表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/18

浮島

 湖から吹く風は、昼よりも冷たくなっていた。


 岸壁に並ぶ漁船は、波に合わせてゆっくり揺れている。

 木の船腹が杭に触れるたび、こつん、と乾いた音が響いた。

 夕暮れの光を受けた湖面は茜色に染まり、遠くへ向かうほど紫がかった影の中へ沈んでいる。


「では、船を手配しましょう」


 レグルスは手帳を閉じると、迷いなく港の奥へ歩き出した。

 淡い金髪が風に揺れ、灰色の外套の裾が足元で小さく翻る。

 細い銀縁眼鏡の奥では、灰紫の瞳がすでに次の段取りを考えていた。


「船って、すぐ出してもらえるものなの?」


 リネが隣で首を傾げる。赤茶色のポニーテールが肩の上で揺れた。


「内容次第でしょうね」


 レグルスは淡々と答えた。


「今回は、行き先が問題です」


 湖中央。


 霧の日に近付くなと言われ、白い島が現れるとも、鐘の音が聞こえるとも語られてきた場所だった。

 港の端では、先ほど話を聞いたばかりのガルドが、また網を手に取っていた。

 日に焼けた横顔は、夕暮れの湖へ向けられている。

 白くなった髪が風に揺れ、太い指が何度も同じ網目を確かめていた。

 手は動いているのに、その目だけは湖の中央から離れていない。

 アルノには、老人の中にも迷いが残っているように見えた。


「ガルドさん」


 アルノが声を掛けると、老人は顔だけをこちらへ向けた。


「今度は何だ」


 ぶっきらぼうな声だったが、追い払うような響きではなかった。

 レグルスが一歩前へ出る。


「お願いがあります」


「お願い?」


「明日の朝、湖中央付近まで船を出していただけませんか」


 ガルドの手が止まった。

 網を編んでいた太い指が、ぴたりと動きを止める。

 先ほどまで穏やかだった目に、わずかな警戒が宿った。


「湖の真ん中へ?」


「はい」


「何をしに行く」


 レグルスは一拍置いた。


「確認です」


「白い島をか」


「はい」


 港の音が遠くなった気がした。

 ガルドはしばらく黙っていた。

 網を膝に置いたまま、湖の中央へ目を向ける。夕暮れの水面には何もない。

 島も、霧も、鐘の音もない。

 ただ静かな波が、岸壁へ寄せては返しているだけだった。


「やめておけ」


 短い言葉だった。

 リネの琥珀色の瞳が、少しだけ細くなる。


「危ないんですか?」


「分からん」


 ガルドは正直に答えた。


「分からんから、行かない方がいい。漁師はな、湖を怖がれる奴だけが長生きする」


 その言葉には、湖で生きてきた者の重みがあった。

 アルノは何も言えなかった。

 地図にない島。霧の日に現れる場所。

 誰も見つけられなかった白い影。

 子どもを脅かすだけの昔話だと笑っていたはずの老人が、今は笑っていない。

 エルディオンが静かに口を開いた。


「怖い場所なんだね」


 穏やかな声だった。

 ガルドは銀髪の魔術師をじっと見た。

 夕暮れの光を受けたエルディオンの横顔は、現実離れするほど整っている。

 それでも、彼の声には相手を急かす響きがなかった。


「怖いかどうかも分からん」


 ガルドは低く言う。


「ただ、湖には近付いちゃならん日と場所がある。霧の日の中央は、その一つだ」


「では、霧が深ければやめます」


 レグルスが答えた。

 ガルドは目を細める。


「簡単に言うな」


「簡単だとは思っていません」


 レグルスは地図を閉じた。


「だから、湖を知っている方にお願いしています」


 ガルドは返事をしなかった。

 風が吹き、岸壁に結ばれた船が小さく軋む。


「何もないかもしれないぞ」


 ガルドが静かに言った。


「島なんて、昔話かもしれん」


 エルディオンは小さく笑った。


「それなら、それでいいよ」


 長い銀髪が夕暮れの風に揺れる。


「何もないって分かるだけでも、一つ答えになる」


 アルノはその横顔を見つめた。

 本当にそうなのだと思った。

 見つからなくてもいい。

 けれど、確かめずに終わるのだけは嫌だった。


「あの」


 アルノは一歩前へ出た。

 古いローブの袖口を、指先がきゅっと掴んでいる。

 緊張している時の癖だった。


「僕、確かめたいんです」


 ガルドの視線がアルノへ向く。

 日に焼けた顔。深い皺。湖を見続けてきた目。

 その目に見つめられると、言葉が頼りなくなる。それでもアルノは続けた。


「伝承で終わらせていいものなのか、分からないから」


 指先がまた動きそうになった。

 空中で線を結ぼうとしてしまう。

 アルノはそれを隠すように手を下ろした。

 ガルドは長い間黙っていた。

 やがて、深く息を吐く。


「明日の朝だ」


 アルノは顔を上げた。


「え?」


「霧が濃すぎたら出さん。風が悪くても出さん。湖が嫌がってると思ったら、その場でやめる。それでいいなら、中央付近までは連れていく」


 リネの表情が明るくなる。


「ありがとうございます!」


「礼はまだ早い」


 ガルドは網を持ち直した。


「島に着けるとは言ってない。そもそも、そこに島があるとも思ってない」


 レグルスは静かに頷いた。


「十分です」


 エルディオンも穏やかに笑う。


「助かるよ」


 ガルドは小さく鼻を鳴らした。


「港に来るなら夜明けだ。遅れたら置いていく」


「ありがとうございます」


 アルノが頭を下げると、ガルドはもう一度だけ湖を見た。

 夕暮れの湖面は穏やかだった。

 けれど、その静けさの奥に何かが眠っているような気がして、アルノはしばらく目を離せなかった。


 ◇


 翌朝、湖には薄い霧がかかっていた。


 夜の冷たさをまだ残した空気が、船着き場の板張りを静かに湿らせている。

 岸へ打ち寄せる小さな波は、木の杭に触れるたび、ちゃぷり、と柔らかな音を立てた。

 湖面は白い布を広げたように霞み、遠くの景色は霧の向こうへ溶け込んでいる。


 船着き場には、小さな木造船が一艘停まっていた。

 大きな帆船ではない。

 湖を渡るための素朴な船で、船底は浅く、側面には長く使われてきた傷がいくつも残っている。

 船縁に結ばれた縄は朝露に濡れ、傍らではガルドが櫂の具合を確かめていた。


「来たか」


 ガルドは短く言った。

 その声は昨日よりも硬い。


 霧は濃すぎない。

 風も強くない。

 それでも、湖中央へ向かうと決めている朝の空気は、ただの出漁とは違っていた。


 レグルスは朝から地図を広げていた。

 細い銀縁眼鏡の奥で、灰紫の瞳が湖の中央に付けられた印を何度も追っている。

 図書館で絞り込んだ場所。

 伝承に共通して現れた、霧と鐘と白い島。その中心にある一点を、レグルスはまるで逃げ出す相手でも見張るように見つめていた。


「逃げませんよ」


 アルノが言うと、レグルスは地図から目を離さないまま答えた。


「知っています。ですが、確認は大切です」


 淡々とした声だった。

 ただ、その指先は同じ場所を何度もなぞっている。

 普段より少しだけ動きが速い。

 本人は平静のつもりなのだろうけれど、研究者としての高揚までは隠しきれていなかった。


 その横で、リネは魚のサンドを大事そうに両手で持っていた。

 湖で獲れた白身魚を香草で焼き、柔らかいパンに挟んだものだった。

 焼きたての魚の香ばしさと、刻んだ香草の爽やかな匂いが、朝の冷たい空気の中で妙に食欲を誘う。

 リネはひと口食べるたび、アーモンド形の琥珀色の瞳をほんの少し細めた。

 小柄で、ぱっと見は可愛い少女なのに、食べる量だけは商隊の大人たちに負けていない。


「本当においしそうに食べるよね」


 エルディオンが楽しそうに言った。


 長い銀髪が湖からの風にさらりと流れ、涼やかな香りがふわりと漂う。

 リネは魚のサンドを両手で持ったまま、真面目な顔で頷いた。


「おいしいから」


 その答えがあまりにも当然みたいで、アルノは少し笑ってしまった。


「朝から二個目だよね」


「うん」


「その小さい体のどこに入ってるの?」


 リネは少しだけ考えたあと、自分のお腹を見下ろした。


「ここ?」


「それはそうだけど」


 エルディオンが柔らかく笑った。

 その何気ないやり取りのおかげで、胸の奥に居座っていた緊張がほんの少しだけ薄くなる。


 第二星環。

 神代の記録。

 南へ飛んだ邪竜。

 それらがすべて繋がっているとは、まだ言えない。


 第一星環で読んだ神代文字。

 羊皮紙に記されていた第二星環の名。

 湖中央に残る伝承。

 そして、南へ飛んだ邪竜の影。

 ばらばらだったものが本当に一つへ繋がるのかは、まだ分からなかった。


 アルノは湖を見た。

 霧の向こうに、静かな水面が広がっている。

 昨日までただ綺麗だと思っていた湖が、今は少し違って見えた。

 何かを隠しているようで、同時に、こちらを待っているようにも見える。


「出すぞ」


 ガルドが縄を解く。

 エルディオンが船へ足をかけた。


「行こうか」


 その一言で、空気が変わった。


 柔らかな朝の時間が、ゆっくりと物語の奥へ押し出されていく。

 アルノは自分の鞄の紐を握り直した。古いローブの袖口が指に触れる。

 緊張すると、ついそこを掴んでしまう。


 リネが最後の一口を飲み込み、軽い動きで船へ乗り込む。


 レグルスは地図を丁寧に畳んだ。


 アルノも、船べりへ足を踏み出した。


 船が岸を離れる。

 櫂が水を掻くたびに、小さな波が広がっていった。

 船底が水面を滑る音は静かで、湖そのものが音を吸い込んでいるようだった。

 空は少しずつ青さを取り戻している。

 風は冷たいが、刺すような寒さではない。

 頬を撫でて通り過ぎるたび、水の匂いがした。

 水草と湿った木の匂いだった。


 朝の湖は、あまりにも穏やかだった。

 霧も、白い島も、鐘の音も、昨日聞いた話の中にだけあるもののように思える。

 けれど、その静けさがかえって、湖の奥に何かを隠しているようにも見えた。


 ガルドは慣れた手つきで櫂を動かしている。

 日焼けした横顔には緊張があるものの、湖を渡る動きに迷いはない。

 毎日のようにこの水の上で生きてきた人の動きだった。


 レグルスは地図と方位盤を見比べている。

 灰色の外套の裾が船板に触れ、細い指が方位盤の針を慎重に押さえた。


「目的地は湖の中央です」


 レグルスが確認するように言った。


「ただし、湖中央付近に島が存在するかは未確定です」


 ガルドは短く笑う。


「あると思って行くな。何もないと思っておいた方がいい」


「そうですね。その方が、発見できた時の意味は大きくなります」


「研究者ってのは変わってるな」


 レグルスは真面目な顔で頷いた。


「否定はしません」


 リネが少し笑った。


 エルディオンは船首に座り、湖を眺めている。

 長い銀髪が背中を流れ、深い碧眼は霧の奥を静かに映していた。

 いつもの穏やかさは残っているのに、どこか一歩だけ遠いところを見ているようだった。

 アルノは身を乗り出すように水面を見ていた。


「落ちないでよ」


 リネが言う。


「落ちないよ」


 たぶん、とは言わなかった。


 湖の水は驚くほど透明だった。

 船の影が淡く揺れ、水面の下には薄い青と緑が層になって沈んでいる。

 底までは見えない。けれど、ただ深いだけではない気がした。


 何かが引っ掛かる。

 神代文字を見た時と似た感覚だった。

 読む前に、意味がこちらへ流れ込んでくるあの感覚。

 文字ではない。声でもない。けれど、何かが確かにそこにあると分かる。


 アルノは淡い灰色の瞳を細めた。

 水面の光が揺れる。

 細い線のように、きらりと反射が走った。

 ただの光だと分かっている。

 波が動き、朝日が差し込んだからそう見えただけだ。

 それなのに、アルノの胸の奥は小さく騒いだ。


 気になる。

 ものすごく気になる。


 指先が、また勝手に動いた。

 船縁の上で、点と点を結ぶように空中をなぞる。

 湖面の揺れ。霧の流れ。地図で見た中央の印。

 自分でも分からないまま、それらを一本の線で繋ごうとしていた。

 エルディオンがそれに気付く。


「見えてる?」


 柔らかな声だった。

 アルノは少し驚いて、指を止めた。


「いえ……見えてる、というほどじゃないです」


 水面へ視線を戻す。


「でも、気になります」


「そっか」


 エルディオンはそれ以上聞かなかった。

 ただ、少しだけ嬉しそうに目を細める。


「そういう時のアルノは、楽しそうだね」


 アルノは何も言えなくなった。

 怖さもある。緊張もある。けれど確かに、知りたいという気持ちが胸の奥で光っていた。

 それを楽しそうと言われると、少し恥ずかしい。

 栗色の髪が風に揺れる。

 アルノはローブの袖を握り直し、湖の先を見た。


「あれ」


 思わず声が出る。

 全員が振り返った。

 アルノは湖の先を指差す。


「あそこ」


 遠くに何かが見えた。

 最初は岩だと思った。

 霧の中に、黒っぽい影が浮かんでいる。

 水面から少しだけ突き出た、ありふれた岩場のように見えた。

 けれど、船が近付くにつれて違和感が大きくなる。


 小さな島だった。

 岩肌の上に草が生え、数本の木まで立っている。

 白い霧をまとったその島は、湖面に浮かんでいるようにも、湖の底からゆっくり現れたようにも見えた。


「島?」


 リネが首を傾げる。

 レグルスは地図へ目を落とし、眉をひそめた。


「位置は、伝承に出てくる湖中央と一致しています」


 ガルドも目を見開いた。


「……本当にあったのか」


 櫂を握る手に、ぎゅっと力が入る。


「親父の代の漁師が見たって話、あれは……本当だったのか」


 アルノは島から目を離せなかった。

 近付けば近付くほど、胸の奥がざわつく。

 怖いわけではない。むしろ逆だった。

 指先がまた動きそうになる。

 空中で点と点を結び、まだ見えない何かの輪郭を探そうとしてしまう。


 知りたい。

 確かめたい。

 どうしてあの島が気になるのか。

 今すぐ近くで見てみたかった。


 エルディオンが静かに立ち上がる。

 船が少し揺れ、アルノは慌てて船縁を掴んだ。

 エルディオンは揺れなど気にした様子もなく、霧をまとった島を見つめている。

 深い碧眼に、いつもの軽さはなかった。


「見つけたね」


 その一言で、空気が変わった。

 船はゆっくりと浮島へ近付いていく。

 霧は島の周囲だけ少し濃かった。

 水面を這うように白く流れ、船底へまとわりつく。近くで見るほど、その島は奇妙だった。

 遠目にはただの岩場に見えた。

 けれど、岩肌が妙に滑らかだ。

 風雨に削られた自然の形とは違う。

 表面には苔が生え、土が溜まり、ところどころ欠けた跡もある。

 それなのに、全体の輪郭だけは不自然なほど整っていた。


 古い。

 けれど、ただ朽ちただけではない。

 長い時間を受け止めながら、それでも何かの形を保ち続けている。

 船が島の縁へ寄せられる。


「俺はここで待つ」


 ガルドは低く言った。


「長居はするな。霧が濃くなったら、声を掛ける前に船を出す」


「置いていくってこと?」


 リネが少し目を丸くする。


「近くまで戻る。だが、ここに張り付いて沈む気はない」


 厳しい言い方だった。

 けれど、それが脅しではなく、湖で生きる者の判断なのだと分かった。

 エルディオンが頷く。


「分かった。無理はしなくていい」


 ガルドは少しだけ意外そうにエルディオンを見た。


「英雄様ってのは、もっと無茶を言うもんだと思ってた」


「無茶はするけど、人に押し付けるのは違うから」


 エルディオンは穏やかに笑った。

 ガルドは何も言わず、船を島の縁へ固定した。


 エルディオンが最初に降りた。

 続いてリネが軽い動きで船縁を越える。

 小柄な体なのに足取りは安定していて、濡れた岩場の上でも迷いがない。

 レグルスは外套の裾を押さえながら降り、すぐに周囲を観察し始めた。

 最後にアルノが島へ足を踏み入れる。


 地面はしっかりしていた。

 草も生えている。木もある。

 少し湿った土の匂いがして、足元では小さな虫が動いている。

 普通の島に見える。

 それなのに、胸の奥のざわつきだけは消えなかった。

 むしろ強くなっている。


 アルノは周囲を見回した。

 岩と草と木がある。

 それだけなら、ただの小島だった。

 けれど、足元から伝わる感覚が違う。

 土の下に何かがある。地面そのものが、自然の地面ではない。そんな気がした。


「あれ?」


 足が止まった。


 岩の表面に線が見えた。

 最初はひび割れだと思った。古い石にはよくある細い裂け目。

 けれど違う。線は途中で折れ、また別の線と合流している。

 偶然にできた傷ではない。規則がある。

 誰かが刻んだように並んでいた。


 アルノは思わず近付いた。

 膝をつき、指でなぞる。

 古い石の冷たさが指先に伝わった。溝の中には苔が入り込み、細かな土も詰まっている。

 それでも、線そのものは消えていない。

 水と風に晒され、植物に覆われながら、長い時間を越えて残っている。

 頭の奥が少しだけ熱くなった。


「アルノ?」


 リネの声が聞こえる。


「これ」


 アルノは岩を指差した。


 レグルスが覗き込む。銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳が細められた。


「人工的ですね」


「やっぱり」


 少しだけ嬉しくなる。

 勘違いじゃなかった。


 アルノは別の岩を見る。

 さらに別の岩にも、同じような溝が刻まれていた。

 途切れているようで、どこか繋がっている。

 そう感じたのは、アルノだけだった。


 レグルスには、露出した石の加工跡と、規則的に刻まれた溝が見えているのだろう。

 けれど、その溝がどこへ向かい、何と繋がっているのかまでは分からない。

 アルノの指先が、無意識に空中を動いた。

 点と点を結ぶ。

 岩の溝と、地面の下へ隠れた見えない流れを、頭の中で繋いでいく。


「これは、外装の一部でしょうか」


 レグルスが低く呟く。


 その声には考え込む響きがあった。

 答えを出しているのではなく、仮説を組み立てている声だった。


「自然島ではない、と?」


 エルディオンが尋ねる。

 レグルスは石の表面を指先でなぞった。


「少なくとも、完全な自然物ではありません。表層に土と植物が乗っていますが、下にあるのは整形された構造物です」


 リネが足元を見下ろす。


「じゃあ、島に見えてるだけ?」


「その可能性が高いです」


 アルノはその会話を聞きながらも、目は溝を追っていた。


 一本一本の溝は古い。

 角は苔に覆われ、ところどころ土に埋もれている。

 けれど、配置にはまだ意思が残っている気がした。

 何かを流すための道。何かを集めるための形。

 第一星環の魔法陣とは違うのに、似た気配がある。

 ただの遺跡じゃない。

 そんな気がした。


「アルノ、どこ行くの?」


 リネが呼ぶ。

 気付けば歩き出していた。


「ちょっと待って」


 返事をしながら、さらに先へ進む。

 溝はまだ続いているように思えた。

 途中で見えなくなる。けれど消えたわけではない。

 土に埋もれているだけだ。


 アルノはしゃがみ込んだ。

 ローブの裾が湿った草に触れるのも構わず、草を掻き分ける。

 土を払う。


「あ」


 声が漏れた。

 そこにも同じような溝があった。

 後ろから足音が近付く。レグルスだった。


「何かありましたか」


「これです」


 アルノは地面を指差した。

 レグルスもしゃがみ込む。

 外套の裾が地面につくのも気にしていない。

 灰紫の瞳が、露出した石の溝と、周囲の岩の配置を慎重に見比べた。


「少なくとも、同じ規格で刻まれていますね」


「ですよね」


 アルノは頷いた。

 けれど、胸の奥では別の確信があった。

 これは同じ規格どころではない。

 繋がっている。

 そう見えているのは、おそらく自分だけだった。


 アルノはさらに溝を追った。

 木々の奥。

 島の中央付近。

 そこで地面が少しだけ沈んでいた。

 不自然なくぼみだった。

 草が密集している。

 長い年月の間に土が溜まり、根が絡み、入口だったものを隠してしまったように見えた。


 アルノはしゃがみ込む。

 草の隙間から、何かが見えた。

 石。

 いや、ただの石ではない。

 指先で触れる。

 平らだった。

 自然の岩ではない。誰かが削ったように整っている。

 しかも、その端には、さっきから追ってきた溝と同じものが続いていた。


「リネ」


「ん?」


「ここ、手伝って」


「いいよ」


 リネは即答した。

 草を掴む。

 次の瞬間、根ごと引き抜いた。

 土が大きく崩れ落ちる。

 湿った匂いがぶわりと広がり、絡まっていた根が石の表面から剥がれていく。豪快だった。

 アルノは少しだけ固まった。


「……すごい」


「力仕事には慣れてるから」


 リネは平然と次の草を引き抜いた。

 赤茶色のポニーテールが勢いよく揺れ、琥珀色の瞳は作業に集中している。

 可愛い顔立ちをしているのに、動きには迷いがなく、力の入れ方も慣れていた。

 商隊で荷下ろしも護衛もこなしてきた日々が、こういうところに自然と出る。


 アルノとレグルスも土を払った。

 エルディオンは少し離れた位置から周囲を見ている。

 手伝わないわけではない。ただ、何かが起きてもすぐ動けるように、静かに場を見ていた。


 やがて、土の下から石畳が現れた。

 白い石だった。

 ただ、第一星環で見た白とは少し違う。

 こちらの石は水の気配を含んだように冷たく、表面には苔の跡や細かな染みが残っている。

 それでも崩れてはいない。

 水と土に守られ、長い眠りの中で形を保っていた。


 さらにその先。

 地中へ続く階段が見えた。

 静かな沈黙が落ちる。

 階段の縁には、島中で見つけたものと同じ溝が刻まれている。

 その溝がすべてここへ集まっているように見えたのは、アルノだけだった。


「入口ですね」


 レグルスの声は落ち着いていた。

 けれど、少しだけ速い。

 興奮しているらしい。

 彼は手帳を閉じると、階段の前へ一歩進んだ。


「先に確認します」


「レグルス?」


 アルノが顔を上げる。


「神代遺跡です。研究者として、最初に状態を見ます」


 淡々とした声だった。


 けれど、灰紫の瞳には抑えきれない熱があった。

 その背中を追うように、アルノたちも階段へ足を向けた。


 階段は思ったより長かった。

 地上の光が少しずつ遠ざかっていく。

 最初は背中に感じていた朝の気配が、一段下りるごとに薄れていった。

 代わりに、湿った空気が頬へ触れる。

 やがて足元が平らになった。


 アルノは顔を上げる。

 思わず足が止まった。


「え……?」


 白い石で造られた長い地下回廊が、奥へまっすぐ続いていた。

 壁には長い年月を刻んだ傷跡が幾筋も走っている。

 それでも崩れることなく、静かに回廊を支え続けていた。


 等間隔に埋め込まれた光石が、地下とは思えないほど柔らかな光を降り注いでいる。

 地下とは思えないほど静かで、美しい空間だった。

 壁にも床にも、侵食されたような痕跡は見当たらない。


 明るすぎない。

 けれど暗くもない。

 湖底の光が石へ溶け込んだような、柔らかな明るさだった。

 静かだった。

 けれど、死んでいる静けさではない。


 何かが今も、この施設の奥で眠り続けているような静けさだった。


 アルノも壁へ目を向けた。


 傷はある。

 水が流れた跡も残っている。

 それでも、長い年月を眠っていた場所とは思えないほど美しかった。


「第一星環と似ています。でも……雰囲気が全然違います」


 アルノが呟く。

 エルディオンは周囲を見回した。長い銀髪が肩を滑り、碧眼が白い壁の線を追う。


「そうだね。第一はもっと荒れてた」


 その言葉で、アルノは第一星環の光景を思い出した。


「そうだね。第一はもっと荒れてた」


 その言葉で、第一星環の光景が脳裏によみがえる。


 黒い侵食に覆われた床。

 重く沈んだ空気。


 目の前の回廊には、そのどちらもなかった。

 あの時は、それが神代遺跡の当たり前の姿なのだと思っていた。

 長い時を経れば、傷付き、侵食され、それでもなお形を保ち続ける。

 そういう場所なのだと。

 けれど、目の前の施設は違う。

 まるで誰かが今も管理しているみたいだった。


 リネが静かに周囲を見ている。

 普段ならすぐ歩き出す彼女も、今は足を止めていた。

 琥珀色の瞳が壁の光を映し、小柄な体がほんの少し緊張している。


「綺麗だけど、変な感じがするね」


「うん」


 アルノは頷いた。


 綺麗。

 確かに綺麗だった。


 でも、それだけではない。

 ここは美術品ではない。

 白い石で造られ、神代文字で覆われ、光石に照らされているから神聖に見えるだけで、本質は別のものだ。

 通路の下を、何かが流れている。

 壁の奥を、何かが巡っている。

 アルノには、そう感じられた。

 その時、壁の奥で何かが光った。

 淡い青白い光だった。

 細い線が、壁の中を流れていく。


 一本。

 また一本。


 やがて複雑な模様を描き始める。


 アルノは息を呑んだ。


 どこかで見た。

 いや、見たことはない。


 それでも分かる。

 ただの模様じゃない。


 意味がある。

 意味は分からない。

 それでも、奥へ進めと導かれているような気がした。

 そんなふうに言われている気がした。


「アルノ?」


 リネの声が聞こえる。

 けれど、目が離せなかった。

 光は施設の奥へ続いている。

 まるで道しるべみたいに。

 アルノは一歩踏み出す。


「また勝手に行く」


 リネが呆れた声を出す。


「ごめん」


「止まる気ないでしょ」


「……ないかも」


「正直」


 レグルスは壁の光を見つめていた。


「これは……稼働していますね」


 その声には、珍しく震えがあった。


 低い音が響く。

 地鳴りにも似た音だった。

 けれど、崩れる音ではない。

 もっと深く、もっと規則的な音だった。


 施設全体がわずかに震える。

 全員が足を止めた。


 誰かが動かしたわけではない。

 最初から動いていたのだ。

 気付いていなかっただけで。

 壁の光は静かに脈打っている。


 一本の光が奥へ走り、それを追うように別の線が枝分かれする。

 床の溝へ淡い青白い輝きが入り、天井の光石がゆっくりと明るさを増した。


 古い白石の回廊に、眠っていた流れが戻っていく。

 長い時間を抱えたまま。

 水と土の痕跡を残したまま。

 それでも、確かに生きている。


 アルノは胸の奥で、何かが繋がる音を聞いた気がした。


 第二星環は。

 今も動き続けていた。

後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半になります

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ