116「引力」挿絵有
それぞれ二体の嵌合体を倒したシラーフェたちは合流し、神殿の奥を目指すため、歩みを再開させる。
神殿内にいる嵌合体は今のところ、あの二体だけだ。リリィの婚約者、シャーロフ王子が素体に使われた嵌合体と遭遇することがないのは救いとも言えた。
否が応でも考えずにはいられない可能性が杞憂で終わることをシラーフェは願っている。
姉の心中が心配で落ち着かない気分のシラーフェに対して、リリィは変わらずの穏やかな表情で先導している。
「潮の香りがするね。海が近いのかな」
「神殿は海のすぐ傍に作られてるものねえ。そろそろ最奥になるのかしら」
ヤナと揃って、観光気分とすら思える呑気な会話を繰り広げているリリィ。シラーフェの心配は杞憂だとでも言うように普段通りの姿を見せている。
奥に進むにつれて海の気配は強くなり、潮の香りだけではなく、潮騒も聞こえてくる。
神殿と海の間に隔たりとなるものはないようで、海水が神殿の中まで入ってきていた。
「満潮になったら凄そうだね」
「聞き覚えのない単語だな。どういうものなんだ?」
「一日の中でもっとも海面が高くなるときを示す言葉だよ」
「海の高さは一定ではないのか?」
「そうだね。数時間単位で変わるという話だよ。もっとも海面が高くなるのを満潮、もっとも低くなるのを干潮と言って、どちらも一日に二回訪れるんだってね」
ヤナは魔法以外の知識も豊富で、話していて退屈しない。好奇心を上手いこと擽られ、状況を忘れてついに話に夢中になってしまいそうになる。
緊張感の欠ける会話を繰り広げる二人を眺め、リリィはそっと頬を緩める。
幼い子供を思わせる瞳で、ヤナの話を聞くシラーフェを懐かしんでいるような表情だ。そんな姉の視線には気付かず、シラーフェはヤナとの話を続ける。
「時間によって水位が変わるとは……不思議なものだな」
「こればかりは専門じゃないから、僕にも詳しいことまでは分からないね。確か、引力がどうのっていう話だったかな。うちの学園にそういう研究をしている人がいたはずだが……」
「引力か……」
「そう、引力。二つの物体が互いに引き合う力だね。その影響で海水が浮き沈みしているといったところかな」
詳しくないと言いながらも、ヤナは淀みなく言葉を並べる。
話をしていると楽しくて、ヤナの話に聞き入っていることに気付いて我に返る。
敵がまだ周囲に潜んでいるかもしれないのに、気が緩んでしまっていた。この場での自分の役目を思い出し、緩んだ自分を恥じながら気を引き締め直す。
そこで初めてリリィがこちらに視線を向けていることに気付いた。
「姉上、何か……?」
「シフィはやっぱり可愛いわねえ。うふふ、抱きしめたくなっちゃったわあ」
「……今はまだ敵が潜んでいるかもしれませんので」
「わかってるわよお。だから後でたくさん抱きしめさせてね」
姉に抱き締められるのは恥ずかしいなんてとても言えない。どこか甘える雰囲気のあるリリィの瞳にシラーフェは頷くことしかできなかった。
せっかく引き締め直した意識がまた緩んでしまっていた。
どんな状況でも普段の調子を崩さないヤナとリリィの二人に翻弄されながら、シラーフェは神殿の中を進む。
奥に進むほど、足元を濡らす水の水位が上がっていく。と言っても、靴裏を濡らしていたものが足首まで上がったくらいのものだ。
靴が濡れる不快感があるものの、歩きづらいというほどのものでもない。
「皆様、お止まりください」
先導するメリベルがそう投げかける。
また嵌合体か、と向けた視線が歪な人影を捉えた。遠目には人の形を保っているように見える。
しかし、よくよく見れば、手と足が出鱈目につけられる。体はゆらゆらと不安定に連れ、不気味さを感じさせる。
「私が対処いたします。マーモア様、お二人のことをよろしくお願いします」
シラーフェの疼きを確認してすぐにメリベルは影の中に身を沈める。
影を伝って移動するメリベルは瞬く間に嵌合体との距離を詰める。嵌合体のすぐ傍まで迫り、腰に佩いた剣を抜く。
半瞬遅れて伸ばされた嵌合体の腕を一息で斬り捨てる。胸の辺りから生えた腕は根元から斬り落とされた。
そのままちょうど腕が生えていた辺りに、メリベルはもう一方の手に握るナイフを突き立てる。
痛みに声をあげる嵌合体が振り回す残りの腕を巧みに避けながら、メリベルは剣を振るう。
無駄のない冴えた一撃が嵌合体の首を斬り飛ばした。
一連の流れは息を呑むほど美しく、洗練されたものだった。嵌合体を排除するのに五分もかかっていない。
メリベルの剣撃は強いというより美しいと感じさせるものだ。
絶対的に無駄がなく、最適解を叩き出すような剣撃だ。シラーフェたちは嵌合体に動く気配がないことを確認し、メリベルと合流する。
嵌合体が事切れていることを確認中のメリベルは浮かない表情を見せている。その理由は近付いてすぐに分かった。
「驚いた。この嵌合体は魔物を使っていないんだね。全部エルフ族のものかな」
言葉にしにくいことを直球で口にしたのはヤナだ。彼女の言葉通り、素体として使われているのはすべてエルフの体であった。
雑に繋ぎ合わせた複数の手足は先程遭遇した二体の嵌合体の素体として使われていたエルフ族のものだろう。
言葉を選ばず言えば、余り物を雑に繋ぎ合わせたような印象を受ける。他者の死体を弄ぶ様に強い不快感を覚える。
「この嵌合体は魔物ですらないね。ただ死体を繋ぎ合わせただけのようだ。本当に子供の遊びだね」
ヤナは興味津々にしたいへ歩み寄る。嵌合体の死体を検分する姿は初めて会ったときのことを思い出させる。
「どうやら本体として使われているのは老齢のエルフのようだね。エルフ族で老化の兆候が明らかってことはかなりのご長寿さんだね」
「ストラトフ王が仰っていた老齢の神官かしらね」
最初に調査に赴いたシャーロフ率いる隊を潰したのちに神殿に侵入し、ユッグイグル神の根に細工をした。
その過程で生まれた死体で嵌合体を作り、神殿に残したと言ったところか。
「辛うじて動くことはできていたようだが、魔物の嵌合体ほど元気よくとはいかないみたいだね。反応はかなり鈍いものになっていただろう」
瞳を爛々と輝かせ、ヤナは死体の検分を進めている。死体の検分を進めている。
死体の検分と言うより、かけられている術式を分析していると言った方が正しいか。
「ヤナ、申し訳ないが、検分はそこまでにしてくれ。先へ進みたい」
「う……それはそうだね。惜しいけど、途轍もなく惜しいけれど! 仕方ないっ、仕方ないね」
全身で惜しみながらも、ヤナは立ち上がる。まだ名残惜しそうに嵌合体へ視線を遣りつつも、ヤナは歩みを再開させる。ヤナの分析は敵を知るのにも役に立つ。
神殿を訪れた目的を果たした後で、好きなだけ検分する時間を与えられたらいいが。
「まずはより重要度の高いもの……より興味を擽るものを、だね」
すでに興味の先を切り替えたヤナは先に待つ者への期待を光として瞳に宿す。
ヤナが期待を注ぐものとの対面にはそれほど時間はかからなかった。嵌合体や他の敵に邪魔されることもなく、シラーフェたちは神殿の最奥に辿り着いた。
敵――嵌合体を作った人物が待ち受けている可能性を考えていた身としてはやや拍子抜けの気分だ。
危険な目に遭わなかったと考えれば良いことだが、釈然としないものがある。
エルフレイムを取り巻く事件の全容が見えないことが落ち着かない気分にさせる。
「あれが件の根っこかな。こうして見るとなかなか迫力があるよね」
神殿の壁や床、至る所に走っていた根が一箇所に集約され、太い根となっている。あれがストラトフが言っていたユッグイグル神のもっとも太い根なのだろう。
緑青宮にあるユッグイグル神の樹幹を前にしたときと似た迫力を感じる。と同時に妙な不協和音をシラーフェの角が感じ取った。
神の影響で清められたマナが満たす空間の中に不快な何かが存在している。
目の前に対峙したことで、はっきりと感じ取れるようになったそれに胸の奥底が疼く。何かを感じ取ったのはシラーフェだけではないらしい。
痛いほどの拍動を伝える〈復讐の種〉はシラーフェよりも詳細に何かを感じ取っているらしい。
どうせならその詳細を教えてほしいものだが、ルヴァンシュの方は沈黙を貫いている。
役に立たない先祖のことは置いておいて、シラーフェは改めて神殿の奥へ目を向ける。
「細工されているというのは本当のようねえ。歪なものが混ざっているのを感じるわ」
「ふむ、魔族特有の感覚というヤツかな。ボクには特に何も感じられないね。近くで詳しく見れば、術式の有無を確認することはできるだろうが、今はリリィ嬢の役目が優先かねぇ」
「そおねえ。ヤナちゃんの調査はその後にお願いするわ。頼りにしてるわね」
リリィもまたユッグイグル神の根が含む不協和音に気付いているらしい。
それを取り除くことがリリィに与えられた役目だ。リリィは一人、神殿の奥へと進む。
ここから先は樹の乙女の仕事だとシラーフェたちは離れた位置からそれを見つめる。
根に仕掛けられたものを取り除く具体的な方法をシラーフェたちは聞かされていない。しかし、リリィは最初からそれを知っているような足取りで、ゆっくりとユッグイグル神の根に歩み寄る。
一歩、一歩、リリィが足を踏み出すたびにスカートが柔らかく揺れる。エルフレイムに伝わる特殊な生地で仕立てられたスカートは周囲のマナを含んで仄かに光を帯びる。
それが神秘的にリリィを飾り立て、魔国一の美貌を一際輝かせる。
神殿特有の荘厳の空気にも呑まれ、シラーフェはリリィの姿に魅入られる。そうして見られることを日常としているリリィは一つ一つの所作が洗練されている。
ただ歩いているだけなのに一つの芸術とすら思わされる。ただ美しい容姿というだけでは踏み込めない領域だ。
「ユッグイグル様、お久しぶりです」
ユッグイグル神の根の目の前に立ったリリィは嫣然と微笑んだ。
そっとその手を伸ばし、繊細な手つきで根に触れた。瞬間、周囲に漂うマナがわずかに震えた気がして、シラーフェは我に返る。
リリィのみを映し出していた瞳が周囲にも向けられる。
角を撫でるマナの震えは一瞬のことで、我に返ったときにはもう余波すら感じられない。
シラーフェは何かに呼ばれた気分だ。消え去った震えを探すように視線を巡らせる。
震えの中に何か重要な気配があった気がして、忙しなく赤目が動く。
「まだ私の声は届きませんか?」
シラーフェが微かな気配に意識を向けている間にもリリィはユッグイグル神に語りかけている。
柔らかなその声は未だ神には届かないようで、形の整った眉が困って寄せられる。それでもその唇は変わらず弧を描いている。
長い睫毛に縁取られた赤目はじっとユッグイグル神の根を見つめている。単に根を見ているのではなく、その先にあるもの、目では見えないものを視ていた。
求めるものを見つけたのか、リリィは浮かべていた笑みの質を変える。根から手を離し、掌を合わせる。そのまま指を交互に絡めて祈りの形を作る。
「穢れしマナに清めの旋律を。樹の乙女が願い奉る」
美麗な声が広い空間に響き渡る。呼応して淡く光るマナに委ねるようにリリィはそっと目を瞑る。
光はさらに膨れ上がり、緑の光が場を満たした。
白の基調とした建物は瞬く間に優しい色の光に包まれる。
光の中心に立つリリィはその薄い唇を開く。紡がれるのは場を満たす光にも劣らない優しい音色だ。
鈴の音を思わせる声が歌を奏でる。歌詞のない旋律だけの歌は光と同様に白い空間に広がっていく。
「ふむ、素晴らしい音色だね。これは歌声の中に術式も込めてあるのかな」
鼓膜を喜ばせる歌声をただ堪能するではなく、ヤナはそこに込められた意味を分析しているらしい。
歌詞のないはずの歌から、歌の意味を読み解く。響く旋律に込められたマナをヤナは読み取っているのだ。
五感が優れているのだけでも、感知能力が優れているだけでも足りない高度な芸当だ。
「歌を媒介にして魔術を行使するものはあるが、こちらの方が余程効率がいいね。やはりマナとの親和性の高さが為せる技というヤツかな」
リリィの歌は神殿を満たし、根を通して世界樹の森にも満ちている。
込められているのは調和であり、浄化だ。侵入者によって施された細工を直接干渉する術としてリリィは歌という手段を選んだのだろう。
細君いついて詳細が分からない中で、それを取り除くために歌はもっとも効率の良い手段だった。
紡いだ歌の反響から詳細を読み解き、適切な魔法を編んでまた歌に乗せる。それがリリィが今行っていることだった。
ユッグイグル神を眠らせている侵入者の細工が少しずつ解かれていくのをシラーフェは本能的に感じ取った。
同時に何か嫌な予感が胸の奥からふつふつと湧いてくる。
これはシラーフェ自身の感情というより、内に潜む存在が語り掛けるものだった。
やがてリリィの歌は終わり、浄化は完了したユッグイグル神の根から何かが転げ落ちた。
「……っ…あれは」
根から零れ落ちたそれは白い床を転がり、やがて止まる。
リリィは驚いた顔をして、メリベルは警戒心に満ちた目を向け、ヤナは興味深そうに目を輝かせる。そしてシラーフェは見覚えのある存在に目に収め、無意識に胸を押さえた。
心臓とは違う拍動が痛いほど訴えかける。警鐘を鳴らしている。
根から零れ落ちたのは赤い石。嫌な思い出しかないそれはルーケサの関与を語っていた。
今更その事実に驚きはない。ただ赤い石が揺り起こすものがシラーフェの魂をも大きく揺らす。
常に抑えつけている存在の主張に息を零すシラーフェの視界が不意に白く染まった。




