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悪役物語《ヴィランズストーリー》〜灰かぶりの少年〜  作者: Mao.
第1章 灰色の日常

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第4話 接触

 数日が経った。


 灰底では、噂が、足が速い。


「聞いた? また灰かぶりが出たらしいよ」


「南通りのあたりだろ。チンピラ三人を追い払ったって」


「宙憑きだぜ。体から金属が出てくるんだと」


「怖えな……」


 配給の列に並ぶ人たちの間で、そんな話が聞こえてくる。冷えた朝の空気の中、湯気を立てるスープ皿越しに、囁き声が流れていた。


 エコは黙ってパンを配りながら、聞こえないふりをしていた。


 ヨウの方を、ちらりと見た。


 神父は何も言わずに、柄杓を動かしている。聞こえているのか、いないのか、その横顔からは分からなかった。


「灰かぶりってさ、味方なの? 敵なの?」


「さあな。どっちにしろ宙憑きには関わらねえ方がいい」


「…………」


 肩の上のソラが、何か言いたそうに身じろぎした。だが、何も言わなかった。


 エコは、ぱさついたパンを次の手に渡しながら、自分の指先を見ていた。


 昨日、男たちの目に映っていた自分は、こんなふうには見えていなかった。




 午後。


 散歩がてら、灰底の路地を歩く。今日はムジカの店に行く用事はない。特に目的のない、本当の散歩だ。


 薄暗い街灯を数えながら歩く。錆びた街灯の柱。傾いた看板。古い壁の落書き。何度も通った道なのに、毎日、少しずつ違って見える。


 七つ目の角を曲がったところで、エコは足を止めた。


 誰かが、後ろにいる。


 気づいたのは、ソラではなかった。


 空気が、わずかに震えた。皮膚の表面を、何かが撫でていくような、かすかな感覚。


 ——同じ側の人間。


 力を持つ者。


 遠くで誰かが力を使うと、エコの中の鋼が、共鳴するように、わずかに鳴る。それが、近かった。


「エコ」


 ソラが囁いた。


「ウシロ 1メイ。10メートル。エコ と オナジ……チカラ、カンジル。セントウ のイト……ナシ、と おモウ」


 戦闘の意図なし。でも、力を持つ者が、わざわざ後をつけてきている。


 エコは歩き続けた。角を一つ曲がり、もう一つ曲がった。後ろの気配は消えない。距離も変わらない。隠れる気がないのか、それとも、隠す必要がないと思っているのか。


 三つ目の角を曲がった時、エコは立ち止まった。


 ゆっくりと息を整える。指先の温度を確認する。鉄屑を呼ぶ準備だけは、しておく。


「用があるなら、言ってくれない?」


 振り返る。


 路地の向こうに、一人の男が立っていた。


 緋褐色のウルフカット。琥珀色の目が、軽く笑っているように、こちらを見ていた。


 こちらが振り返るのを、待っていたような顔だった。


「おー、気づくの早いな。いつから分かってた?」


「七つ目の角」


「マジか。俺けっこう消してたんだけど。若いのにやるね」


 男が両手を上げて見せた。武器はない。敵意もない。少なくとも、そう見せようとしている。


「俺は怪しい者じゃないよ」


「十分怪しいんだけど」


「まあ、そうだよな」


 男が笑った。あっけらかんとした笑い方だった。皺の寄り方が、嘘ではなかった。


「単刀直入に言うよ。お前、灰かぶりだろ」


 エコの表情は変わらなかった。変えなかった。


「何のこと?」


「とぼけなくていいって。灰かぶりの噂、一年くらい前からうちでも掴んでたんだ。灰底に、鉄を纏った宙憑きがいるってな。味方か敵か分からなかったから、しばらく探ってた」


 男が、ポケットに手を突っ込んだまま、にやりと笑った。


「何ヶ月か前にお前を見つけてからは、ずっと見てたよ。朝は教会で配給を手伝って、午後は散歩に出かけて、夜はフードを被って出歩く少年。正義感があって、腕もある。悪い奴じゃなさそうだ」


「…………」


 ぞわり、と。背筋に冷たいものが走った。


 知られていた。何ヶ月も。


 その間、自分は何も気づいていなかった。


「落ち着けって。別に通報しに来たわけじゃない。むしろ、逆だ」


 男が一歩近づいた。エコは半歩下がった。


 その動きを見て、男が苦笑した。


「お前に興味がある連中がいる。腕を見込んで声かけてる。悪い話じゃないと思うぜ」


 エコは男の目を見た。


 嘘をついている目ではなかった。でも、全部を言っている目でも、なかった。


「……興味ない」


「おっ、即答」


「僕は一人でやりたいことがあるから。悪いけど」


 踵を返そうとした。


「三年前の、教会の事件。調べたことがある、って言ったら?」


 足が止まった。


 指先まで、痺れが走った。


 その音が、自分の耳の中だけで響いた。男には聞こえていないはずなのに、聞こえている気がした。


「…………」


「振り返った。ってことは、気になるよな」


 男がポケットに手を突っ込んだまま、こちらを見ていた。さっきまでの軽い笑みが、少しだけ真剣になっていた。


「詳しい話は、うちに来たら聞かせるよ。場所は——」


「どうして」


 エコが遮った。声が低い。喉の奥が、鉄の味がした。


「どうしてあなたたちが、あの事件を知ってるの」


「それも含めて、来たら話す」


「……ここで話して」


「無理だな。路地裏で話すような内容じゃない」


 男が首の後ろを掻いた。


「まあ、信用できないのは分かるよ。だからこう言おう。来るか来ないかはお前が決めろ。無理強いはしない。ただ、お前が探してるものの手がかりが、うちにはある。三年間一人で探して、見つからなかったものが」


 エコの指が、上着の裾をぎゅっと握りしめていた。


 三年。三年間、一人で探して、ムジカの店に通い続けて、紋章を追い続けて。手に入れた情報は——あの倉庫の場所くらいだ。それすら、踏み込めずに帰ってきた。


 届かない。


 あの夜、自分の心の奥で囁いた、その声が、まだ消えていなかった。


「ソラ」


 小声で呼んだ。


「ナニ」


「この人……どう思う」


 ソラが、レンズを男に向けたまま、動かなくなった。二秒。三秒。


「ウソは ツイテナイ。タブン。タダシ ゼンブは いッテナイ」


 エコと同じ判断だった。


「…………」


 長い沈黙。


 路地の奥で、風が紙くずを転がしていく音だけが、聞こえていた。


「場所だけ、教えて」


 男の顔に、笑みが戻った。


「中層の旧工業地区。修理工場の看板が出てる建物の地下だ。いつ来てもいい。ああ、俺はギンジ。蘭堂ギンジ。よろしくな、灰かぶり」


「……エコ」


「エコか。いい名前じゃん」


 ギンジが手を振って、歩き去っていく。軽い足取り。振り返りもしない。


 エコはその背中を見送りながら、しばらく動けなかった。


「エコ」


 ソラが言った。


「イク の」


「……分からない。でも——」


 三年前の教会の事件を、知っている。


 その一言が、頭の中で、ずっと鳴っていた。




 夜。


 エコは自分の部屋で、ベッドの下から木箱を取り出した。古い、傷だらけの箱。蓋の角が欠けている。


 蓋を開けると、中には、三年分の手がかりが詰まっていた。


 古い紙の匂い。錆びた金属の匂い。インクの匂い。それらが混ざった、何度も嗅いだ、自分だけの匂いだった。


 灰底の地図。各地で目撃された紋章のスケッチ。端末から打ち出した記事のプリント。ムジカから買った情報の走り書き。シギュラの失踪事件のリスト。


 そして、一枚の革のバッジ。


 黒い革に、銀の刻印。三日月と、炎。


 これまで何度も、あちこちの末端から奪ってきた、その一つ。


 エコはそれを、指で撫でた。


 冷たい銀の感触が、あの夜を呼び戻す。教会の天井。サクヤ姉ちゃんの叫び。ニコラ。


 三年。


 たった三年で、エコが追いつけたのは——末端の連中だけだった。


 でも、もしも——「三日で辿り着ける」と言われたら。


 胸の中で、鋼の心臓が低く鳴った。


「ソラ」


「ナニ」


「……僕、行くと思う」


 声に出した。


 言葉が、夜の空気に乗って、ふっと消えた。


 でも、消えなかったのは、自分の中の何かだった。


 その何かが、もう後戻りできない場所に、足を踏み入れたような気がした。




   つづく


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