結んでいた指先が、今は止まっている。
繋がりそうで、繋がらない。
そんな感覚だけが残っていた。
その時だった。
ゴォン――
低い音が、研究室の壁を震わせた。
机の上のインク瓶がかすかに揺れ、積み上げられた資料の端が震える。
誰も動かなかった。
もう一度。
ゴォン――
今度は床そのものが揺れた。
本棚が軋み、古い羊皮紙が一枚、ひらりと床へ落ちる。
「地震?」
赤茶色のポニーテールを揺らし、リネが辺りを見回す。
第三の衝撃は、それまでとは比べものにならなかった。
ゴォォン――
研究室全体が震える。
真鍮のランプが大きく揺れ、壁際の棚から細かな埃が舞い落ちた。
アルノはそこで初めて気付く。
いつの間にか、エルディオンが立ち上がっていた。
長い銀髪が肩を滑り落ちる。
穏やかな笑みは消え、その碧眼だけが静かに通路の先を見据えていた。
「エルさん?」
「来た」
短い一言だった。
「何がですか?」
エルディオンは通路の先を見据えたまま、ほんの少しだけ間を置いた。
「邪竜だ」
部屋の空気が止まった。
「……は?」
リネが思わず聞き返す。
けれど、エルディオンはもう歩き始めていた。
「急ごう」
その声に迷いはなかった。
四人は研究室を飛び出す。
白い石造りの通路には、古い神代文字が静かに刻まれていた。
壁に埋め込まれた光石が淡い光を落とし、足音だけが硬く響く。
再び振動が走った。
石壁が低く唸り、天井から細かな砂粒がぱらぱらと降ってくる。
「本当に邪竜なんですか!?」
アルノが叫ぶ。
「たぶんね」
「たぶん!?」
「見れば分かるよ」
まったく安心できなかった。
その時、後ろから慌ただしい足音が近付いてくる。
振り返ると、レグルスだった。
灰色の外套を翻し、両腕いっぱいに資料を抱えて走っている。
落とさないよう抱え込みながら、それでも足は止めない。
「何してるんですか!?」
「回収です!」
「今ですか!?」
「今しかありません」
銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳は、妙に真剣だった。
リネが苦笑する。
「落としたら置いていくからね」
「落としません」
迷いのない即答だった。
四人は白い石造りの通路を駆け抜けた。
幾つもの分岐を曲がり、神代文字の刻まれた隔壁を抜ける。
振動は奥へ進むほど大きくなり、足元から伝わる低い響きが心臓の鼓動と重なっていく。
やがて通路の突き当たりに、円形の広間が現れた。
床いっぱいに神代魔法陣が刻まれている。
その中央には、白い石で造られた円盤が静かに据えられていた。
「これ……」
アルノが息を呑む。
「たぶん昇降機だね」
エルディオンは円盤へ歩み寄った。
しゃがみ込み、白い石へそっと指先を触れる。
少しだけ目を細める。
「……やっぱり」
指先から淡い魔力が流れ込む。
すると、床に刻まれていた神代文字が一つ、また一つと淡く輝き始めた。
低い振動が足元から伝わる。
円盤がゆっくりと沈み始めた。
「動いた……」
アルノが思わず呟く。
「魔力には反応するみたい」
エルディオンは立ち上がった。
「乗って」
四人は円盤へ乗る。
音もなく、昇降機は下降を始めた。
地下深くへ降りるにつれ、さっきまで感じていた振動はさらに大きくなっていく。
白い壁を流れる光石の明かりが、ゆっくりと上へ遠ざかっていった。
やがて昇降機が静かに止まる。
正面の通路が淡く光り、奥に巨大な白い扉が見えた。
研究室の扉とは比べものにならない。
神殿の門を思わせるほど大きな石扉だった。
エルディオンは歩みを緩めない。
白い指先が扉へ触れる。
重々しい音を響かせながら、巨大な門がゆっくりと開いた。
レグルスは資料を抱えたまま、息を忘れたようにその先を見上げていた。
アルノも、思わず息を呑む。
目の前には、広大な地下空間が広がっていた。
見上げても天井は見えない。
遥か頭上では光石が淡く輝き、地下とは思えない柔らかな光が降り注いでいる。
その中央に、白い石で造られた巨大な円形施設があった。
祭壇の中心には、人の背丈をはるかに超える巨大な透明結晶が静かに佇んでいる。
澄み切ったその表面には傷一つ見当たらず、淡い光を湛えながら地下空間を静かに見守っていた。
これが――星環。
神代の記録の中で何度も目にした名前が、ようやく一つの形になった。
床いっぱいに神代魔法陣が刻まれている。
幾重にも重なる円環。
無数の神代文字。
それらは一つの巨大な術式として組み上げられ、星環全体を支えているようだった。
「これが……」
アルノは言葉を失った。
第一星環にも巨大な祭壇はあった。
けれど、床を汚す黒い侵食と、透明結晶の上に刻まれた細い裂け目が、その光景を異質なものへ変えていた。
だが、ここは違う。
白い石は美しく保たれ、術式も途切れていない。
まるで千年前の姿が、そのまま残されているようだった。
怖いほどに、美しかった。
その時。
低い咆哮が、地下空間を震わせた。
空気そのものが揺れる。
アルノは顔を上げた。
星環の向こう側に、その影はいた。
巨大な竜。
長い首。
空を覆うほど大きな翼。
黒ではない。
光さえ飲み込むような、深い色。
頭から伸びる角は刃のように鋭く、金色の瞳だけが静かに輝いている。
見ているだけで距離感がおかしくなる。
そこにいる。
なのに、どこか現実感がない。
邪竜。
リネが小さく息を呑んだ。
次の瞬間、彼女は無言でアルノの前へ半歩出る。
小柄な背中が、こちらを守るように構えられていた。
「……あれ?」
アルノは眉を寄せた。
違和感があった。
邪竜はこちらを見ない。
人間へ興味を示さない。
ゆっくりと歩き、真っ直ぐ星環だけを見つめている。
「なんで……」
邪竜は星環の前で静かに立ち止まった。
長い首を持ち上げる。
何かを探しているようだった。
次の瞬間。
鋭い爪が空間を薙いだ。
ギィィィィ――
耳障りな音が、地下空間へ響き渡る。
空間そのものが軋んだ。
床いっぱいに刻まれた神代魔法陣が淡く輝き始める。
星環も応えるように、白い表面へ光を走らせた。
邪竜はもう一度、爪を振るう。
空間がゆっくりと歪む。
閉じられていた何かが、少しずつ開いていく。
細い裂け目が現れた。
その向こう側は暗い。
ただの闇ではない。
見たことのない闇が、静かに脈打っていた。
その時。
黒い雫のようなものが一滴、床へ落ちる。
濁った黒が白い石の上へゆっくりと広がり、床に刻まれた神代魔法陣の一部を静かに汚していく。
アルノは息を呑んだ。
第一星環で見た光景と、まったく同じだった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




