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悪役物語《ヴィランズストーリー》〜灰かぶりの少年〜  作者: Mao.
第1章 灰色の日常

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第7話 日常の温度

 朝の配給に、見慣れない顔が混ざっていた。


 若い女。痩せていて、腕に幼い子供を抱えている。列の後ろの方で周囲をきょろきょろと見回していた。ここに来るのは初めてなのだろう。服の裾が泥で汚れている。靴の片方の踵が半分剥がれかけていた。


「はい、どうぞ」


 エコがスープの椀を差し出すと、女は驚いたように目を見開いた。


「……いいの? お金、ないんだけど」


「いらないよ。ここはそういう場所だから」


 女は椀を両手で受け取り、子供に少しずつ飲ませ始めた。子供がスープを口に含んだ瞬間、小さな手が椀の縁を掴んで離さなくなった。


「うう……」


「もっと欲しいの? ね、もう少し待とうね」


 子供の頬が湯気で赤くなっていた。


「おかわりもあるから、ゆっくり飲んでね」


 女が何か言おうとした。唇が震えていた。でも声にはならなくて、代わりに深く頭を下げた。下げた頭の上で汚れた髪が肩に流れた。


 エコは次の人にスープを渡した。


 こういう人が時々来る。灰底の中でもさらに行き場を失った人。検問の向こうに行けず、灰底の中で沈んでいく人。ヨウの教会は、そういう人たちの最後の受け皿みたいな場所だった。


「ヨウさーん、今日のスープ、具が多いね!」


「昨日の残りを全部ぶち込んだだけだ」


「それ闇鍋じゃん」


「うるせえ。文句言うなら食うな」


 子供たちが笑う。ヨウが鍋を振り回すふりをして、子供たちが逃げ回る。配給用の長机の周りに、いつも通りの賑やかさが戻っていく。


 見慣れた朝の風景だった。


 その光景を見ながら、エコは昨夜のヨウの言葉を思い出していた。


 ——お前の心臓は、お前のもんだ。


 ——俺が好きでやったことだ。


 全部を失って、それでも「失ったかどうかは俺が決める」と言い切った人。能力がなくなっても、こうして毎朝鍋の前に立って、誰かの腹を満たしている。法衣の下の、傷だらけの腕で。


 強い人だ。


 ——僕には、まだ遠い。


 配膳の手を動かしながら、エコは小さく息を吐いた。湯気がふわりと立って、すぐに消えた。




 午後。


 教会の裏の小さな空き地で、子供たちが遊んでいた。


 灰底の子供たちは、教会に来ると少しだけ顔が明るくなる。ここにいる間は誰にも追い払われないし、「宙憑き」と呼ばれることもない。


「エコにーちゃん、あれやって!」


 男の子が駆け寄ってきた。毎日のように配給に来る子だ。前歯が一本欠けている。笑うとその隙間から舌の先が見える。


「あれって?」


「あれだよ、あれ! こう、ガシャンって!」


 男の子が両手を広げて、何かが動く真似をしている。


 エコは周囲を見た。ヨウは教会の中にいる。他の大人の目もない。


「……ちょっとだけね」


 足元に転がっていた錆びた釘を一本拾い上げた。冷たい鉄の感触が、指先に伝わる。


 指先に集中すると、釘がゆっくりと立ち上がった。エコの指の動きに合わせて、釘がくるくると回り始める。


「おおー!」


 子供たちが歓声を上げた。


 釘が宙に浮いたまま、蝶のように舞う。エコの指先が微かに動くたびに、釘は形を変えていく。細長い棒から小さな星の形に。星から花の形に。釘の中の鉄がエコの呼吸に合わせて伸び、縮み、形を変えていく。錆びた表面が、午後の弱い陽射しに鈍く光る。


「すげー! 花だ!」


「わたしにもやって!」


「はいはい、順番ね」


 鉄の花を女の子の手のひらに落とす。釘一本分の、五枚の花弁が開いた小さな花。不格好で花弁の厚さもバラバラだ。でも、確かに花だった。


 女の子が目を輝かせて握りしめた。指の関節がぎゅっと白くなる。


「エコにーちゃんの力、きれいだね」


 その言葉に、エコは少しだけ目を伏せた。


 きれい。


 この力を「きれい」と言ってくれる人は、あまりいない。


 灰底の大人たちは、宙憑きの能力を見ると怯えるか、利用しようとするか、追い払おうとするか、そのどれかだ。「きれい」と言われたのは、いつぶりだろう。サクヤ姉ちゃんも昔そう言ってくれた気がする。教会の燭台に明かりを灯すのを手伝った時に。


 胸の奥がほんの少し温かくなった。


「——エコ」


 ヨウの声が教会の窓から飛んできた。


「そろそろ中入れ。日が落ちる」


「あ……うん、分かった」


 子供たちが「えー」と声を上げる。エコは笑って手を振り、教会に戻った。


 振り返ると、女の子がまだ鉄の花を握りしめてこちらに手を振っていた。小さな手の中で鈍色の花弁が、夕方の光を受けてほんのり輝いて見えた。




 夜。


 エコは眠れなかった。


 天井の罅割れを数えるのにも飽きて、体を起こした。窓の外は暗い。街灯の間隔が広い灰底の夜は、どこまでも暗い。


「ネムレナイ の」


 ソラが枕元で小さく声を出した。


「ちょっと外の空気吸ってくる」


「……キヲツケテ」


 教会の裏口から出た。夜の灰底は静かだ。昼間の喧騒が嘘のように、通りには誰もいない。遠くで野良犬が一声だけ吠えてすぐに止んだ。


 屋根に上がった。いつもの場所。瓦の冷たさが手のひらから腕へと這い上がってくる。ここからは灰底の一角が見渡せる。遠くに中層の明かりがかすかに見える。さらに遠く、上層の塔の灯りが雲に淡く映り込んでいた。


 風が吹いた。冷たい。


 ——ここを守れるのか。


 教会。ヨウ。配給に来る人たち。子供たち。鉄の花を喜んでくれた女の子。「きれいだね」と言ってくれた声。


 もしあの紋章の連中が、また来たら。


 三年前みたいに。


 あの夜の、燃える梁の音。ニコラの、途切れた声。サクヤ姉ちゃんの叫び。エコの中で何かが弾けた音。


 膝の上で指がきつく握り込まれていた。


「…………」


 ふと、視界の端に動きが見えた。


 灰底の東側。旧貨物区画の方角。七番倉庫があるあたりだ。


 人影が複数。夜の闇の中を移動している。一人や二人じゃない。五、六人。もっといるかもしれない。


 空気がわずかに震えた。前に偵察した時と同じ気配。だが——数が増えている。


 前は三人から五人だとムジカが言っていた。今は倍以上いる。


「エコ」


 いつの間にか肩に乗っていたソラが声を絞った。


「ヒガシ。フクスウ。チカラ、カンジル。イドウチュウ。……マエヨリ オオイ」


「……うん」


 嫌な予感がした。


 何かが動き始めている。灰底で、あの連中が人を増やしている。


 エコは屋根の上で膝を抱えた。冷たい風が髪を揺らしていた。瓦の冷たさがいつのまにかジーンズ越しに膝の裏まで染みている。


 残火のギンジが言っていた。あの紋章の連中はでかい組織の末端だと。各地でシギュラを襲っていると。


 今、この灰底で——何を始めようとしているのか。


 答えは出ない。


 ただ、胸の中で鋼の心臓が警鐘のように鳴り続けていた。




   つづく

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