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悪役物語《ヴィランズストーリー》〜灰かぶりの少年〜  作者: Mao.
第1章 灰色の日常

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第5話 情報

 中層は別の世界だった。


 灰底と中層の間には検問がある。鉄柵と宙晶を埋め込んだ検査ゲート、そこに立つ三人の警備員。灰底の住民の大半はまともなIDなんて持っていない。行きたくても行けない。たまにIDを偽造して通り抜けようとした者がいたが、戻ってこなかった。どこに連れていかれたのかは、誰も知らない。


 だからエコは検問を通らなかった。


 夜の灰底を歩き回って見つけた道がある。検問の脇の廃ビルの裏から続く配管ダクト。崩れかけた境界壁の隙間。下水道の枝管。そのほとんどは灰狼——この街の裏を仕切っている連中の縄張りだ。見つかれば追い剥ぎで済めばいい方。腎臓を抜かれて闇市で売られた者もいると噂で聞いた。


 だがソラの感知があれば、見張りの位置を避けて抜けられる。


 冷たい配管に頬を擦りつけ、足音を殺し、息さえ抑える。曲がり角の手前でソラが小さく振動する。「ヒダリ、フタリ」。エコは一拍待って見張りが歩き去る気配を確かめてから、また動いた。


 一時間以上かけてようやく中層に出た。


 空気が違った。


 道が広い。壁が真っ直ぐだ。店の看板にはちゃんとした文字が書いてあり、すれ違う人の服には色が付いている。茶色や灰色だけじゃない。赤いコート。青いスカーフ。黄色の傘。色というものがここではまだ生きていた。


 パン屋の前を通り過ぎる。窓越しに、まだ温かそうな丸パンが並んでいる。バターと焼けた小麦の匂いが鼻をかすめて、エコは一瞬、足を止めかけた。教会の昼食はいつも硬い黒パンと薄いスープだ。ここではパンに色があり湯気があり匂いがある。


 エコは落ち着かなかった。


 フードを深く被り、肩のソラをジャケットの内側に隠している。中層では旧式ロボットを肩に乗せた少年は目立つ。灰底では誰も気にしないのに、ここでは視線が刺さる。靴の音が自分のものだけ妙に大きく響く気がした。


「エコ」


 ジャケットの中からソラの声がくぐもって聞こえた。


「ミギ ノ ツギ、ヒダリ。キュウコウギョウ チク」


「……分かった」


 ギンジが言っていた通り、旧工業地区に入ると雰囲気が変わった。中層の中でも古い区画なのだろう。倉庫や工場跡が並び、人通りが減る。上層のビルが落とす影がちょうどこのあたりを暗く塗っていた。色のある街がここで一度途切れている。


 錆びた看板。剥がれかけたペンキで〈修理工場〉と読める。シャッターは半分閉まり、そこから先は黒い口のように沈黙していた。


 どう見ても廃業している。


 エコはシャッターの前で立ち止まった。入り口がどこか分からない。ノックする場所もない。


「……どうすればいいんだろう」


「ドウゾ ト イワレテモ、コマル」


 二人で途方に暮れていると、シャッターの横の壁——何もないように見えたコンクリートの一部がすっと内側に引いた。


 ぞわりとした。


 継ぎ目はあったはずなのに見えなかった。鉄の縁が露わになって、その奥に薄暗い明かりが灯っている。隠し扉。それもかなり手の込んだ造りの。


「お、来たじゃん」


 ギンジが顔を出した。緋褐色のウルフカットが暗がりの中でも目立っている。


「迷わなかった?」


「迷った」


「素直だな。こっちこっち」


 ギンジに促されて、壁の裏に滑り込む。狭い通路。下りの階段。空気が湿って、コンクリートと機械油と、それから——人の匂いがした。たくさんの人間が暮らす場所の匂い。生活が積もっていく独特の重さ。


 地下に出た。


 予想していたのは暗くて陰気な隠れ家だった。裸電球。湿った壁。煙草の煙にまみれた荒くれ者たち。映画で見るような、いかにも犯罪者の根城。


 違った。


 広い空間が開けていた。元は工場の地下倉庫だったのだろう。天井が高く、剥き出しの配管が走り、灯りはやや黄色がかった暖色だった。壁際にはデスクが並び、書類と端末が雑然と置かれている。中央に大きなテーブル。奥にはキッチンらしきスペースがあり、誰かが鍋をかき回している匂いがする。


 味噌だ。


 懐かしい匂いだった。教会でサクヤ姉ちゃんがたまに作ってくれた。


 人がいた。十人くらいが思い思いに過ごしている。デスクで書類を読んでいる男。壁に寄りかかって話し込んでいる二人組。キッチンで味見をして首をかしげている女。


 殺伐とした空気を想像していた。だが——生活感があった。ヤカンが湯気を上げている。どこかからラジオの音が流れている。今日の昼の天気予報。曇り、ところにより小雨。地上のことを話している声が、地下の倉庫の空気に染み込んでいる。


 エコはフードの下で息を一つ呑んだ。


「ギンジ、連れてきたのね」


 デスクの一つから女の声がした。長い髪をひとつにまとめた女性が、書類から目を上げてこちらを見ている。切れ長の目元が鋭く、それだけで居住まいを正させるような気配があった。


「例の灰かぶりだよ。言ったろ?」


「ええ、思ったより小さい子じゃない」


 エコはフードの下で眉を動かした。子供。よく言われる。


「入り口で突っ立ってたぜ。入り方が分かんなかったんだと」


「あなたの案内が雑なのよ。最初くらい、外まで出て迎えなさい」


「えっ、俺が悪いの?」


 ギンジが大げさに肩をすくめる。女性は答えず、書類に視線を戻した。それで会話は終わり、という空気だった。短いやり取りの中で上下関係だけがはっきりと示されていた。怒っているわけではない。ただ、隙がない。


 ここの人間は思っていたのと違う。殺伐とした空気もない。かといって緩んでもいない。それぞれが、それぞれの場所にきちんと収まっている感じだった。


「座れよ。お茶くらい出すから」


 ギンジに促されて中央のテーブルに着いた。木のテーブルだ。表面に細かい傷がいくつも走っている。誰かがコップを置きすぎた跡。ペンで書いた数式がうっすら残っている跡。生活が刻まれた机だった。


 ジャケットの中からソラがそっと顔を出す。周囲をぐるりと見回してすぐに引っ込んだ。


 ギンジが湯呑みを置いた。湯気が立つ。緑茶の青い匂い。


「それで」


 エコは茶を受け取りながら切り出した。


「教会の事件の情報。聞かせてほしい」


「おお、もう? 世間話とかしない?」


「しない」


「だよな。お前そういう顔してるもんな」


 ギンジが椅子の背にもたれて天井を見上げた。


「俺たちは——まあ、面倒な仕事を引き受ける集まりだ。詳しいことは今日は言わない。信用してないだろうし、お前もまだ何も決めてないだろうからな」


 エコは頷かなかった。否定もしなかった。


 ギンジは湯呑みを両手で包み、ゆっくり一口飲んだ。


「三年前、灰底で教会が半壊した事件。俺たちの記録にある。正確には、上から回ってきた事件報告書の中にあった」


「上?」


「それも今日は言えない。ただ、お前が探してる紋章な。三日月と炎」


 エコの指が湯呑みの縁で止まった。


「あの紋章を使う連中は、この街だけで動いてるわけじゃない。東嶺、北央、南央。各地で似たような事件を起こしてる。シギュラを狙った襲撃、施設への拉致。三年前の教会も、その一つだった」


「……各地で」


 声がかすれた。


「そうだ。お前が灰底で追い回してる連中は、でかい組織のほんの末端だ。七番倉庫をどうにかしたところで、尻尾の先っぽを掴んだだけにしかならない」


 七番倉庫。


 あの夜、自分がムジカからの情報で偵察した廃倉庫街の一画の名前を、ギンジは知っていた。


 湯呑みに添えていた指がわずかに浮いた。


「なんで七番倉庫を……」


「だから、俺たちはそういう仕事をしてるんだよ。あと、お前が通ってる情報屋にも聞かせてもらった」


 ムジカ。


 その名前が頭の中でこだまのように響いた。


「あの人が……僕のことを」


「最初は渋ってたぜ、あの人。なかなか口を割らなかった。でも——俺たちがどういう連中かを知ったら、話してくれた。お前が何を追ってるか。三日月と炎の紋章のこと」


 ギンジが琥珀色の目でエコを見た。軽い口調のまま、その目だけが笑っていなかった。


「お前が一人で三年かけて辿り着いた場所に、俺たちは三日で辿り着ける。情報のネットワークが違う。だから声をかけたんだ」


 テーブルの上の茶が湯気を立てている。湯気の向こうで、ギンジの顔の輪郭がわずかに揺れて見えた。


 周りの人間たちはこちらをちらちら見ながらも、それぞれの仕事に戻っている。聞き耳を立てているのか、本当に気にしていないのか。判別はつかなかった。


「他にも教えられることはある。あの紋章の連中の行動パターン。目的の傾向。ただし、全部はタダじゃない」


「宙晶なら——」


「金の話じゃない」


 ギンジが指でテーブルを軽く叩いた。傷だらけの木の表面が、こつ、と短く鳴った。


「俺たちは常に人手不足でな。危ない仕事ばっかだから、動ける奴が足りてない」


 ギンジの視線がエコの胸元あたりに向いた。あの夜、鈍色を纏って悪漢を追い払った少年の姿を思い出しているのだろう。


「あの力、独学だろ? 正直すげえと思った。うちに来て一緒に動いてくれるなら、情報は全部共有する」


「……つまり、僕に一緒に働けって言ってるの?」


「取引だよ。お前は情報が欲しい、俺たちは腕が欲しい。悪くない交換だろ?」


 エコは黙って茶の表面を見つめていた。湯気が一筋、ゆっくり立ち上って天井の方へ消えていく。


「ただ——」


 ギンジの声が少しだけ低くなった。


「さっきも言ったけど、きれいな仕事じゃない。一緒にやるなら、そういう覚悟はしてもらう。情報だけ持ち逃げってのは、ナシだ」


 沈黙。


 キッチンから鍋の蓋が鳴る音。ラジオの天気予報が、明日も曇りだと告げている。デスクの向こうで誰かが小さく笑った。誰かが「ありがと」と言った。生活の音だった。


 エコは湯呑みに口をつけた。緑茶はほんの少し苦かった。喉を温かいものが通り抜けていく。


 久しぶりに誰かに淹れてもらった茶だった。


「……考えさせて」


「ああ。好きなだけ考えろ。茶は飲んでいけよ」


 エコは湯呑みの中をじっと見た。茶の表面に自分の顔がぼんやり映っている。フードの陰になって、目元しか見えない。


 長居する場所じゃない。


 もう一口飲んで、エコは湯呑みを置いた。陶器が木の机に当たる、こつん、という音が思ったより大きく響いた。




 灰底への帰り道。


 来た時と同じ裏ルートを逆向きに辿る。配管。境界壁の隙間。下水道の枝管。一度通った道は、二度目には少し短く感じる。だが今日は足取りが重かった。


 階段を降りながらエコはずっと黙っていた。


「エコ」


 ジャケットから出てきたソラが肩の上で小さく関節をきしませた。


「ドウ スル」


「……分からない」


 分からない。ギンジの言葉は正しい。一人で追える範囲には限界がある。三年かけて、それは嫌というほど思い知った。蜘蛛の巣のように張り巡らされた組織の中で、自分が捕まえてきたのは糸の端の、もっと端の方の小さな粒だった。


 でも。


 あの場所には人がたくさんいた。笑っている人。書類を回している人。鍋をかき回している人。生きている人たち。地下の暖色の灯りの下で温かな空気を吸って、温かなものを飲み食いしている人たち。


 エコの近くにいた人はみんないなくなった。


 本当の家族も。友達も。サクヤ姉ちゃんも。


 自分の近くにいたから。自分のせいで。


 あそこに入って、また同じことが起きたら。あの暖かな灯りの下から誰かが消えるとしたら。


「アノ ヒトたチ、キョウカイ ノ コト シッテタ」


「……うん」


「エコ ガ 3ネンカン サガシテタ コト、3カ デ タドリツケルッテ」


「……うん」


 ソラが少し間を置いた。関節が、こきり、と小さく鳴った。


「ヒトリ ジャ、ムリ ナノカモ」


「……無理じゃない。ただ、時間がかかるだけだよ」


 嘘だった。


 自分でも分かっている。三年で末端しか掴めなかったのに、これから先、本体に近づくほど相手は強くなる。今のままでは届かない。届く前にこちらが先に潰される。


 でも——それでも。


 灰底の入り口が見えてきた。薄暗い階段の下に、街灯がぼんやりと灯っている。中層の街灯と違って、こちらは黄色というよりくすんだ橙色だ。電球が古い。今にも切れそうな頼りない光。


 その光の下に見覚えのある景色が広がっていた。崩れかけた壁。落書き。ゴミ。


 灰底だ。自分の街。


 一人の方がいい。


 一人なら——誰も、失わない。


 心の中でそれを何度も繰り返した。繰り返すたびに、その言葉は固くなっていく。そして固くなった分だけ、自分の中の何かが少しずつ冷たくなっていった。




 その頃、残火の拠点。


 ギンジが祭の前のソファに腰を下ろしていた。


 地下倉庫の片隅、棚で仕切られた小さなスペース。ここが祭の「相談部屋」だ。本棚にずらりと並んだ書類フォルダ。古い椅子。テーブルの上にまだ湯気を立てている湯呑み。


「どう思う?」


 ギンジが煙草の煙を吐きながら聞いた。祭は眼鏡を外してレンズを布で拭いている。亜麻色の髪を無造作に後ろでまとめた、地味な作業着の男だった。眼鏡を外した目元は、丸眼鏡を着けている時よりもずっと若く見える。


「来ますよ、彼は」


「断言するんだ」


「あれだけ追っているものを、目の前にぶら下げられたら断れません」


 祭が眼鏡をかけ直した。レンズの奥の穏やかな垂れ目が、ほんの一瞬、氷冷を宿した。


「ただ、心配なのはそこじゃない」


「?」


「あの子は——壊れる側に、近すぎる」


 ギンジの指の間で煙草の灰がぽろりと落ちた。


「……同感だ」


 煙草を灰皿に押し付けて火を消す。煙が一筋、天井の方へ流れていった。


 壊れる側、というのは祭の言い方だ。能力者の中には、内側から崩れていく者がいる。何かを抱えすぎて、何かを失いすぎて、最後にはその重さで自分自身が砕ける。そういう奴を祭は何人も見てきた。


 ギンジも何人か知っている。


 その中の一人を特によく知っている。


 部屋の小さな窓——地上に通じる明り取りの小窓から、夜の中層の灯りが見えた。さらに遠く、その向こうに灰底の方角の頼りない橙色の灯りが滲んでいる。


 ギンジは誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。


「——昔の俺と、同じ目をしてやがる」


 祭はそれを聞いていたが、何も言わなかった。


 ただ、湯呑みを取り上げて、もう冷めた茶を、一口飲んだ。




   つづく


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