#57 「捕食者は微笑む、己と共に」
落下している時の感覚は、何物にも代えがたい感覚だというが、それが長く続くと、恐怖心しか残らないのだと気づいた。
フカの「エゴ」に嵌められ、床が抜けてから大体十秒以上は経っただろうか。
いつまで落ち続けるんだろうと思っていたら、いきなり大量の水が耳や口から流れ込んできた。
その直後に、自分が水の中へと着地したことに気づく。水深はそこまで深くなかったが、底に身体を激突させずには済んだらしい。
酸素を求めて、顔を水から出すと、そこはどうやら大きな円柱状の水槽の中に居ることに気づいた。
「ぷはぁ……、水量が腰まででしか無いのに、底に身体ぶつけないなんて……特別な液体なのかな」
落ちた時間と、高さで水深は計算出来るのだが、流石にあれだけの時間落下していて、腰までの深さしかない水深では、間違いなく全身を底に打ち付けて死んでいた筈だ。
「ヘルヘイム」で常識での計算が無意味なことは理解しているが、それでも少し考えてしまう。
水の中に居続けては、低体温症になってそのままお陀仏になるので、脱出しようと周囲を見渡すも、出口が見当たらない。
円柱状に聳え立つ水槽は、入れられた者を逃さない構造になっている。
どうやって脱出しようかを考えていると、暗かった水槽が一気にライトアップされ、近くの舞台のような場所で、こちらを見ている何者かが、高らかに笑い声を上げる。
「御機嫌よう。こんな夜更けに、わたくしの水族館にどんな御用ですの?」
普段のフカからは想像もつかないような邪悪な笑みを浮かべて、こちらにそう尋ねた。
服装は普段のフカとさほど変わらないが、尻尾がより大きくなっていたり、鮫の頭の様なものがついている杖を持っている。
彼女の態度を見るに、明らかに、こちらを敵だと見なしていることが良く分かる。
のるんは警戒心を最大まで引き上げて、フカの「エゴ」を睨みつける。
「本当の猫鮫先生は何処?」
「あら?酷い言われよう。まるで、わたくしは猫鮫フカじゃないみたいじゃないですの。うふふ、わたくしだってれっきとした「猫鮫フカ」ですのよ?」
彼女の瞳は、月と同じように紅く妖艶に光り輝いている。
顔は笑っているが、声も瞳も笑っていない。底冷えさせるような邪悪さを、隠そうともしない。
「貴方は……猫鮫先生から生まれた「エゴ」でしょう!?」
「あらあら、「エゴ」だって、元は彼女から出でし者ですのよ。わたくしは彼女ですし、彼女はわたくしですから」
聞き捨てならない言葉を聞いたのるんは、眉を顰め、不快そうな顔を顕にする。
「な、何言ってるの!あんたなんかが、猫鮫先生な訳無いでしょ!?」
「ふふ、そう思うのは自由ですけれども。わたくしがアレから産み出されたことは、変えようのない事実ですわ」
のるんはフカの「エゴ」に聞こえるように舌打ちをする。
フカの「エゴ」は顎で上を示していたので、その方向を見ると、そこには小さな水槽があった。
よくよく見てみれば、フカが十字架に磔にされている。しかも、その水槽に水が少しずつ流れ込んでいる。
気絶しているのか、身動き一つ取らないフカは膝辺りまで水が溜まっている。
このまま水嵩が増え続けてしまえば、確実に溺死してしまうだろう。
(時間制限付き……しかも、フカの「エゴ」が邪魔すると考えたら……)
単独での救出は非常に困難だと言える。そもそも、自分が出る手段すら、今は見えていない。
ひとまずは「エゴ」の様子を見つつ、フカと自分のいる水槽の水嵩にも意識を割かねばならない。
こうしている今も、水嵩が少しずつ上昇している。ただ、水の吐き出し口が無い事が気になる。
(この水は何処から……?それに猫鮫先生の所も同じ様に増えてる……)
物理的に不可能なら、考えられる答えは一つなのだが、そうなると時間制限が尚の事厳しい。
本来は会話する時間すら惜しいが、離れた場所で勝ち誇った顔をされていると、手も足も出せない。
「本来は……、アイツを始末してわたくしが「本物」に成り代わるつもりでしたけれど。邪魔者も来てしまったことですし。先に貴方から死んで貰いましょうか。わたくし自ら引導を渡してやりますわ」
フカの「エゴ」は優雅さを重視した形で、のるんの居る水槽へと飛び込む。
どうやら、フカの「エゴ」はのるんを此処から逃がすつもりはないらしい。
「さてさて。この舞台は、わたくしが最も強く、そして輝ける場所。貴方は無様に食い殺されると良いわっ!」
「なっ……」
のるんが身構えていると、「エゴ」は水中に潜ってのるんの視界から消え去る。
音も、気配も消し去った「エゴ」が動き出したのに気づいたのるんは、急いでその場から動こうとしたが、太もも辺りまで増えた水が、思うように身体を動かさせてくれない。
「エゴ」の気配は察知出来てはいたが、回避することすら叶わずに、左太腿辺りに、激痛が走った。
「あははっ。そぉんな……もたもたしていたら、全身食い尽くされてしまいますわよ?」
「ちぃ……。ぐ、かなり強く齧ったな……!?」
のるんの血が周囲の水に伝播し、赤い筋の様に広がり、紅く濁ったが、すぐに元の色に戻った。
未だに出血は止まっていない筈なのに、紅く染まった場所がすぐに、元の水色に戻っている。
血液が水に溶けたようには見えない。まるで、水自体が血を「異物」として拒絶しているようだ。
気がつけば、傷口から流れ出た血の痕跡さえ、残されていない。
(まさか、ボクの血ごと喰らったってこと……!?)
現に、少し離れた場所でぷかぷかと上半身だけ浮かせているフカの口元は血に塗れていた。
彼女が、のるんの左太腿に齧りついたのは明白だ。痛みもちゃんと感じているし、残っている。
水中で、陸上以上のスピードで動ける「エゴ」と、水中では、動きが非常に鈍いのるん。
想像以上に分が悪い。しかも、フカの方を見れば、あちらも股のあたりまで水が及んでいる。
(良く見たら、水の増え方が此処と同期してるのか……。ボクの所も股辺りまで来てる)
つまり、どちらの水嵩が減れば、もう片方も減る可能性がある。
だが、今は眼の前の敵を何とかしなければならない。迫りくる「エゴ」に対して、のるんは、急いで詠唱術を発動させ、「エゴ」と自分の間にある水を凍らせて分厚い氷の壁を張った。
「へぇ。貴方も氷結属性を扱えるんですのね?でも、この程度の氷なら尻尾で破壊できますわっ」
「エゴ」はせせら笑いながら、水中で勢い良く尻尾を振り回し、一メートルの厚さがあった氷をいとも容易く破壊した。
その衝撃で、のるんはガラスの端付近まで寄ることが出来た。自分が容易に動けないのであれば、相手に動かして貰えればいいと考えたのだ。
どれだけ分厚いガラスだろうと、崩壊属性の詠唱術なら、綻びくらいは出来る可能性がある。
(精神力温存してて良かったぁ……この戦いで出し切る勢いで使わなきゃ)
のるんは、「エゴ」が再度こちらに向かってくるまでに、ガラス目掛けて崩壊属性の詠唱術を最大出力でお見舞いする。
「喰らえ……「崩壊の輪舞曲」!!」
白と黒が入り混じった何もかもを崩壊させる球体を、ガラス目掛けて放った。ガラスの一点だけを狙い、火力重視且つ、副作用などお構い無しで発動したが、傷一つついている様子はない。
のるんの失望した表情を確認した「エゴ」は、悪役令嬢のように高笑いし、のるんを嘲る。
「うふふっ、このガラスはね。詠唱術耐性を最大限まで付与したダイヤモンドガラスですの。生半可な火炎や氷結、電撃も崩壊だって、通しませんの。つまり、貴方に逃げ場なんてありませんの。お分かりになりまして?だから、諦めて、わたくしの贄になりなさいな」
歯をガチガチと鳴らしながら、「エゴ」は水中を我が物顔で泳いでいる。
本当に打つ手はないのだろうか。ガラスを破壊できなければ、のるんは此処で死ぬしか無い。
懸命に考えを巡らせながら、のるんは眼の前の「エゴ」をただ睨みつけるだけだった。




