第4話 接触
数日が経った。
灰底では、噂が、足が速い。
「聞いた? また灰かぶりが出たらしいよ」
「南通りのあたりだろ。チンピラ三人を追い払ったって」
「宙憑きだぜ。体から金属が出てくるんだと」
「怖えな……」
配給の列に並ぶ人たちの間で、そんな話が聞こえてくる。冷えた朝の空気の中、湯気を立てるスープ皿越しに、囁き声が流れていた。
エコは黙ってパンを配りながら、聞こえないふりをしていた。
ヨウの方を、ちらりと見た。
神父は何も言わずに、柄杓を動かしている。聞こえているのか、いないのか、その横顔からは分からなかった。
「灰かぶりってさ、味方なの? 敵なの?」
「さあな。どっちにしろ宙憑きには関わらねえ方がいい」
「…………」
肩の上のソラが、何か言いたそうに身じろぎした。だが、何も言わなかった。
エコは、ぱさついたパンを次の手に渡しながら、自分の指先を見ていた。
昨日、男たちの目に映っていた自分は、こんなふうには見えていなかった。
午後。
散歩がてら、灰底の路地を歩く。今日はムジカの店に行く用事はない。特に目的のない、本当の散歩だ。
薄暗い街灯を数えながら歩く。錆びた街灯の柱。傾いた看板。古い壁の落書き。何度も通った道なのに、毎日、少しずつ違って見える。
七つ目の角を曲がったところで、エコは足を止めた。
誰かが、後ろにいる。
気づいたのは、ソラではなかった。
空気が、わずかに震えた。皮膚の表面を、何かが撫でていくような、かすかな感覚。
——同じ側の人間。
力を持つ者。
遠くで誰かが力を使うと、エコの中の鋼が、共鳴するように、わずかに鳴る。それが、近かった。
「エコ」
ソラが囁いた。
「ウシロ 1メイ。10メートル。エコ と オナジ……チカラ、カンジル。セントウ のイト……ナシ、と おモウ」
戦闘の意図なし。でも、力を持つ者が、わざわざ後をつけてきている。
エコは歩き続けた。角を一つ曲がり、もう一つ曲がった。後ろの気配は消えない。距離も変わらない。隠れる気がないのか、それとも、隠す必要がないと思っているのか。
三つ目の角を曲がった時、エコは立ち止まった。
ゆっくりと息を整える。指先の温度を確認する。鉄屑を呼ぶ準備だけは、しておく。
「用があるなら、言ってくれない?」
振り返る。
路地の向こうに、一人の男が立っていた。
緋褐色のウルフカット。琥珀色の目が、軽く笑っているように、こちらを見ていた。
こちらが振り返るのを、待っていたような顔だった。
「おー、気づくの早いな。いつから分かってた?」
「七つ目の角」
「マジか。俺けっこう消してたんだけど。若いのにやるね」
男が両手を上げて見せた。武器はない。敵意もない。少なくとも、そう見せようとしている。
「俺は怪しい者じゃないよ」
「十分怪しいんだけど」
「まあ、そうだよな」
男が笑った。あっけらかんとした笑い方だった。皺の寄り方が、嘘ではなかった。
「単刀直入に言うよ。お前、灰かぶりだろ」
エコの表情は変わらなかった。変えなかった。
「何のこと?」
「とぼけなくていいって。灰かぶりの噂、一年くらい前からうちでも掴んでたんだ。灰底に、鉄を纏った宙憑きがいるってな。味方か敵か分からなかったから、しばらく探ってた」
男が、ポケットに手を突っ込んだまま、にやりと笑った。
「何ヶ月か前にお前を見つけてからは、ずっと見てたよ。朝は教会で配給を手伝って、午後は散歩に出かけて、夜はフードを被って出歩く少年。正義感があって、腕もある。悪い奴じゃなさそうだ」
「…………」
ぞわり、と。背筋に冷たいものが走った。
知られていた。何ヶ月も。
その間、自分は何も気づいていなかった。
「落ち着けって。別に通報しに来たわけじゃない。むしろ、逆だ」
男が一歩近づいた。エコは半歩下がった。
その動きを見て、男が苦笑した。
「お前に興味がある連中がいる。腕を見込んで声かけてる。悪い話じゃないと思うぜ」
エコは男の目を見た。
嘘をついている目ではなかった。でも、全部を言っている目でも、なかった。
「……興味ない」
「おっ、即答」
「僕は一人でやりたいことがあるから。悪いけど」
踵を返そうとした。
「三年前の、教会の事件。調べたことがある、って言ったら?」
足が止まった。
指先まで、痺れが走った。
その音が、自分の耳の中だけで響いた。男には聞こえていないはずなのに、聞こえている気がした。
「…………」
「振り返った。ってことは、気になるよな」
男がポケットに手を突っ込んだまま、こちらを見ていた。さっきまでの軽い笑みが、少しだけ真剣になっていた。
「詳しい話は、うちに来たら聞かせるよ。場所は——」
「どうして」
エコが遮った。声が低い。喉の奥が、鉄の味がした。
「どうしてあなたたちが、あの事件を知ってるの」
「それも含めて、来たら話す」
「……ここで話して」
「無理だな。路地裏で話すような内容じゃない」
男が首の後ろを掻いた。
「まあ、信用できないのは分かるよ。だからこう言おう。来るか来ないかはお前が決めろ。無理強いはしない。ただ、お前が探してるものの手がかりが、うちにはある。三年間一人で探して、見つからなかったものが」
エコの指が、上着の裾をぎゅっと握りしめていた。
三年。三年間、一人で探して、ムジカの店に通い続けて、紋章を追い続けて。手に入れた情報は——あの倉庫の場所くらいだ。それすら、踏み込めずに帰ってきた。
届かない。
あの夜、自分の心の奥で囁いた、その声が、まだ消えていなかった。
「ソラ」
小声で呼んだ。
「ナニ」
「この人……どう思う」
ソラが、レンズを男に向けたまま、動かなくなった。二秒。三秒。
「ウソは ツイテナイ。タブン。タダシ ゼンブは いッテナイ」
エコと同じ判断だった。
「…………」
長い沈黙。
路地の奥で、風が紙くずを転がしていく音だけが、聞こえていた。
「場所だけ、教えて」
男の顔に、笑みが戻った。
「中層の旧工業地区。修理工場の看板が出てる建物の地下だ。いつ来てもいい。ああ、俺はギンジ。蘭堂ギンジ。よろしくな、灰かぶり」
「……エコ」
「エコか。いい名前じゃん」
ギンジが手を振って、歩き去っていく。軽い足取り。振り返りもしない。
エコはその背中を見送りながら、しばらく動けなかった。
「エコ」
ソラが言った。
「イク の」
「……分からない。でも——」
三年前の教会の事件を、知っている。
その一言が、頭の中で、ずっと鳴っていた。
夜。
エコは自分の部屋で、ベッドの下から木箱を取り出した。古い、傷だらけの箱。蓋の角が欠けている。
蓋を開けると、中には、三年分の手がかりが詰まっていた。
古い紙の匂い。錆びた金属の匂い。インクの匂い。それらが混ざった、何度も嗅いだ、自分だけの匂いだった。
灰底の地図。各地で目撃された紋章のスケッチ。端末から打ち出した記事のプリント。ムジカから買った情報の走り書き。シギュラの失踪事件のリスト。
そして、一枚の革のバッジ。
黒い革に、銀の刻印。三日月と、炎。
これまで何度も、あちこちの末端から奪ってきた、その一つ。
エコはそれを、指で撫でた。
冷たい銀の感触が、あの夜を呼び戻す。教会の天井。サクヤ姉ちゃんの叫び。ニコラ。
三年。
たった三年で、エコが追いつけたのは——末端の連中だけだった。
でも、もしも——「三日で辿り着ける」と言われたら。
胸の中で、鋼の心臓が低く鳴った。
「ソラ」
「ナニ」
「……僕、行くと思う」
声に出した。
言葉が、夜の空気に乗って、ふっと消えた。
でも、消えなかったのは、自分の中の何かだった。
その何かが、もう後戻りできない場所に、足を踏み入れたような気がした。
つづく




