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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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星環管理記録

 星環管理記録


「第五星環……?」


 レグルスの声が、研究室の静けさの中へ落ちた。

 誰もすぐには言葉を返せなかった。

 机の上には、千年以上前に書かれた運転日誌が開かれている。

 真鍮のランプが柔らかな光を灯し、古い羊皮紙の上に並ぶ神代文字を静かに照らしていた。


 アルノはもう一度、その一文へ目を落とした。

 第五星環との定期連絡を実施。

 意味は変わらない。

 見間違いではない。


「第一星環、第二星環、第四星環……だけじゃないんだ」


 リネがぽつりと呟いた。

 赤茶色のポニーテールが小さく揺れる。

 いつもより声が低かった。

 普段なら専門的な話はアルノやレグルスに任せるリネも、今だけは違う。

 これは遺跡の話ではない。

 邪竜を追う手掛かりになるかもしれない。

 リネも、そんな予感を抱いていた。

 レグルスはすぐに手帳へ書き込んだ。


「第一星環。第二星環。第四星環。そして第五星環」


 細い銀縁眼鏡の奥で、灰紫の瞳が鋭くなる。


「少なくとも、星環は五つ以上存在していたことになります」


「五つ以上……」


 アルノは本棚を見上げた。


 この部屋の中だけでも、神代文字で書かれた本が何十冊も並んでいる。

 運転日誌は、そのうちの一冊にすぎない。

 自分たちが知っていることは、まだ本当にわずかしかないのだ。

 そう思うと、胸の奥が少しだけ冷えた。

 エルディオンは机の横に立ったまま、静かに日誌を見つめていた。

 長い銀髪が肩からさらりと流れる。

 真鍮のランプの光を受けた白銀は、地下の空気の中で淡く輝いていた。


「続き、読めそう?」


 穏やかな声だった。

 アルノは頷く。


「はい」


 指先が自然とページの端へ伸びる。


 気付けば、また線を結ぶように動いていた。

 文字と文字の意味を追い、記録の流れを繋げようとしている。

 自分でもその癖に気付き、少しだけ指を止めた。


 けれど、今は止めきれなかった。

 読みたい。

 知りたい。

 この先に何が書かれているのか。

 アルノはゆっくりページをめくった。


 羊皮紙は古い。だが、破れそうな脆さはない。

 千年以上もの時間を越えて、誰かの記録がここに残っている。

 文字が、意味へ変わる。


「第一層観測、異常なし」


 レグルスの羽ペンが走る。


「第二層観測、異常なし」


 リネが小さく首を傾げた。


「また普通の記録?」


「うん」


 アルノは頷いた。


「今のところは」


 さらに読み進める。


「外周維持機構、正常。中央流路圧、基準値内。第三区画照明系統、一部調整」


「照明系統……」


 レグルスがランプへ視線を向けた。


「この部屋の光も、そうした維持機構の一部かもしれませんね」


「つまり、誰かがいなくなってからも、ずっと部屋を保ってたってこと?」


 リネが机や本棚を見回す。

 木の机。

 革張りの本。

 綺麗に整頓された棚。

 杯のような器。

 そこには人の気配が残っているのに、その人だけがいない。


「そう考えるのが自然です」


 レグルスは答えた。


「ただし、現時点では断定できません」


「出た。現時点では」


 リネが苦笑する。

 レグルスは真面目に頷いた。


「重要な言葉です」


「事実が揃うまでは、どの可能性も否定しません。それが研究です」


 アルノは少しだけ笑った。

 緊張していた空気が、ほんの少し緩む。

 神代文明の記録を読んでいるはずなのに、書かれている内容は驚くほど日常的だった。


 点検。

 観測。

 調整。

 会議。

 報告。


 千年以上前でも、研究者の毎日は変わらなかったらしい。

 ただ、その日常の下にあった理論だけが、現代では届かないほど深い。

 アルノは次の行へ視線を落とした。


「第五星環との定期連絡、問題なし。第七星環より外周観測値の共有あり。第三星環、応答遅延」


 レグルスの手が止まった。


「第七……」


 リネも目を丸くする。


「今、第七って言った?」


「言った」


 アルノは自分でも少し動揺しながら答えた。

 ページの上の文字は、淡々と並んでいる。

 神代人にとっては、当たり前の記録だったのだろう。


 定期連絡。

 観測値の共有。

 応答遅延。


 それは今の魔術塔で交わされる報告と、ほとんど変わらない言葉だった。

 けれど、書かれている規模が違う。


 第一星環。


 第二星環。


 第三星環。


 第四星環。


 第五星環。


 第七星環。


 世界のあちこちに、それだけの施設が存在していた。


「星環は、単独の遺跡ではない」


 レグルスが低く呟いた。

 自分に言い聞かせるような声だった。

 エルディオンは、アルノが読み上げた内容へ静かに耳を傾けていた。


「それぞれが役割を持って動く、一つの巨大な設備だったんだろうね」


 アルノは本の文字を見つめる。


「続けます」


 アルノは小さく息を整え、さらに読み進めた。

 しばらくは同じような記録が続いた。


 観測値。

 流路圧。

 点検報告。

 会議記録。


 ときどき、研究者らしい短い所感も挟まっている。


「本日、第三観測班との意見交換を実施。第二層の圧力変動について、再計測の必要あり」


「第四星環からの報告に遅延。原因不明。通信担当へ確認」


「第三区画の昇降機に不調。交換ではなく術式再調整にて対応」


 この日誌は、今日の観測結果を記し、会議に出て、設備の不調を直し、他の星環と連絡を取っていた。

 その事実が、神代人を少しだけ近く感じさせた。


 だが。


 ページをめくった瞬間、空気が変わった。

 アルノの指先が止まる。

 文字の並びが乱れていた。


 それまで整っていた文字が、少しだけ乱れていた。

 筆圧も、普段よりわずかに強い。

 書いた本人は冷静でいようとしたのだろう。

 それでも、異常を前にした緊張が文字の端々に滲んでいた。

 レグルスもそれに気付いたのか、身を乗り出す。


「何か変わりましたか」


「……ここから、少し違います」


 アルノは喉を鳴らした。

 文字が意味へ変わる。

 けれど、その意味が胸の奥を冷たくしていく。


「第四星環より異常報告」


 部屋が静まり返った。

 真鍮のランプの光だけが、机の上で静かに揺れている。

 アルノは続けた。


「外側観測中に接続不安定化を確認。原因は現在調査中。第三層への影響を確認」


 レグルスの羽ペンが止まらない。

 だが、その表情にはさっきまでの興奮だけではない。

 緊張があった。


「接続不安定化……」


 エルディオンが小さく呟く。

 エルディオンは、アルノが読み上げる言葉へ静かに耳を傾けていた。


「外側って、裂け目のことかな」


 リネが聞く。

 アルノはすぐには答えられなかった。


 第一星環で見た黒い裂け目。

 透明結晶の上にあった、空間そのものを傷つけたようなあの亀裂。

 そこから滴り落ちていた黒い雫。

 床に刻まれた魔法陣を黒く汚していた、濁った何か。

 牛に絡みついていた黒い線。


 思い出すだけで、背筋が冷える。


「分からない」


 アルノは正直に答えた。

 けれど、無関係だとは思えなかった。

 レグルスは頷いた。


「現時点では断定できません。ただ、第一星環で確認した裂け目と、外側接続という語は、関連している可能性があります」


「外側接続……」


 アルノは呟く。


 神代文字の意味は分かる。

 けれど、その先にある概念まではまだ分からない。

 文字を読めることと、理解できることは違う。

 その差が、今は少し悔しかった。

 アルノはさらに読み進めた。


「第四星環、外側接続核の出力低下。再起動処理失敗。封鎖処理へ移行」


 レグルスのペン先が止まった。


「接続核……」


「接続核?」


 リネが首を傾げる。


「核って、何?」


 アルノは文字を見つめたまま、小さく首を振る。


「何かを受け止めて、使える力に変えて……星環全体へ送る。そんな役割を持つものみたいです」


「第一星環で見た透明結晶」


 レグルスが静かに言った。


「あれが、その接続核に近いものだった可能性があります」


 アルノは頷く。


 巨大祭壇。

 透明結晶。

 床いっぱいの魔法陣。

 血流のように巡っていた赤黒い光。

 あれが、接続核。

 そう考えると、妙にしっくりきた。


 エルディオンは腕を組み、少しだけ首を傾げる。


「神代文明は、僕の時代よりずっと前だ。だから言葉の意味までは分からないけど」


 銀髪が肩から滑り落ちる。


「でも、何か重大な異常を封じようとしていたことは分かる」


 その言葉で、部屋の空気がさらに重くなった。

 アルノは日誌へ目を戻す。

 文字の乱れは、さらに強くなっていた。


「封鎖処理、一部失敗」


 リネが息を呑んだ。


「失敗……」


「第四星環より支援要請。第三星環、応答なし。第六星環、応答なし。第五星環、接続維持を優先」


 レグルスの手が完全に止まった。

 アルノも言葉を失いかける。

 千年以上前、いったい何があったのか。


 この部屋にいた研究者たちは、きっと同じように机を囲んでいた。

 各星環から届く報告を読み、原因を探し、対応を考え、必死に記録を残していた。

 ただの昔話ではない。

 これは、誰かがその時に見ていた現実だった。


「続きは?」


 エルディオンが静かに聞いた。

 アルノはページの端をめくる。

 だが、そこで紙が破れていた。

 文字は途中で途切れている。


「封鎖処理を――」


 そこから先は読めなかった。

 破れた紙の端を、アルノはじっと見つめる。


「ここで終わってます」


 リネが顔をしかめた。


「肝心なところで……」


「ええ」


 レグルスも珍しく悔しそうだった。

 眼鏡の奥の瞳が、破れた部分を睨むように見ている。


「続きを失ったのか、誰かが持ち去ったのか」


「持ち去った?」


 アルノが聞き返す。


「可能性の話です」


 レグルスはすぐに言い直した。


「断定はできません。ただ、この破れ方は自然劣化には見えません」


 アルノは破れた端を見る。

 確かに、古くなって崩れたというより、何かの拍子に引き裂かれたようにも見える。


 千年以上前に。

 この部屋で。

 誰かが、この日誌を読んでいた。

 誰かが、続きのページを破ったのかもしれない。


 そう考えると、背中が少し冷たくなった。


 アルノはもう一度ページへ目を落とす。

 文章はそこで完全には終わっていなかった。


 破れた下の余白に、別の行が残っている。


「各星環の状況については、別添資料を参照」


 レグルスが顔を上げた。


「別添資料」


 その声に、さっきまでの悔しさとは違う熱が戻る。

 リネが呆れ半分で笑った。


「今ので元気戻った」


「当然です」


 レグルスは真面目に答えた。


「情報が残っている可能性があります」


 アルノは後ろのページを慎重にめくった。

 日誌とは別に、数枚の書類が綴じ込まれている。

 文字の並びが違う。

 日々の記録ではない。

 一覧表に近い。


 表題を見た瞬間、アルノは息を止めた。


「星環管理記録」


 誰も口を開かなかった。

 真鍮のランプが、机の上を静かに照らしている。

 アルノはゆっくり読み上げた。


「第一星環、正常稼働」


 言葉が落ちる。

 誰も動かない。


「第二星環、正常稼働」


 今いる場所だ。

 第二星環。

 湖の底に隠され、千年以上眠っていた施設。

 それが、この記録では正常稼働とされている。

 アルノは続けた。


「第三星環、停止」


 レグルスのペンが止まった。


「第四星環、異常発生」


 部屋の空気が重くなる。


「第五星環、正常稼働」


「第六星環、応答なし」


 リネが小さく眉をひそめた。


「応答なし……」


 アルノは最後の行を読む。


「第七星環、正常稼働」


 沈黙が落ちた。


 七つ。


 星環は七つあった。


 アルノが知っているのは第一星環と第二星環だけだ。

 第一星環も、第二星環も、世界の一部でしかなかった。


 いや。


 同じなのかどうかすら分からない。


 第三星環は停止。

 第四星環は異常。

 第六星環は応答なし。


 その言葉だけが、胸に残る。


「世界中にあったんだね」


 リネがぽつりと言った。


「たぶん」


 アルノは頷いた。


「星環は、ひとつの場所だけじゃない」


 レグルスは静かに手帳へ書き込んだ。


「七つの星環。相互接続。管理記録。第四星環の異常。第三、六の不通」


 そして顔を上げる。


「神代文明は、星環を単なる施設として扱っていたわけではありません。運用し、監視し、連絡し、状態を管理していた」


 声は静かだった。

 けれど、熱があった。


「これは都市や国を越えて運用されていた、世界規模の施設群だった可能性があります」


 世界規模。

 その言葉が、重かった。

 アルノは資料を見つめる。


 第一星環で見た巨大な祭壇。

  透明結晶。

  床いっぱいに刻まれた神代魔法陣。

 あれは、ただの遺跡ではなかったのかもしれない。

 けれど、正体はまだ見えない。

 分かったことより、分からないことの方がずっと多かった。


 アルノはもう一度、最初の行へ視線を戻した。


「第一星環、正常稼働」


 読み上げる。

 自分の声が、少し低くなった。


「あの状態が、正常なんですか……?」


 思い出す。


 床へ広がっていた黒い侵食。

 白い壁に刻まれた無数の傷跡。

 透明結晶の上に開いていた黒い裂け目。

 そこから漏れていた何か。

 とても正常には思えなかった。


 エルディオンは腕を組み、静かに考え込んでいた。

 しばらく黙っていたが、やがて口を開く。


「少なくとも、僕たちが見た第一星環は正常には見えなかった」


 穏やかな声だった。

 アルノは静かに頷く。

 読める。

 けれど、理解できるわけじゃない。

 記録が増えるたび、分からないことも増えていく。


 レグルスは机へ資料を並べ直した。


 星環運転日誌。

 異常報告。

 星環管理記録。

 破れた頁。

 順番に視線を走らせる。


「一度整理しましょう」


 研究者の時間が始まろうとしていた。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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