第6話 神父の手
包丁がまな板に当たる音だけが響いていた。
ヨウが朝食の準備をしている。エコは隣で野菜を切っていた。今日もいつも通りの朝——のはずだった。
残火の拠点を訪れてから、三日が経つ。何も変わっていない。朝起きて配給を手伝い、教会の掃除をして、夜になったら眠る。同じ日の繰り返し。同じ教会の中。
何も変わっていないのに、頭の中ではギンジの声がこびりついている。
——お前は情報が欲しい、俺たちは腕が欲しい。
包丁の刃が人参に食い込んだまま止まっていた。エコの手だけが動かない。
「エコ」
「……」
「エコ」
「あ……」
二度目に呼ばれて、ようやく我に返った。ヨウが手を止めてこちらを見ていた。鋭い目が、いつもより少しだけ長くエコの上にとどまっていた。
「ぼーっとしてんな。何かあったか」
「ううん。なんでもない」
「そうか」
ヨウはそれ以上聞かなかった。視線を外して包丁を再開する。
エコは黙って自分も人参を切り続けた。さく、さく、と二つの包丁の音が、台所の朝の空気の中で別々のリズムで重なっていく。
配給の時間。
いつもの通り、エコは列の人たちにパンを配っていた。ヨウはスープを注ぐ役。冷たい灰底の朝の空気の中で、湯気だけが白く立ち上っている。
「あんた、最近顔色悪いよ」
配給を受け取りに来たおばちゃんがエコに言った。よく見る顔だ。配給の列でいつも最初の方に並んでいる。
「そう、ですか」
「無理してないかい? 育ち盛りなんだから、しっかり食べな」
「……はい。ありがとうございます」
パンを受け取って、おばちゃんが列の後ろへ歩いていく。
ジャケットの内側でソラが小さくつぶやいた。
「カオイロ ワルイ ノ?」
「……分からない」
自分の顔色なんて、自分では見えない。
でも、なんとなく分かる。鏡を見なくても、ここのところ寝つきが悪いのは確かだった。
午後。エコが教会の廊下を歩いていると、ソラが声を出した。
「イワナイ ノ」
「……何を」
「アノ バショ の コト」
残火のこと、ということだ。
「言えないよ」
ヨウには言えない。中層に行ったことも、残火のことも。検問を迂回して灰狼の縄張りを抜けたことなんて、知ったら——
「オコラレル」
「……それだけじゃないけどね」
心配をかける。それが嫌だった。
ヨウはもう能力を使えない。普通の人間だ。エコが何かに巻き込まれても、ヨウには助ける力がない。だから心配だけが増える。
それは、嫌だ。
廊下の窓から午後の弱い光が差し込んでいる。灰底の空はいつも薄曇りで、光に色がない。エコは窓の桟に指を添えて、しばらく立ち止まった。
古い木の窓枠に、ヨウの手で塗り直した跡がある。少し雑な刷毛跡。それでも塗り直してくれた手だ。
ソラはそれ以上は何も言わなかった。
夕方。
配給の残りで夕食を作る。今日はヨウが作る番だった。エコは台所の隅に座ってじゃがいもの皮を剥いている。ソラはテーブルの上で省エネモードに入っていた。紫の光がゆっくりと明滅している。
台所には油の匂いと、ヨウが切った玉ねぎの匂いが満ちていた。窓の外はもう薄暗く、台所の裸電球だけが暖色の光を落としている。
「ヨウさん」
「あ?」
「……ヨウさんって、昔から神父だったの?」
包丁の音が一瞬止まった。
ほんの一拍。それからまた動き始めた。
「なんだ急に」
「別に。なんとなく」
「なんとなく、ね」
ヨウが鼻で笑って包丁を再開した。玉ねぎを叩き切る手つきは、料理というより——何か別の作業に見える。精密で迷いがない。リズムがあるのに感情がない。野菜を切っているのに、それが野菜だと思っていない手だ。
じゃがいもの皮を剥きながら、エコはその手元を横目で見ていた。
「昔は別の仕事をしてた」
「どんな」
「医者だ」
「医者……」
「驚くだろ。こんなナリで」
ヨウが法衣の袖をまくった腕を見せた。古い傷跡がいくつも走っている。長いもの、短いもの、まっすぐなもの、ひきつれて治ったもの。
医者の腕じゃない、とエコは思った。
医者を——治していた腕だ。
「東嶺にいた。軍の医者だ。怪我した兵士を治すのが仕事だった」
「軍……」
「辞めた。色々あってな」
ヨウが鍋を火にかけた。火がぼっと音を立てて、青い炎が鍋底を舐めた。
「行く当てもなくこの街に流れ着いた時、ここの先代の神父に拾われた。何も聞かずに受け入れてくれた人だ」
「先代……」
「お前が来るより前に亡くなった」
短い間。鍋の中で玉ねぎがじゅう、と音を立てる。
「俺が跡を継いで、しばらくして——お前を拾った」
あっさり言った。
「信仰心なんてないけどな。あの人がやってたことをやめるわけにはいかなかっただけだ」
法衣の袖を戻し、ヨウは鍋に向き直る。背中越しの声だった。
エコは皮を剥く手を止めなかった。ヨウさんも、誰かに拾われた側だったのか。
でも、次に聞きたいのはそこじゃなかった。
じゃがいもの皮が薄くするりと剥ける。指先に冷たい澱粉のぬめりが残る。エコはそれを意識しながら、ゆっくりと口を開いた。
「……ヨウさんも、力……使えたの?」
今度は包丁の音が止まらなかった。
ただ、ヨウの背中が少しだけ硬くなった。気のせいかもしれない。けれど確かに、肩のラインがほんの一瞬こわばった。
「なんでそう思う」
「僕の心臓。普通の医者には作れないと思って」
沈黙。
鍋がぐつぐつと煮える音だけが台所に満ちていた。換気扇が低く回っている。窓の外で誰かが歩く足音が遠くなっていく。
「……ああ。そうだ。昔はな」
ヨウが振り返った。
いつもの鋭い目が少しだけ柔らかくなっていた。笑ったわけではない。ただ、力が抜けたような——諦めとも違う、何か。
「昔は俺も——お前と同じ側だった。今はもう、使えない。全部使い切った」
「全部……」
「お前の心臓を作った時に、な」
ヨウが鍋をかき混ぜながら、こちらを見ずに続けた。
「全力を出して、そのまま戻ってこなかった」
エコの手が止まった。
じゃがいもを握ったまま、ヨウを見つめている。
知っていた。自分の心臓が普通じゃないことは。誰かが作ったものだということもずっと前から分かっていた。
でも——全部を使い切ったという言葉の重さは、初めて知った。
ヨウはそれを、自分のために使い切ったのだ。
「……ごめん」
声が小さくなった。
「謝んな」
ヨウが鍋をかき回しながら、ぶっきらぼうに言った。
「俺が好きでやったことだ。瀕死のガキを放っておける性分じゃなかっただけだ。別に大した理由はない」
「大した理由はないって……全部失ったのに?」
「失ったかどうかは、俺が決める」
ヨウがスープの味見をして塩を足した。一つまみ。指の動きに迷いがない。
「それにな、エコ」
ヨウが鍋から目を上げずに言った。
「お前の心臓は、俺が作ったもんだが——もうお前のもんだ。俺のもんじゃない」
言葉が、台所の暖色の光の中にゆっくり置かれた。説教でも訓示でもない。誰かに何度も言い聞かせてきたような——あるいは、自分自身に何度も言い聞かせてきたような、そんな声だった。
「お前がその心臓で何をするかは、お前が決めろ。俺がとやかく言うことじゃない」
「…………」
エコは何も言えなかった。
言葉が見つからなかったのではない。喉の奥がつかえていた。
ヨウはもう振り返らなかった。スープの味見を続け、塩をもう一つまみ加える。
「——飯できたぞ。皮、まだ剥いてねえのか。遅え」
「あ、ごめん……」
慌てて手を動かす。ヨウが皿を並べる。ソラが省エネモードから復帰してテーブルの端で体を起こした。
「オハナシ、オワッタ?」
「終わった。食え、ポンコツ」
「タベル キノウは——」
「分かってる。黙って見てろ」
いつもの夕食の風景だった。
でも、スープの味が今日は少しだけ違って感じた。塩のせいなのか、玉ねぎが多めだったからなのか、それとも——別の何かのせいなのか。
エコにはよく分からなかった。
夜。
エコは自分の部屋で天井を見上げていた。
暗い天井の罅。何度も見上げた見慣れた罅。それが今夜は少しだけ違って見えた。
——お前がその心臓で何をするかは、お前が決めろ。
ヨウの言葉。
——お前は情報が欲しい、俺たちは腕が欲しい。
ギンジの言葉。
二つの声が頭の中で重なる。重なるたびに輪郭がぼやけていく。けれど消えはしない。
枕元のソラが暗い部屋の中でうっすらと光っていた。起きているのか、眠っているのか。あのロボットに「眠る」という概念があるのか、エコは知らない。
「ソラ」
「……ナニ」
起きていた。
「僕は——」
言いかけてやめた。
まだ、決められない。
ヨウは「お前が決めろ」と言った。ギンジは「うちに来い」と言った。どちらに従うかではなく、エコ自身が何を選ぶか。
それがまだ、形にならない。
「……おやすみ」
「オヤスミ」
短い返事。
暗い部屋に、自分の中の小さな金属音だけが静かに時を刻んでいた。
深夜。
台所の灯りがまだ点いていた。
ヨウが一人、椅子に腰を下ろしていた。手にぬるくなった茶のカップを持ったまま——天井を見ていた。
法衣の袖をまくった腕。古い傷跡が暖色の光に照らされている。
茶はもう湯気を立てていない。ヨウはそれを口に運びもせず、ただ両手で包んでいた。あの大きな、指の長い手で。医者の繊細さと軍人の荒っぽさが奇妙に同居した手だった。
ヨウはエコの部屋の方を見た。
扉の隙間からわずかに、金属が脈打つ音が聞こえてくる気がした。
——気のせいだ。能力は失った。あの音はもう、聞こえないはずだ。
でも、聞こえる。
ヨウは両手で顔を覆った。長い指の隙間から暖色の光が漏れて、目元の影を作っている。
長い沈黙。
誰もいない台所で、椅子だけがわずかに軋んだ。
「……あいつなら、なんて言うかな」
ただ、暗い天井を見上げて、長い間、動かなかった。
その腕の傷跡の中にひときわ古い、左腕内側の細い線が、暖色の光の中で薄く浮き上がっていた。
灰聖堂の夜はいつもより、長かった。
つづく




