浮島
湖から吹く風は、昼よりも冷たくなっていた。
岸壁に並ぶ漁船は、波に合わせてゆっくり揺れている。
木の船腹が杭に触れるたび、こつん、と乾いた音が響いた。
夕暮れの光を受けた湖面は茜色に染まり、遠くへ向かうほど紫がかった影の中へ沈んでいる。
「では、船を手配しましょう」
レグルスは手帳を閉じると、迷いなく港の奥へ歩き出した。
淡い金髪が風に揺れ、灰色の外套の裾が足元で小さく翻る。
細い銀縁眼鏡の奥では、灰紫の瞳がすでに次の段取りを考えていた。
「船って、すぐ出してもらえるものなの?」
リネが隣で首を傾げる。赤茶色のポニーテールが肩の上で揺れた。
「内容次第でしょうね」
レグルスは淡々と答えた。
「今回は、行き先が問題です」
湖中央。
霧の日に近付くなと言われ、白い島が現れるとも、鐘の音が聞こえるとも語られてきた場所だった。
港の端では、先ほど話を聞いたばかりのガルドが、また網を手に取っていた。
日に焼けた横顔は、夕暮れの湖へ向けられている。
白くなった髪が風に揺れ、太い指が何度も同じ網目を確かめていた。
手は動いているのに、その目だけは湖の中央から離れていない。
アルノには、老人の中にも迷いが残っているように見えた。
「ガルドさん」
アルノが声を掛けると、老人は顔だけをこちらへ向けた。
「今度は何だ」
ぶっきらぼうな声だったが、追い払うような響きではなかった。
レグルスが一歩前へ出る。
「お願いがあります」
「お願い?」
「明日の朝、湖中央付近まで船を出していただけませんか」
ガルドの手が止まった。
網を編んでいた太い指が、ぴたりと動きを止める。
先ほどまで穏やかだった目に、わずかな警戒が宿った。
「湖の真ん中へ?」
「はい」
「何をしに行く」
レグルスは一拍置いた。
「確認です」
「白い島をか」
「はい」
港の音が遠くなった気がした。
ガルドはしばらく黙っていた。
網を膝に置いたまま、湖の中央へ目を向ける。夕暮れの水面には何もない。
島も、霧も、鐘の音もない。
ただ静かな波が、岸壁へ寄せては返しているだけだった。
「やめておけ」
短い言葉だった。
リネの琥珀色の瞳が、少しだけ細くなる。
「危ないんですか?」
「分からん」
ガルドは正直に答えた。
「分からんから、行かない方がいい。漁師はな、湖を怖がれる奴だけが長生きする」
その言葉には、湖で生きてきた者の重みがあった。
アルノは何も言えなかった。
地図にない島。霧の日に現れる場所。
誰も見つけられなかった白い影。
子どもを脅かすだけの昔話だと笑っていたはずの老人が、今は笑っていない。
エルディオンが静かに口を開いた。
「怖い場所なんだね」
穏やかな声だった。
ガルドは銀髪の魔術師をじっと見た。
夕暮れの光を受けたエルディオンの横顔は、現実離れするほど整っている。
それでも、彼の声には相手を急かす響きがなかった。
「怖いかどうかも分からん」
ガルドは低く言う。
「ただ、湖には近付いちゃならん日と場所がある。霧の日の中央は、その一つだ」
「では、霧が深ければやめます」
レグルスが答えた。
ガルドは目を細める。
「簡単に言うな」
「簡単だとは思っていません」
レグルスは地図を閉じた。
「だから、湖を知っている方にお願いしています」
ガルドは返事をしなかった。
風が吹き、岸壁に結ばれた船が小さく軋む。
「何もないかもしれないぞ」
ガルドが静かに言った。
「島なんて、昔話かもしれん」
エルディオンは小さく笑った。
「それなら、それでいいよ」
長い銀髪が夕暮れの風に揺れる。
「何もないって分かるだけでも、一つ答えになる」
アルノはその横顔を見つめた。
本当にそうなのだと思った。
見つからなくてもいい。
けれど、確かめずに終わるのだけは嫌だった。
「あの」
アルノは一歩前へ出た。
古いローブの袖口を、指先がきゅっと掴んでいる。
緊張している時の癖だった。
「僕、確かめたいんです」
ガルドの視線がアルノへ向く。
日に焼けた顔。深い皺。湖を見続けてきた目。
その目に見つめられると、言葉が頼りなくなる。それでもアルノは続けた。
「伝承で終わらせていいものなのか、分からないから」
指先がまた動きそうになった。
空中で線を結ぼうとしてしまう。
アルノはそれを隠すように手を下ろした。
ガルドは長い間黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「明日の朝だ」
アルノは顔を上げた。
「え?」
「霧が濃すぎたら出さん。風が悪くても出さん。湖が嫌がってると思ったら、その場でやめる。それでいいなら、中央付近までは連れていく」
リネの表情が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「礼はまだ早い」
ガルドは網を持ち直した。
「島に着けるとは言ってない。そもそも、そこに島があるとも思ってない」
レグルスは静かに頷いた。
「十分です」
エルディオンも穏やかに笑う。
「助かるよ」
ガルドは小さく鼻を鳴らした。
「港に来るなら夜明けだ。遅れたら置いていく」
「ありがとうございます」
アルノが頭を下げると、ガルドはもう一度だけ湖を見た。
夕暮れの湖面は穏やかだった。
けれど、その静けさの奥に何かが眠っているような気がして、アルノはしばらく目を離せなかった。
◇
翌朝、湖には薄い霧がかかっていた。
夜の冷たさをまだ残した空気が、船着き場の板張りを静かに湿らせている。
岸へ打ち寄せる小さな波は、木の杭に触れるたび、ちゃぷり、と柔らかな音を立てた。
湖面は白い布を広げたように霞み、遠くの景色は霧の向こうへ溶け込んでいる。
船着き場には、小さな木造船が一艘停まっていた。
大きな帆船ではない。
湖を渡るための素朴な船で、船底は浅く、側面には長く使われてきた傷がいくつも残っている。
船縁に結ばれた縄は朝露に濡れ、傍らではガルドが櫂の具合を確かめていた。
「来たか」
ガルドは短く言った。
その声は昨日よりも硬い。
霧は濃すぎない。
風も強くない。
それでも、湖中央へ向かうと決めている朝の空気は、ただの出漁とは違っていた。
レグルスは朝から地図を広げていた。
細い銀縁眼鏡の奥で、灰紫の瞳が湖の中央に付けられた印を何度も追っている。
図書館で絞り込んだ場所。
伝承に共通して現れた、霧と鐘と白い島。その中心にある一点を、レグルスはまるで逃げ出す相手でも見張るように見つめていた。
「逃げませんよ」
アルノが言うと、レグルスは地図から目を離さないまま答えた。
「知っています。ですが、確認は大切です」
淡々とした声だった。
ただ、その指先は同じ場所を何度もなぞっている。
普段より少しだけ動きが速い。
本人は平静のつもりなのだろうけれど、研究者としての高揚までは隠しきれていなかった。
その横で、リネは魚のサンドを大事そうに両手で持っていた。
湖で獲れた白身魚を香草で焼き、柔らかいパンに挟んだものだった。
焼きたての魚の香ばしさと、刻んだ香草の爽やかな匂いが、朝の冷たい空気の中で妙に食欲を誘う。
リネはひと口食べるたび、アーモンド形の琥珀色の瞳をほんの少し細めた。
小柄で、ぱっと見は可愛い少女なのに、食べる量だけは商隊の大人たちに負けていない。
「本当においしそうに食べるよね」
エルディオンが楽しそうに言った。
長い銀髪が湖からの風にさらりと流れ、涼やかな香りがふわりと漂う。
リネは魚のサンドを両手で持ったまま、真面目な顔で頷いた。
「おいしいから」
その答えがあまりにも当然みたいで、アルノは少し笑ってしまった。
「朝から二個目だよね」
「うん」
「その小さい体のどこに入ってるの?」
リネは少しだけ考えたあと、自分のお腹を見下ろした。
「ここ?」
「それはそうだけど」
エルディオンが柔らかく笑った。
その何気ないやり取りのおかげで、胸の奥に居座っていた緊張がほんの少しだけ薄くなる。
第二星環。
神代の記録。
南へ飛んだ邪竜。
それらがすべて繋がっているとは、まだ言えない。
第一星環で読んだ神代文字。
羊皮紙に記されていた第二星環の名。
湖中央に残る伝承。
そして、南へ飛んだ邪竜の影。
ばらばらだったものが本当に一つへ繋がるのかは、まだ分からなかった。
アルノは湖を見た。
霧の向こうに、静かな水面が広がっている。
昨日までただ綺麗だと思っていた湖が、今は少し違って見えた。
何かを隠しているようで、同時に、こちらを待っているようにも見える。
「出すぞ」
ガルドが縄を解く。
エルディオンが船へ足をかけた。
「行こうか」
その一言で、空気が変わった。
柔らかな朝の時間が、ゆっくりと物語の奥へ押し出されていく。
アルノは自分の鞄の紐を握り直した。古いローブの袖口が指に触れる。
緊張すると、ついそこを掴んでしまう。
リネが最後の一口を飲み込み、軽い動きで船へ乗り込む。
レグルスは地図を丁寧に畳んだ。
アルノも、船べりへ足を踏み出した。
船が岸を離れる。
櫂が水を掻くたびに、小さな波が広がっていった。
船底が水面を滑る音は静かで、湖そのものが音を吸い込んでいるようだった。
空は少しずつ青さを取り戻している。
風は冷たいが、刺すような寒さではない。
頬を撫でて通り過ぎるたび、水の匂いがした。
水草と湿った木の匂いだった。
朝の湖は、あまりにも穏やかだった。
霧も、白い島も、鐘の音も、昨日聞いた話の中にだけあるもののように思える。
けれど、その静けさがかえって、湖の奥に何かを隠しているようにも見えた。
ガルドは慣れた手つきで櫂を動かしている。
日焼けした横顔には緊張があるものの、湖を渡る動きに迷いはない。
毎日のようにこの水の上で生きてきた人の動きだった。
レグルスは地図と方位盤を見比べている。
灰色の外套の裾が船板に触れ、細い指が方位盤の針を慎重に押さえた。
「目的地は湖の中央です」
レグルスが確認するように言った。
「ただし、湖中央付近に島が存在するかは未確定です」
ガルドは短く笑う。
「あると思って行くな。何もないと思っておいた方がいい」
「そうですね。その方が、発見できた時の意味は大きくなります」
「研究者ってのは変わってるな」
レグルスは真面目な顔で頷いた。
「否定はしません」
リネが少し笑った。
エルディオンは船首に座り、湖を眺めている。
長い銀髪が背中を流れ、深い碧眼は霧の奥を静かに映していた。
いつもの穏やかさは残っているのに、どこか一歩だけ遠いところを見ているようだった。
アルノは身を乗り出すように水面を見ていた。
「落ちないでよ」
リネが言う。
「落ちないよ」
たぶん、とは言わなかった。
湖の水は驚くほど透明だった。
船の影が淡く揺れ、水面の下には薄い青と緑が層になって沈んでいる。
底までは見えない。けれど、ただ深いだけではない気がした。
何かが引っ掛かる。
神代文字を見た時と似た感覚だった。
読む前に、意味がこちらへ流れ込んでくるあの感覚。
文字ではない。声でもない。けれど、何かが確かにそこにあると分かる。
アルノは淡い灰色の瞳を細めた。
水面の光が揺れる。
細い線のように、きらりと反射が走った。
ただの光だと分かっている。
波が動き、朝日が差し込んだからそう見えただけだ。
それなのに、アルノの胸の奥は小さく騒いだ。
気になる。
ものすごく気になる。
指先が、また勝手に動いた。
船縁の上で、点と点を結ぶように空中をなぞる。
湖面の揺れ。霧の流れ。地図で見た中央の印。
自分でも分からないまま、それらを一本の線で繋ごうとしていた。
エルディオンがそれに気付く。
「見えてる?」
柔らかな声だった。
アルノは少し驚いて、指を止めた。
「いえ……見えてる、というほどじゃないです」
水面へ視線を戻す。
「でも、気になります」
「そっか」
エルディオンはそれ以上聞かなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに目を細める。
「そういう時のアルノは、楽しそうだね」
アルノは何も言えなくなった。
怖さもある。緊張もある。けれど確かに、知りたいという気持ちが胸の奥で光っていた。
それを楽しそうと言われると、少し恥ずかしい。
栗色の髪が風に揺れる。
アルノはローブの袖を握り直し、湖の先を見た。
「あれ」
思わず声が出る。
全員が振り返った。
アルノは湖の先を指差す。
「あそこ」
遠くに何かが見えた。
最初は岩だと思った。
霧の中に、黒っぽい影が浮かんでいる。
水面から少しだけ突き出た、ありふれた岩場のように見えた。
けれど、船が近付くにつれて違和感が大きくなる。
小さな島だった。
岩肌の上に草が生え、数本の木まで立っている。
白い霧をまとったその島は、湖面に浮かんでいるようにも、湖の底からゆっくり現れたようにも見えた。
「島?」
リネが首を傾げる。
レグルスは地図へ目を落とし、眉をひそめた。
「位置は、伝承に出てくる湖中央と一致しています」
ガルドも目を見開いた。
「……本当にあったのか」
櫂を握る手に、ぎゅっと力が入る。
「親父の代の漁師が見たって話、あれは……本当だったのか」
アルノは島から目を離せなかった。
近付けば近付くほど、胸の奥がざわつく。
怖いわけではない。むしろ逆だった。
指先がまた動きそうになる。
空中で点と点を結び、まだ見えない何かの輪郭を探そうとしてしまう。
知りたい。
確かめたい。
どうしてあの島が気になるのか。
今すぐ近くで見てみたかった。
エルディオンが静かに立ち上がる。
船が少し揺れ、アルノは慌てて船縁を掴んだ。
エルディオンは揺れなど気にした様子もなく、霧をまとった島を見つめている。
深い碧眼に、いつもの軽さはなかった。
「見つけたね」
その一言で、空気が変わった。
船はゆっくりと浮島へ近付いていく。
霧は島の周囲だけ少し濃かった。
水面を這うように白く流れ、船底へまとわりつく。近くで見るほど、その島は奇妙だった。
遠目にはただの岩場に見えた。
けれど、岩肌が妙に滑らかだ。
風雨に削られた自然の形とは違う。
表面には苔が生え、土が溜まり、ところどころ欠けた跡もある。
それなのに、全体の輪郭だけは不自然なほど整っていた。
古い。
けれど、ただ朽ちただけではない。
長い時間を受け止めながら、それでも何かの形を保ち続けている。
船が島の縁へ寄せられる。
「俺はここで待つ」
ガルドは低く言った。
「長居はするな。霧が濃くなったら、声を掛ける前に船を出す」
「置いていくってこと?」
リネが少し目を丸くする。
「近くまで戻る。だが、ここに張り付いて沈む気はない」
厳しい言い方だった。
けれど、それが脅しではなく、湖で生きる者の判断なのだと分かった。
エルディオンが頷く。
「分かった。無理はしなくていい」
ガルドは少しだけ意外そうにエルディオンを見た。
「英雄様ってのは、もっと無茶を言うもんだと思ってた」
「無茶はするけど、人に押し付けるのは違うから」
エルディオンは穏やかに笑った。
ガルドは何も言わず、船を島の縁へ固定した。
エルディオンが最初に降りた。
続いてリネが軽い動きで船縁を越える。
小柄な体なのに足取りは安定していて、濡れた岩場の上でも迷いがない。
レグルスは外套の裾を押さえながら降り、すぐに周囲を観察し始めた。
最後にアルノが島へ足を踏み入れる。
地面はしっかりしていた。
草も生えている。木もある。
少し湿った土の匂いがして、足元では小さな虫が動いている。
普通の島に見える。
それなのに、胸の奥のざわつきだけは消えなかった。
むしろ強くなっている。
アルノは周囲を見回した。
岩と草と木がある。
それだけなら、ただの小島だった。
けれど、足元から伝わる感覚が違う。
土の下に何かがある。地面そのものが、自然の地面ではない。そんな気がした。
「あれ?」
足が止まった。
岩の表面に線が見えた。
最初はひび割れだと思った。古い石にはよくある細い裂け目。
けれど違う。線は途中で折れ、また別の線と合流している。
偶然にできた傷ではない。規則がある。
誰かが刻んだように並んでいた。
アルノは思わず近付いた。
膝をつき、指でなぞる。
古い石の冷たさが指先に伝わった。溝の中には苔が入り込み、細かな土も詰まっている。
それでも、線そのものは消えていない。
水と風に晒され、植物に覆われながら、長い時間を越えて残っている。
頭の奥が少しだけ熱くなった。
「アルノ?」
リネの声が聞こえる。
「これ」
アルノは岩を指差した。
レグルスが覗き込む。銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳が細められた。
「人工的ですね」
「やっぱり」
少しだけ嬉しくなる。
勘違いじゃなかった。
アルノは別の岩を見る。
さらに別の岩にも、同じような溝が刻まれていた。
途切れているようで、どこか繋がっている。
そう感じたのは、アルノだけだった。
レグルスには、露出した石の加工跡と、規則的に刻まれた溝が見えているのだろう。
けれど、その溝がどこへ向かい、何と繋がっているのかまでは分からない。
アルノの指先が、無意識に空中を動いた。
点と点を結ぶ。
岩の溝と、地面の下へ隠れた見えない流れを、頭の中で繋いでいく。
「これは、外装の一部でしょうか」
レグルスが低く呟く。
その声には考え込む響きがあった。
答えを出しているのではなく、仮説を組み立てている声だった。
「自然島ではない、と?」
エルディオンが尋ねる。
レグルスは石の表面を指先でなぞった。
「少なくとも、完全な自然物ではありません。表層に土と植物が乗っていますが、下にあるのは整形された構造物です」
リネが足元を見下ろす。
「じゃあ、島に見えてるだけ?」
「その可能性が高いです」
アルノはその会話を聞きながらも、目は溝を追っていた。
一本一本の溝は古い。
角は苔に覆われ、ところどころ土に埋もれている。
けれど、配置にはまだ意思が残っている気がした。
何かを流すための道。何かを集めるための形。
第一星環の魔法陣とは違うのに、似た気配がある。
ただの遺跡じゃない。
そんな気がした。
「アルノ、どこ行くの?」
リネが呼ぶ。
気付けば歩き出していた。
「ちょっと待って」
返事をしながら、さらに先へ進む。
溝はまだ続いているように思えた。
途中で見えなくなる。けれど消えたわけではない。
土に埋もれているだけだ。
アルノはしゃがみ込んだ。
ローブの裾が湿った草に触れるのも構わず、草を掻き分ける。
土を払う。
「あ」
声が漏れた。
そこにも同じような溝があった。
後ろから足音が近付く。レグルスだった。
「何かありましたか」
「これです」
アルノは地面を指差した。
レグルスもしゃがみ込む。
外套の裾が地面につくのも気にしていない。
灰紫の瞳が、露出した石の溝と、周囲の岩の配置を慎重に見比べた。
「少なくとも、同じ規格で刻まれていますね」
「ですよね」
アルノは頷いた。
けれど、胸の奥では別の確信があった。
これは同じ規格どころではない。
繋がっている。
そう見えているのは、おそらく自分だけだった。
アルノはさらに溝を追った。
木々の奥。
島の中央付近。
そこで地面が少しだけ沈んでいた。
不自然なくぼみだった。
草が密集している。
長い年月の間に土が溜まり、根が絡み、入口だったものを隠してしまったように見えた。
アルノはしゃがみ込む。
草の隙間から、何かが見えた。
石。
いや、ただの石ではない。
指先で触れる。
平らだった。
自然の岩ではない。誰かが削ったように整っている。
しかも、その端には、さっきから追ってきた溝と同じものが続いていた。
「リネ」
「ん?」
「ここ、手伝って」
「いいよ」
リネは即答した。
草を掴む。
次の瞬間、根ごと引き抜いた。
土が大きく崩れ落ちる。
湿った匂いがぶわりと広がり、絡まっていた根が石の表面から剥がれていく。豪快だった。
アルノは少しだけ固まった。
「……すごい」
「力仕事には慣れてるから」
リネは平然と次の草を引き抜いた。
赤茶色のポニーテールが勢いよく揺れ、琥珀色の瞳は作業に集中している。
可愛い顔立ちをしているのに、動きには迷いがなく、力の入れ方も慣れていた。
商隊で荷下ろしも護衛もこなしてきた日々が、こういうところに自然と出る。
アルノとレグルスも土を払った。
エルディオンは少し離れた位置から周囲を見ている。
手伝わないわけではない。ただ、何かが起きてもすぐ動けるように、静かに場を見ていた。
やがて、土の下から石畳が現れた。
白い石だった。
ただ、第一星環で見た白とは少し違う。
こちらの石は水の気配を含んだように冷たく、表面には苔の跡や細かな染みが残っている。
それでも崩れてはいない。
水と土に守られ、長い眠りの中で形を保っていた。
さらにその先。
地中へ続く階段が見えた。
静かな沈黙が落ちる。
階段の縁には、島中で見つけたものと同じ溝が刻まれている。
その溝がすべてここへ集まっているように見えたのは、アルノだけだった。
「入口ですね」
レグルスの声は落ち着いていた。
けれど、少しだけ速い。
興奮しているらしい。
彼は手帳を閉じると、階段の前へ一歩進んだ。
「先に確認します」
「レグルス?」
アルノが顔を上げる。
「神代遺跡です。研究者として、最初に状態を見ます」
淡々とした声だった。
けれど、灰紫の瞳には抑えきれない熱があった。
その背中を追うように、アルノたちも階段へ足を向けた。
階段は思ったより長かった。
地上の光が少しずつ遠ざかっていく。
最初は背中に感じていた朝の気配が、一段下りるごとに薄れていった。
代わりに、湿った空気が頬へ触れる。
やがて足元が平らになった。
アルノは顔を上げる。
思わず足が止まった。
「え……?」
白い石で造られた長い地下回廊が、奥へまっすぐ続いていた。
壁には長い年月を刻んだ傷跡が幾筋も走っている。
それでも崩れることなく、静かに回廊を支え続けていた。
等間隔に埋め込まれた光石が、地下とは思えないほど柔らかな光を降り注いでいる。
地下とは思えないほど静かで、美しい空間だった。
壁にも床にも、侵食されたような痕跡は見当たらない。
明るすぎない。
けれど暗くもない。
湖底の光が石へ溶け込んだような、柔らかな明るさだった。
静かだった。
けれど、死んでいる静けさではない。
何かが今も、この施設の奥で眠り続けているような静けさだった。
アルノも壁へ目を向けた。
傷はある。
水が流れた跡も残っている。
それでも、長い年月を眠っていた場所とは思えないほど美しかった。
「第一星環と似ています。でも……雰囲気が全然違います」
アルノが呟く。
エルディオンは周囲を見回した。長い銀髪が肩を滑り、碧眼が白い壁の線を追う。
「そうだね。第一はもっと荒れてた」
その言葉で、アルノは第一星環の光景を思い出した。
「そうだね。第一はもっと荒れてた」
その言葉で、第一星環の光景が脳裏によみがえる。
黒い侵食に覆われた床。
重く沈んだ空気。
目の前の回廊には、そのどちらもなかった。
あの時は、それが神代遺跡の当たり前の姿なのだと思っていた。
長い時を経れば、傷付き、侵食され、それでもなお形を保ち続ける。
そういう場所なのだと。
けれど、目の前の施設は違う。
まるで誰かが今も管理しているみたいだった。
リネが静かに周囲を見ている。
普段ならすぐ歩き出す彼女も、今は足を止めていた。
琥珀色の瞳が壁の光を映し、小柄な体がほんの少し緊張している。
「綺麗だけど、変な感じがするね」
「うん」
アルノは頷いた。
綺麗。
確かに綺麗だった。
でも、それだけではない。
ここは美術品ではない。
白い石で造られ、神代文字で覆われ、光石に照らされているから神聖に見えるだけで、本質は別のものだ。
通路の下を、何かが流れている。
壁の奥を、何かが巡っている。
アルノには、そう感じられた。
その時、壁の奥で何かが光った。
淡い青白い光だった。
細い線が、壁の中を流れていく。
一本。
また一本。
やがて複雑な模様を描き始める。
アルノは息を呑んだ。
どこかで見た。
いや、見たことはない。
それでも分かる。
ただの模様じゃない。
意味がある。
意味は分からない。
それでも、奥へ進めと導かれているような気がした。
そんなふうに言われている気がした。
「アルノ?」
リネの声が聞こえる。
けれど、目が離せなかった。
光は施設の奥へ続いている。
まるで道しるべみたいに。
アルノは一歩踏み出す。
「また勝手に行く」
リネが呆れた声を出す。
「ごめん」
「止まる気ないでしょ」
「……ないかも」
「正直」
レグルスは壁の光を見つめていた。
「これは……稼働していますね」
その声には、珍しく震えがあった。
低い音が響く。
地鳴りにも似た音だった。
けれど、崩れる音ではない。
もっと深く、もっと規則的な音だった。
施設全体がわずかに震える。
全員が足を止めた。
誰かが動かしたわけではない。
最初から動いていたのだ。
気付いていなかっただけで。
壁の光は静かに脈打っている。
一本の光が奥へ走り、それを追うように別の線が枝分かれする。
床の溝へ淡い青白い輝きが入り、天井の光石がゆっくりと明るさを増した。
古い白石の回廊に、眠っていた流れが戻っていく。
長い時間を抱えたまま。
水と土の痕跡を残したまま。
それでも、確かに生きている。
アルノは胸の奥で、何かが繋がる音を聞いた気がした。
第二星環は。
今も動き続けていた。
後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半になります




