第1話 処刑台の狂王
「首を出せ。死にたい奴から順番にな」
処刑台の上で、王は笑っていた。
黒曜石の王冠。
血を吸ったような真紅の外套。
そして肩に担いだ、身の丈ほどもある禍々しい黒鎌。
ロア・ヴェル・レヴェン。
レヴェン王国を統べる若き王。
臣下を振り回し、敵を嘲り、民にすら一片の容赦も見せないと恐れられる男。
その刃の前に、エルム村の反乱者たちが並べられていた。
縛り上げられた痩せた手首。
震えの止まらない膝。
飢えだけが刻む、ひび割れた瞳。
広場を埋め尽くす民衆が息を殺して王の一挙手一投足を注視するなか、処刑台の脇に控える重鎮たちの姿は、あまりにも場違いだった。
宰相ラウルは、いつものように胃のあたりをさすりながら苦悶の表情を浮かべている。
僧侶ニコは、不謹慎極まりないことに献金箱を抱え、獲物を探すように目を細めていた。
魔女ヴィヴィは手鏡を覗き込み、自身の美貌が最も映える角度の探求に余念がない。
戦士バンは骨付き肉を豪快に平らげ、剣士ジンは酒瓶を片手に、今にも舟を漕ぎ出しそうに瞼を落としている。
一国の首脳陣とは到底思えぬ不協和音。
その中心で、ロアは無造作に黒鎌を振り下ろした。
悲鳴が弾けた。
子どもが反射的に目を塞ぎ、ラウルが祈るように息を呑む。
だが、断たれたのは首ではなかった。
乾いた音を立てて処刑台に転がったのは、ばらばらに切り裂かれた麻縄だった。
反乱者たちは、自由になった手首を呆然と見つめる。
血は流れていない。
首も落ちていない。
ただ、王の冷たい声だけが、処刑台の上から降ってきた。
「立て」
誰も動かなかった。
信じられないものを見るように、反乱者たちは王を仰ぐ。
ロアの口角が、さらに深く吊り上がった。
「聞こえなかったか。死にたいなら、そのまま地べたを這っていろ。生きたいなら立てと言っている」
その声に弾かれるように、先頭の少女が震える足で立ち上がった。
エルム村の水車小屋の娘、ミラ。
頬はこけ、衣服は煤と泥にまみれている。
それでも、見上げた瞳の奥には、消えかけの熾火のような熱が残っていた。
「名は」
「……ミラ」
「まだ怒れるか、ミラ」
少女は、血が滲むほど強く唇を噛んだ。
「怒っています」
「誰にだ」
「徴税官に。飢えに。水路を壊した冬に」
そこで、彼女の声が震えた。
「それから……何もできなかった、自分自身に」
ロアは満足げに鼻を鳴らし、黒鎌を肩へ戻した。
「いい目だ。嫌いじゃない」
処刑台の脇で、宰相ラウルが胃のあたりを押さえ、今にも倒れそうな顔をしていた。
「陛下……お願いですから、処刑台で人を誘うのはおやめください」
「いい目をしてるだろ、ラウル」
「場所が悪すぎます。民衆が混乱しているのが見えませんか」
「死の淵で立ち上がる奴は、一番使い勝手がいいんだよ」
「処刑台で人材登用ですか……。まだ、ただの子供ではありませんか」
「生きる意志に、年齢は関係ねえ」
その横で、僧侶ニコが献金箱を胸に抱え、にこやかに民衆を見回していた。
「恐怖と安堵が入り混じった日は、財布の紐がゆるむものです。皆さま、魂の救済はこちらへ」
「ニコ。その箱を下げなさい」
「金は裏切りませんよ、ラウル様。祈りだけでは腹は膨れませんが、金があればパンが買えます」
「あなたは聖職者ですか、それとも守銭奴ですか」
「その日、最も必要とされる方の仮面を被るだけですよ」
魔女ヴィヴィが、ぱちん、と手鏡を閉じた。
「早くしてくれない? この日差し、私より目立とうとしていて不快だわ」
戦士バンは骨付き肉を噛みちぎり、快活に笑った。
「怒ってる女はいい。魂の輝きが美しい」
「あなた、強い女なら誰にでもそう言うでしょう」
「違いねえ!」
剣士ジンが、酒瓶を片手に片目を開ける。
「……終わったか?」
「始まったばかりです」
ラウルが答えると、ジンは心底うんざりしたように酒瓶を掲げた。
「なら飲む。見てるだけで悪酔いする王だ。こっちも酒で薄めなきゃやってられん」
緊迫で張り詰めていた広場に、毒気に当てられたような乾いた笑いが伝播した。
だが、処刑台の木肌に染みついた黒ずんだ血痕は消えない。
ここは本来、冗談で済まされる場所ではないのだ。
ロアは再び、ミラへ鋭い視線を向けた。
「おまえたちは穀物庫を襲った。そうだな」
「……はい」
「徴税官の館に火を放ち、兵を傷つけた」
「はい」
「明確な罪だ」
ミラの細い肩が跳ねた。
「……はい」
「なら、その重さを背負え」
ミラは顔を上げた。
「え?」
「殺して終わりにしてやるほど、俺様は親切じゃねえ」
ロアが処刑台の下に置かれた荷車を顎で示す。
控えていた兵士たちが、一斉に覆い布を剥いだ。
現れたのは、鎌。
鍬。
種小麦。
短槍。
魔導の刻印が穿たれた井戸掘り用の重機具。
用水路の石組みを固定するための鉄杭。
ラウルの顔が、一瞬で土気色に変わった。
「陛下。まさか、それは王都備蓄の農具と軍の予備槍では」
「そうだ。文句あるか」
「なぜ刑場にそんなものが!」
「必要だからだ。いちいち説明させんな」
「処刑台で村の復興事業を始めないでください!」
「今日殺すより、来年働かせる方が得だろうが」
「理屈は正しいのに、手段が全部おかしい……!」
ロアは荷車から短槍を一本つかむと、ミラの足元へ無造作に投げた。
槍が処刑台の板を打ち、重い音を響かせる。
「食うために奪ったなら、生きて返せ」
ミラは足元の槍を見つめたまま、動けなかった。
「用水路を直せ。畑を耕せ。来年の小麦で、奪った分を利息付きで返せ」
「私たちを……許してくださるのですか」
「勘違いするな。許さねえ」
ロアの声は軽かった。
だが、その場にいる者たちの心臓をわしづかみにする、奇妙な重さがあった。
「許しが欲しけりゃ教会へ行け。俺様の前では、ただ立て」
ミラは震える両手で、ゆっくりと槍を握った。
泥だらけの指先に力がこもる。
死にかけた体の中で、生きようとする意志だけが、かすかに燃え上がっていた。
「……立てば、よろしいのですか」
「違う」
ロアは、この日一番の凶悪な笑みを浮かべた。
「立ったあと、歩け。歩いたあと、働け。働いたあと、守れ。そこまでやって、ようやく人間として生きてると言える」
民衆のざわめきが、熱を帯びて変わっていく。
処刑という見世物を期待していた者。
奇跡の恩赦を願っていた者。
そのどちらとも違うものを、彼らは今、見ていた。
この王は、反乱者に死を与えない。
かといって、優しく救いもしない。
明日という名の地獄を、彼ら自身の手に押し戻している。
だが、それは死よりも重く、死よりも確かな希望だった。
「陛下!」
処刑台の下から、甲高い声が響いた。
肥え太った男が、脂汗を散らしながら駆け寄ってくる。
徴税官ガロ・ベルツ。エルム一帯の統治を任されていた男だ。
上質な絹の上着は汗で肌に貼り付き、指輪をはめた太い指が小刻みに震えていた。
「これでは示しがつきません! 反逆の徒を罰せねば、王の威信が失われますぞ!」
「おまえの威信なら、さっきからその腹の上で揺れている」
ロアがガロを見下ろした瞬間、広場から音が消えた。
「エルムの小麦はどこへ消えた、ガロ」
「そ、それは……記録にございます通り、飢饉による自然減で」
「用水路の修繕金は」
「工事に遅れが生じておりまして、近々」
「村の井戸が干上がった年に、おまえの別邸が増えたのはなぜだ」
ガロの口が止まった。
ロアが片手を差し出す。
ニコが阿吽の呼吸で献金箱の底板を外した。
中から、何重にも折り畳まれた書類の束が滑り落ちる。
ラウルが頭痛をこらえるように眉間を押さえた。
「……なぜ決定的な証拠が献金箱から出てくるのですか」
「献金箱ほど、人間の本音と欲望が集まる聖域はありませんから」
ニコは慈愛に満ちた笑みで書類を広げた。
「備蓄小麦の闇売買記録。修繕金の横流し。私兵への裏金。おや、愛人への熱烈な恋文が二通。陛下、朗読しますか?」
「しなくていい!」
ガロの絶叫が、何よりの自白になった。
ロアは黒鎌を引きずりながら、ゆっくりと処刑台の階段を下りる。
刃が石畳を削る。
ぎり。
ぎり。
その音は、死神の足音のように広場へ刻まれていった。
民衆が、潮が割れるように左右へ退く。
バンが肉を置いた。
ヴィヴィが鏡を伏せた。
ジンが酒瓶から手を離した。
ラウルだけが、これから起こる惨劇を予見して静かに目を閉じた。
ロアは、後ずさるガロの前に立つ。
「ガロ・ベルツ」
「へ、陛下……私は、国のために」
「おまえは民の小麦を売り、水を奪い、飢えた村を煽って反乱を起こさせた。鎮圧の名目で、奴らの土地まで奪うつもりだったな」
「私は」
「国、だと?」
ロアは、喉の奥で低く笑った。
「おまえ、自分の強欲な胃袋に、ずいぶん立派な名前をつけたな」
ガロの顔が、絶望と恐怖に歪む。
「ミラたちは穀物庫を破った。罪はある。だから、生きて返させる」
ロアは黒鎌を軽々と振り上げた。
「おまえは奪い、民を飢えさせた。返すものがねえなら」
刃が陽光を受けて、冷たく光る。
「命で返せ」
黒鎌が風を裂いた。
一閃。
悲鳴が広場に満ちたのは、ガロの首を失った体が石畳に崩れ落ちた後だった。
私兵たちは剣を抜くことすら忘れていた。
民衆は声も出せず、立ち尽くしている。
ミラは、手の中の槍を強く握ったまま、その光景を瞳に焼きつけていた。
ロアは刃についた血を払わない。
そのまま、処刑台の上にいるミラを見上げた。
「覚えとけ。俺様の国で、飢えたことは罪にしねえ」
ミラは瞬きも忘れて、王を見つめる。
「だが、人を飢えさせて太った奴は、俺様が刈る」
圧倒的な静寂が広場を支配した。
それは、単なる恐怖ではなかった。
逆らえない力を前にした震え。
けれど、目を逸らせない熱でもあった。
ロアは再び処刑台へ戻ると、民衆へ声を張った。
「エルムの者ども。期日は一月半だ」
俯いていた農民たちが、恐る恐る顔を上げる。
「用水路を直せ。畑を耕せ。門を作れ。自分の村を、自分で守れるようにしろ」
「一月半で、ですか……?」
「無理なら死ぬだけだ。それだけだろ」
ラウルが胃を押さえ、深い溜息をついた。
「陛下。もう少し言い方というものが」
「事実だろ」
「事実は刃物です。投げ方を選んでください」
「安心しろ。俺様は鎌の投げ方なら世界一だ」
「安心できる要素がひとつもありません」
ロアはミラに向かって、顎をしゃくった。
「ミラ。おまえが先頭に立て」
「私が……ですか」
「おまえは水車小屋の娘だ。水の流れがどこで淀んでいるか、あの肉塊より知っているはずだ」
ミラの瞳が不安に揺れた。
「女の私が……村を動かすなんて」
横からバンが豪快に笑い飛ばした。
「いいじゃねえか! 強い女が仕切る村は、飯もうまくなる!」
「黙りなさい、バン。今は真面目な話です」
ラウルが即座に釘を刺す。
ロアはミラの目から視線を外さなかった。
「女か男かは知らん。俺様は今、ここに立っている奴に任せると言った。寝てる奴に任せたら、村ごと腐るぞ」
ミラは、槍の柄が折れそうなほど強く握りしめた。
痩せた指の関節が白く染まる。
「……やります」
「声が小せえ」
「やります!」
「まだ足りねえな」
「やります!」
裂帛の叫びが、広場を囲む石壁に跳ね返った。
ロアは満足げに笑う。
「いい。生きてる声だ」
そのとき。
ロアの肩にある黒鎌が、わずかに震えた。
刃の根元に、青白い光が走る。
魔法陣の輝きではない。
もっと冷たく、もっと精密で、どこか人の世のものではない光。
まるで、刃の奥底で眠っていた何かが、長い夢から目を開けたようだった。
ロアだけが、その変化に気づいた。
「……起きたか、シオン」
黒鎌は答えない。
だが、遥か遠くの空を、白昼の流星のような光が一筋走った。
次の瞬間、広場の外から乱れた蹄の音が響く。
現れたのは、泥と血にまみれた伝令だった。
鎧は砕け、馬は泡を吹き、限界を迎えている。
伝令は兵士たちをかき分け、処刑台の前で崩れ落ちるように跪いた。
「陛下……急報です!」
ラウルの表情が、一瞬で宰相のものに変わる。
「どこからだ」
「帝都……アステル帝国、帝都より!」
広場の空気が凍った。
アステル帝国。
大陸の半分を版図に収める巨大軍事国家。
レヴェンのような小国にとって、帝国とは逆らうことすら許されない天災に等しい。
伝令は血を吐くような声で続けた。
「皇帝、暗殺……!」
民衆の誰かが短い悲鳴を上げた。
「帝国元帥レオ・ヴィクト・クロムが反旗を翻しました! 帝国軍の主力は元帥派へ合流。正統派は白銀のセナを筆頭に帝都防衛を固めています。周辺諸国も、この機に乗じて一斉に国境へ兵を動かしております!」
ラウルの杖が、からん、と石畳に落ちた。
「帝国が……あの巨人が、割れたというのか」
ニコが献金箱を抱きしめる。
「これは金の流れも大きく変わりそうですね」
「黙っていなさい」
ヴィヴィが、紅い唇を妖艶に歪めた。
「大陸が燃えるのね。ようやく、私にふさわしい舞台になってきたじゃない」
バンが拳を鳴らす。
「戦か。血が騒ぐぜ」
ジンは無言で酒瓶の蓋を閉じた。
「……面倒な夜になるな」
ラウルが血相を変えてロアへ向き直る。
「陛下! 直ちに国境の防備を。難民や敗残兵が流れ込めば、我が国はひとたまりもありません」
「防備だと?」
ロアは笑った。
ガロの首を刎ねたときよりも、ずっと底知れず、ずっと楽しそうに。
「ラウル。帝国の門番どもは今、自分の尻に火がついて後ろを向いている」
「陛下?」
「今夜、グリム門を奪う」
ラウルの顔から、完全に血の気が失せた。
「グリム門はアステル帝国の絶対防衛圏です! 断崖と沼地に囲まれた難攻不落の要塞を落とすなど、正気の沙汰では」
「だから、今しかねえんだろうが」
ロアの声が、低く鋭く地を這った。
「ここで守れば、ここが戦場になる。門を取れば、戦場は向こうへ移る。それだけの単純な話だ」
ラウルが反論を飲み込む。
「グリム門は街道の喉だ。あそこを塞げば、敗残兵も略奪者も、レヴェンの土は一歩も踏めねえ。帝国が割れた最初の夜。その一瞬だけ、門は無防備に開く」
ロアは黒鎌を担ぎ直し、迷いなく一歩を踏み出す。
「戦はな、始まった瞬間が一番柔らかいんだよ」
ラウルは深く、深く溜息を吐いた。
「あなたは本当に、最悪のタイミングで、最も正しいことしか言わない」
「褒め言葉として受け取っておく」
「嫌味です!」
そのとき、処刑台の下からミラが叫んだ。
「王様!」
ロアが足を止める。
「エルムを……私たちの村を、戦場にしないでください!」
必死の訴えだった。
ロアは、少しだけ目を細める。
「なら、戦場にされる前に村を立てろ。守ってもらうだけの村でいるな。自分たちで守れる村になれ」
それはやはり、王として苛烈な要求だった。
だが、ミラはもう迷わなかった。
力強く頷く。
その瞬間、黒鎌シオンが再び震えた。
今度は、明確な「声」が、ロアの脳髄に突き刺さる。
『異常値、観測』
ロアの笑みが、わずかに深くなる。
『運命線の乖離を確認』
青白い光が、刃の上を走る。
広場の喧騒が遠のいた。
誰も、その声を聞いていない。
ラウルも、ニコも、ヴィヴィも、バンも、ジンも。
ミラでさえ、ただ黒鎌を見つめているだけだった。
ロアだけが聞いていた。薄笑いを浮かべたまま、天を仰いぐ。
神の声か。
魔の企みか。
それとも、この退屈な世界を盤面の裏から支配する、傲慢な何かの囁きか。
「見てろよ」
彼は黒鎌の矛先を、天に向けて突きつけた。
「俺様は、誰にも飼い慣らされねえぞ」
処刑台の上には、槍を握りしめた反乱者たちがいた。
広場には、まだ震えながらも、希望と恐怖の入り混じった目で王を見つめる民衆がいた。
胃を壊しながら付き従う宰相。
金を数える僧。
鏡を見る魔女。
肉を食らう戦士。
酒に沈む剣士。
ロア・ヴェル・レヴェンは、帝国の崩壊を告げる弔鐘を、この世で最高に愉快な音楽として聴いていた。
彼は善王ではない。
けれど、あの日、黒鎌が断ち切ったのは民の首ではなかった。
彼らを地べたに縛りつけていた、運命の縄だった。
神はその日、ただ一人の王を飼い損ねたのだった。
そして、黒鎌の刃の奥で。
死んだはずの皇帝の声が、ロアの名を呼んだ。




