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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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16/19

研究室

 光の流れを追って進むと、回廊の奥に一枚の扉があった。


 白い石壁の中に、古い木扉のようなものが静かに収まっている。

 木目に似た模様があり、縁にはくすんだ真鍮色の金具が使われていた。

 見た目だけなら、王都の古い書庫にあってもおかしくない扉だった。


 ただ、扉の表面には細い神代文字が刻まれている。


 文字は装飾のように扉の縁を巡り、鍵穴の代わりに小さな円環を描いていた。

 青白い光が走るわけではない。

 金属の板が動くわけでもない。

 ただ、古い木と真鍮と石の組み合わせの中に、現代の魔術師では到底組めないほど精密な意味が眠っている。


 レグルスが足を止めた。

 細い銀縁眼鏡の奥で、灰紫の瞳が扉の文字を慎重に追う。

 けれど彼には、文字の意味までは分からない。

 見えているのは、刻まれた形と配置だけだった。


「扉だね」


 リネが小さく言う。

 赤茶色のポニーテールが、地下の冷たい空気に揺れた。

 小柄な体はいつでも動けるように半歩だけ前へ出ている。

 かわいらしい顔立ちなのに、こういう時の立ち方は完全に護衛のそれだった。


 アルノは扉を見つめた。

 少したれた大きな灰色の瞳が、刻まれた神代文字を追う。

 光を受けると、硝子みたいな銀色が静かに浮かんだ。


 意味が流れ込んでくる。

 読むというより、扉の方から伝えてくるような感覚だった。


 閉鎖。

 保存。

 入室許可。


 そんな意味の断片が、頭の奥へ落ちてくる。


 アルノの指先が無意識に動いた。

 空中で点と点を結ぶように、扉の文字と円環をなぞってしまう。

 エルディオンがその横顔を見て、ふっと笑った。


「開きそう?」


「……たぶん」


 アルノは少しだけ不安そうに答えた。


「でも、鍵みたいなものじゃないです。文字そのものが、扉の役割をしてるみたいな感じで」


「意味で閉じている、ということですか」


 レグルスが低く呟いた。

 もう手帳を取り出している。


「それが正しいなら、現代の封鎖術式とは根本から違いますね」


「開けても大丈夫?」


 リネは扉とアルノを見比べる。


 何かあれば、すぐ動けるように半歩だけ前へ出ていた。


 アルノは扉に触れた。

 古い木のような感触が指先に伝わる。

 冷たすぎず、温かすぎない。

 千年以上前のものだとは思えないほど、なめらかだった。


 扉の縁に刻まれた神代文字が、ほんの少しだけ淡く光る。

 音もなく、扉が内側へ開いた。

 アルノは目を瞬いた。


「……部屋?」


 そこにあったのは、研究室らしき部屋だった。


 巨大な祭壇でも、神殿の奥にある聖域でもない。

 白い光に包まれた儀式場を想像していたアルノは、思わず足を止めた。


 大きな木の机。

 背もたれのある椅子。

 壁一面の書架。

 革張りの本。

 石板。

 束ねられた羊皮紙。

 布を掛けられた棚。


 机の上には、羽根ペンによく似た筆記具と、木製の定規のようなものが置かれていた。

 隅には古びた真鍮のランプがあり、炎を入れるはずの場所には何もないのに、乳白色の石だけが静かに光を灯している。


 見た目は、魔術師の書斎だった。


 けれど、何かがおかしい。

 千年以上閉ざされていたはずなのに、机は腐っていない。

 革張りの本も崩れず、棚へ並ぶ羊皮紙も形を保っている。

 木も、革も、布も。

 どれも長い年月を経た古さはある。

 それでも、千年以上という時間を過ごしたとは思えなかった。


 それらを長い時間から守っている理論だけが、異常なほど高度だった。


 空気は澄んでいた。

 埃っぽさはほとんどない。

 木と紙と革の古い匂いが、微かに残っている。

 新しい匂いではない。

 けれど、死んだ部屋の匂いでもなかった。


 誰かがここで働いていた。

 誰かがこの机に座っていた。

 誰かが本を読み、文字を書き、考えていた。

 そんな光景が自然と浮かんだ。


「なんか、普通だね」


 リネがぽつりと言った。

 琥珀色の瞳が机や椅子を順に見ている。

 戦闘の気配を探す時とは違う、少し不思議そうな目だった。


「うん」


 アルノも頷いた。


 神代文明。

 超古代。

 失われた魔法理論。

 そういう言葉で考えていた。


 けれど、この部屋は違う。

 ここには確かに誰かがいた。


 レグルスはすでに室内へ足を踏み入れていた。

 まず本棚へ行くかと思ったが、彼は壁、天井、床、机の配置を順に見ている。

 研究者の目だった。興味がありすぎて、逆にどこから触るべきか考えているようにも見える。


「保存状態が異常です」


 木も、革も、布も。

 千年以上の時間を経たとは思えなかった。


 アルノは苦笑する。

 自分も人のことは言えない。

 目の前に本棚があるだけで、もう意識の半分はそちらへ引っ張られている。


 エルディオンは部屋をゆっくり見回していた。

 長い銀髪が肩を滑り、深い碧眼が机、本棚、椅子、積まれた書類を静かに映す。

 いつものように穏やかで、けれど少しだけ遠いものを見るようでもあった。


「ここ仕事場だったんだ」


 エルディオンが静かに言った。

 アルノが振り向く。

 エルディオンは机へ視線を落としている。


「誰かが毎日ここへ来て、本を読んで、研究して」


 白い指先が、机の縁へそっと触れた。


「そういう時間を過ごしてたんだろうね」


 その声は、いつもより少し柔らかかった。

 アルノは机を見る。


 大きな机の片隅には、しおりが挟まれたままの本が置かれていた。

 開きかけだったのか、閉じた途中だったのかは分からない。

 ただ、そのまま戻ってくるつもりだったように見える。

 椅子も、きっちり収まってはいなかった。

 ほんの少しだけ引かれている。

 誰かが立ち上がり、そのまま戻らなかった。

 そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ静かになった。


「ここで休憩してたのかな」


 リネが机の横にある小さな台を見て言った。

 そこには杯のような器が置かれていた。中身はない。

 けれど、手に取りやすい位置に置かれている。

 机の上の書類や筆記具と同じように、日常の中にあったものに見えた。


「お茶飲んで、本読んでたのかも」


「リネらしい見方だね」


 アルノが言うと、リネは少し笑った。


「だって、ずっと研究してたら疲れるでしょ」


「お腹も空く?」


「空く」


 即答だった。

 エルディオンが楽しそうに笑う。

 空気が少しだけ和らいだ。


 アルノは本棚へ近付いた。

 背表紙には神代文字が並んでいる。

 題名だろうか。

 文字を見た瞬間、胸の奥が跳ねた。


 神代時代の本。

 しかも、一冊ではない。

 書架いっぱいに並んでいる。


 魔法陣。

 術式理論。

 神代スペル。

 そんな本が、この中に眠っているかもしれない。

 そう思っただけで胸が高鳴る。


 淡い灰色の瞳が、光を受けて硝子のような銀色に揺れた。

 指先が、また無意識に動く。

 空中で、文字と文字を結ぶように。

 線を繋ぐように。

 エルディオンはその仕草を見て、小さく笑った。


「楽しそうだね」


「……はい」


 アルノは少し照れくさそうに頷く。

 否定はできなかった。

 胸の高鳴りを抑えきれないまま、そっと一冊を引き抜いた。


 革張りの表紙だった。

 指先に伝わる感触は古い。

 けれど、脆くはない。革の表面には細かな傷があり、何度も手に取られていたことが分かる。

 背の部分には神代文字が焼き印のように刻まれていた。

 表紙に触れた瞬間、意味が頭へ流れ込んできた。

 読む、というより。

 見た瞬間に、意味だけが分かる。

 アルノは息を止めた。


「読める?」


 エルディオンが聞く。


「たぶん」


 アルノは答えた。


「中を見ないと分からないけど」


 少しだけ声が弾んでいた。

 アルノの横顔を見て、エルディオンがふっと笑う。


「目が輝いてる」


「え?」


 アルノは思わずエルディオンをみた。


「魔法陣とか、こういう本を見ると、目が輝くね」


 エルディオンは少しだけ目を細め、楽しそうに笑った。

 リネが懐かしそうに笑う。


「昔から時間を忘れちゃうもんね」


「……うん」


 アルノは照れくさそうに頬をかいた。


「否定はできないかも」


 レグルスは別の書架の前で足を止めた。

 本へ手を伸ばしかけ、静かに引っ込める。


「……不用意には触れない方がいいですね」


「どうして?」


 リネが首を傾げる。


「本が並んでいる順番にも意味があるかもしれません」


「使用頻度や分類、研究の流れが分かる可能性があります」


 灰紫の瞳は真剣だった。


 アルノは、自分がすでに一冊引き抜いていることに気付き、小さく肩をすくめる。


「……ごめん」


 レグルスはその本を一瞥した。


「問題ありません」


「その本は、最初から読む予定でした」


「先に内容を確認しましょう」


 レグルスはあっさり言った。

 アルノは苦笑する。

 けれど、その前に机の方からリネの声がした。


「これ、どうやって光ってるんだろう」


 アルノたちは振り返る。


 机の隅に、真鍮のランプが置かれていた。

 形は古い。王都の古道具屋に並んでいてもおかしくない。

 丸い台座に、細い支柱。上部には乳白色の石が嵌め込まれている。


 炎はない。

 油の匂いもしない。

 煙の跡もない。

 それなのに、乳白色の石だけが静かに光を灯していた。


「これも神代の魔道具かな」


 アルノが呟く。

 レグルスはランプを持ち上げ、角度を変えながら慎重に観察した。

 表面に刻まれた神代文字を追い、しばらく黙り込む。


「……分かりません」


 静かにランプを戻した。


「少なくとも、私の知る照明術式ではありません」


 アルノもそっと手を近づける。

 熱はない。

 炎もない。

 それでも、乳白色の石は静かに部屋を照らしている。


 魔力の流れを探してみる。

 だが、現代魔法のような術式は見当たらなかった。


 円も。

 三角も。

 術式の核もない。

 ただ、そこに光がある。


「どういう仕組みなんだろう……」


 アルノは小さく呟いた。


 けれど、レグルスだけはもう机の周囲へ意識を戻していた。

 書類。

 筆記具。

 棚。

 机の上の本。

 視線が順番に動き、ある一点で止まる。


「アルノ」


 声が飛んだ。

 アルノは振り返る。

 レグルスが手招きしていた。

 眼鏡の奥の目が輝いている。

 新しい情報の匂いを嗅ぎつけた研究者の顔だった。

 嫌な予感がした。


「読んでください」


 アルノはため息をつき、レグルスの元へ向かう。

 机の上には、一冊の本が置かれていた。

 しおりが挟まれたままの本だ。

 他の本と違い、最初からこの机の上に置かれていた。

 使われていた途中だったように見える。


「これです」


「お願いします」


 アルノは本の前に立つと、不思議な緊張が胸へ広がった。


 ここに座っていた誰かが、最後に読んでいた本。

 その続きを、自分が読む。

 千年以上離れた時間の向こうへ、手を伸ばすような気がした。


 アルノはそっと本を開いた。

 神代文字が並んでいる。

 見た瞬間、意味が自然と頭へ流れ込んできた。

 胸の奥が少しだけ熱くなる。


「星環運転日誌」


 レグルスが身を乗り出した。


「日誌ですか」


「うん」


 アルノはページへ視線を落とした。

 文字は整っていた。

 癖はあるが、乱れていない。

 毎日同じように記録していたのだろう。

 紙面から、几帳面な人柄まで見える気がした。


 アルノはゆっくり読み上げる。


「本日も異常なし」


 短い一文だった。

 リネが瞬きをする。


「普通だね」


 レグルスも頷いた。

 アルノは少しだけ可笑しくなった。

 さらに読む。


「各観測値、基準値内。第三観測班との合同会議を実施。第二層の流路圧を確認。点検担当は予定通り交代」


 レグルスの手が止まらなくなる。

 手帳に、次々と文字が書き込まれていく。


「第二層」


 彼は小さく呟いた。


「星環内部に階層構造がある可能性がありますね」


「それ、今ので分かるんですか」


「分かりません。仮説です」


 レグルスは顔を上げないまま答えた。

 リネが机に肘をつきそうになり、慌てて引っ込める。


「会議とか点検とか、神代の人たちも大変だったんだね」


「そうみたい」


 アルノは頷いた。

 神代文明。

 それは、もっと遠くて、触れられないものだと思っていた。

 けれど日誌に書かれているのは、異常なし、会議、点検、担当交代。

 驚くほど普通だった。


 人がいて。

 仕事があって。

 毎日記録を残していた。


 その当たり前さが、かえって胸に残る。

 アルノはページをめくった。


「第二層観測終了。異常なし。第三区画のエネルギー流量、基準値内」


 少しだけ息を整える。

 文字の意味が次々と流れ込んでくる。

 分かる。

 けれど、情報量が多い。神代文字は一つ一つが深く、現代語へ置き換えるまでに少しだけ遅れが生まれる。

 アルノの指先が、ページの端で止まった。

 次の一文を読んだ瞬間、胸の奥がひやりとした。


「第五星環との定期連絡を実施」


 部屋が静かになる。

 リネが顔を上げた。

 レグルスの筆記音も止まる。

 エルディオンの碧眼が、静かにアルノへ向いた。


「今、何て?」


 リネが小さく聞く。

 アルノはもう一度、文字を見る。

 見間違いではない。

 意味は変わらない。

 胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。


「第五星環」


 レグルスが低く呟いた。

 その声には、普段の落ち着きとは違う熱があった。


「少なくとも、星環は五つ以上存在していたことになります」


 アルノは日誌を見つめたまま、喉を鳴らした。


 第二星環を見つけただけでも、世界が少し広がった気がしていた。

 けれど違った。

 まだ先がある。

 知らない星環が、まだ存在している。

 神代文明の繋がりは、自分たちが思っていたよりずっと大きいのかもしれない。

 アルノの指先が、無意識にページの端を握る。

 古い文字が、真鍮のランプの柔らかな光の中で静かに並んでいた。

 レグルスがゆっくり顔を上げる。


「……第五星環?」


 その一言が、研究室の静けさの中へ落ちた。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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