表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役物語《ヴィランズストーリー》〜灰かぶりの少年〜  作者: Mao.
第1章 灰色の日常

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/14

第6話 神父の手

 包丁がまな板に当たる音だけが響いていた。


 ヨウが朝食の準備をしている。エコは隣で野菜を切っていた。今日もいつも通りの朝——のはずだった。


 残火の拠点を訪れてから、三日が経つ。何も変わっていない。朝起きて配給を手伝い、教会の掃除をして、夜になったら眠る。同じ日の繰り返し。同じ教会の中。


 何も変わっていないのに、頭の中ではギンジの声がこびりついている。


 ——お前は情報が欲しい、俺たちは腕が欲しい。


 包丁の刃が人参に食い込んだまま止まっていた。エコの手だけが動かない。


「エコ」


「……」


「エコ」


「あ……」


 二度目に呼ばれて、ようやく我に返った。ヨウが手を止めてこちらを見ていた。鋭い目が、いつもより少しだけ長くエコの上にとどまっていた。


「ぼーっとしてんな。何かあったか」


「ううん。なんでもない」


「そうか」


 ヨウはそれ以上聞かなかった。視線を外して包丁を再開する。


 エコは黙って自分も人参を切り続けた。さく、さく、と二つの包丁の音が、台所の朝の空気の中で別々のリズムで重なっていく。




 配給の時間。


 いつもの通り、エコは列の人たちにパンを配っていた。ヨウはスープを注ぐ役。冷たい灰底の朝の空気の中で、湯気だけが白く立ち上っている。


「あんた、最近顔色悪いよ」


 配給を受け取りに来たおばちゃんがエコに言った。よく見る顔だ。配給の列でいつも最初の方に並んでいる。


「そう、ですか」


「無理してないかい? 育ち盛りなんだから、しっかり食べな」


「……はい。ありがとうございます」


 パンを受け取って、おばちゃんが列の後ろへ歩いていく。


 ジャケットの内側でソラが小さくつぶやいた。


「カオイロ ワルイ ノ?」


「……分からない」


 自分の顔色なんて、自分では見えない。


 でも、なんとなく分かる。鏡を見なくても、ここのところ寝つきが悪いのは確かだった。




 午後。エコが教会の廊下を歩いていると、ソラが声を出した。


「イワナイ ノ」


「……何を」


「アノ バショ の コト」


 残火のこと、ということだ。


「言えないよ」


 ヨウには言えない。中層に行ったことも、残火のことも。検問を迂回して灰狼の縄張りを抜けたことなんて、知ったら——


「オコラレル」


「……それだけじゃないけどね」


 心配をかける。それが嫌だった。


 ヨウはもう能力を使えない。普通の人間だ。エコが何かに巻き込まれても、ヨウには助ける力がない。だから心配だけが増える。


 それは、嫌だ。


 廊下の窓から午後の弱い光が差し込んでいる。灰底の空はいつも薄曇りで、光に色がない。エコは窓の桟に指を添えて、しばらく立ち止まった。


 古い木の窓枠に、ヨウの手で塗り直した跡がある。少し雑な刷毛跡。それでも塗り直してくれた手だ。


 ソラはそれ以上は何も言わなかった。




 夕方。


 配給の残りで夕食を作る。今日はヨウが作る番だった。エコは台所の隅に座ってじゃがいもの皮を剥いている。ソラはテーブルの上で省エネモードに入っていた。紫の光がゆっくりと明滅している。


 台所には油の匂いと、ヨウが切った玉ねぎの匂いが満ちていた。窓の外はもう薄暗く、台所の裸電球だけが暖色の光を落としている。


「ヨウさん」


「あ?」


「……ヨウさんって、昔から神父だったの?」


 包丁の音が一瞬止まった。


 ほんの一拍。それからまた動き始めた。


「なんだ急に」


「別に。なんとなく」


「なんとなく、ね」


 ヨウが鼻で笑って包丁を再開した。玉ねぎを叩き切る手つきは、料理というより——何か別の作業に見える。精密で迷いがない。リズムがあるのに感情がない。野菜を切っているのに、それが野菜だと思っていない手だ。


 じゃがいもの皮を剥きながら、エコはその手元を横目で見ていた。


「昔は別の仕事をしてた」


「どんな」


「医者だ」


「医者……」


「驚くだろ。こんなナリで」


 ヨウが法衣の袖をまくった腕を見せた。古い傷跡がいくつも走っている。長いもの、短いもの、まっすぐなもの、ひきつれて治ったもの。


 医者の腕じゃない、とエコは思った。


 医者を——治していた腕だ。


「東嶺にいた。軍の医者だ。怪我した兵士を治すのが仕事だった」


「軍……」


「辞めた。色々あってな」


 ヨウが鍋を火にかけた。火がぼっと音を立てて、青い炎が鍋底を舐めた。


「行く当てもなくこの街に流れ着いた時、ここの先代の神父に拾われた。何も聞かずに受け入れてくれた人だ」


「先代……」


「お前が来るより前に亡くなった」


 短い間。鍋の中で玉ねぎがじゅう、と音を立てる。


「俺が跡を継いで、しばらくして——お前を拾った」


 あっさり言った。


「信仰心なんてないけどな。あの人がやってたことをやめるわけにはいかなかっただけだ」


 法衣の袖を戻し、ヨウは鍋に向き直る。背中越しの声だった。


 エコは皮を剥く手を止めなかった。ヨウさんも、誰かに拾われた側だったのか。


 でも、次に聞きたいのはそこじゃなかった。


 じゃがいもの皮が薄くするりと剥ける。指先に冷たい澱粉のぬめりが残る。エコはそれを意識しながら、ゆっくりと口を開いた。


「……ヨウさんも、力……使えたの?」


 今度は包丁の音が止まらなかった。


 ただ、ヨウの背中が少しだけ硬くなった。気のせいかもしれない。けれど確かに、肩のラインがほんの一瞬こわばった。


「なんでそう思う」


「僕の心臓。普通の医者には作れないと思って」


 沈黙。


 鍋がぐつぐつと煮える音だけが台所に満ちていた。換気扇が低く回っている。窓の外で誰かが歩く足音が遠くなっていく。


「……ああ。そうだ。昔はな」


 ヨウが振り返った。


 いつもの鋭い目が少しだけ柔らかくなっていた。笑ったわけではない。ただ、力が抜けたような——諦めとも違う、何か。


「昔は俺も——お前と同じ側だった。今はもう、使えない。全部使い切った」


「全部……」


「お前の心臓を作った時に、な」


 ヨウが鍋をかき混ぜながら、こちらを見ずに続けた。


「全力を出して、そのまま戻ってこなかった」


 エコの手が止まった。


 じゃがいもを握ったまま、ヨウを見つめている。


 知っていた。自分の心臓が普通じゃないことは。誰かが作ったものだということもずっと前から分かっていた。


 でも——全部を使い切ったという言葉の重さは、初めて知った。


 ヨウはそれを、自分のために使い切ったのだ。


「……ごめん」


 声が小さくなった。


「謝んな」


 ヨウが鍋をかき回しながら、ぶっきらぼうに言った。


「俺が好きでやったことだ。瀕死のガキを放っておける性分じゃなかっただけだ。別に大した理由はない」


「大した理由はないって……全部失ったのに?」


「失ったかどうかは、俺が決める」


 ヨウがスープの味見をして塩を足した。一つまみ。指の動きに迷いがない。


「それにな、エコ」


 ヨウが鍋から目を上げずに言った。


「お前の心臓は、俺が作ったもんだが——もうお前のもんだ。俺のもんじゃない」


 言葉が、台所の暖色の光の中にゆっくり置かれた。説教でも訓示でもない。誰かに何度も言い聞かせてきたような——あるいは、自分自身に何度も言い聞かせてきたような、そんな声だった。


「お前がその心臓で何をするかは、お前が決めろ。俺がとやかく言うことじゃない」


「…………」


 エコは何も言えなかった。


 言葉が見つからなかったのではない。喉の奥がつかえていた。


 ヨウはもう振り返らなかった。スープの味見を続け、塩をもう一つまみ加える。


「——飯できたぞ。皮、まだ剥いてねえのか。遅え」


「あ、ごめん……」


 慌てて手を動かす。ヨウが皿を並べる。ソラが省エネモードから復帰してテーブルの端で体を起こした。


「オハナシ、オワッタ?」


「終わった。食え、ポンコツ」


「タベル キノウは——」


「分かってる。黙って見てろ」


 いつもの夕食の風景だった。


 でも、スープの味が今日は少しだけ違って感じた。塩のせいなのか、玉ねぎが多めだったからなのか、それとも——別の何かのせいなのか。


 エコにはよく分からなかった。




 夜。


 エコは自分の部屋で天井を見上げていた。


 暗い天井の罅。何度も見上げた見慣れた罅。それが今夜は少しだけ違って見えた。


 ——お前がその心臓で何をするかは、お前が決めろ。


 ヨウの言葉。


 ——お前は情報が欲しい、俺たちは腕が欲しい。


 ギンジの言葉。


 二つの声が頭の中で重なる。重なるたびに輪郭がぼやけていく。けれど消えはしない。


 枕元のソラが暗い部屋の中でうっすらと光っていた。起きているのか、眠っているのか。あのロボットに「眠る」という概念があるのか、エコは知らない。


「ソラ」


「……ナニ」


 起きていた。


「僕は——」


 言いかけてやめた。


 まだ、決められない。


 ヨウは「お前が決めろ」と言った。ギンジは「うちに来い」と言った。どちらに従うかではなく、エコ自身が何を選ぶか。


 それがまだ、形にならない。


「……おやすみ」


「オヤスミ」


 短い返事。


 暗い部屋に、自分の中の小さな金属音だけが静かに時を刻んでいた。




 深夜。


 台所の灯りがまだ点いていた。


 ヨウが一人、椅子に腰を下ろしていた。手にぬるくなった茶のカップを持ったまま——天井を見ていた。


 法衣の袖をまくった腕。古い傷跡が暖色の光に照らされている。


 茶はもう湯気を立てていない。ヨウはそれを口に運びもせず、ただ両手で包んでいた。あの大きな、指の長い手で。医者の繊細さと軍人の荒っぽさが奇妙に同居した手だった。


 ヨウはエコの部屋の方を見た。


 扉の隙間からわずかに、金属が脈打つ音が聞こえてくる気がした。


 ——気のせいだ。能力は失った。あの音はもう、聞こえないはずだ。


 でも、聞こえる。


 ヨウは両手で顔を覆った。長い指の隙間から暖色の光が漏れて、目元の影を作っている。


 長い沈黙。


 誰もいない台所で、椅子だけがわずかに軋んだ。


「……あいつなら、なんて言うかな」


 ただ、暗い天井を見上げて、長い間、動かなかった。


 その腕の傷跡の中にひときわ古い、左腕内側の細い線が、暖色の光の中で薄く浮き上がっていた。


 灰聖堂の夜はいつもより、長かった。




   つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ