第3話 灰かぶり
振り返った。
それだけのことだった。足が勝手に動いたわけでも、正義感に突き動かされたわけでもない。ただ——行けなかった。背を向けて、歩き去ることが。
ソラは、何も言わない。ただ、肩の上にいる。
三人の男が少年を囲んでいる。頭上の街灯が、ぼんやりとした光で路地に薄い影を作っていた。
「おい聞いてんのか、宙憑き。登録証見せろよ。持ってねえんだろ?」
「やめ……やめてください……」
少年の腕を掴んだ男が、もう片方の手で少年の袖を捲り上げた。腕を確認している。チップの痕跡を。
「ほら見ろ、やっぱり未登録かよ。こういう奴がいるから——」
「離してあげてよ」
声が、出た。自分でも驚くくらい、静かな声だった。
三人が振り向いた。
路地の入り口に立つフードの少年を見て、男たちの表情が、変わった。変わったが——怯えたのではない。苛立ちだ。
「なんだガキ。関係ねえだろ、引っ込んでろ」
「その子、何もしてないよ。離してあげて」
「あ?」
男の一人が、近づいてきた。エコより、頭一つ分大きい。見下ろすように睨んでくる。酒の匂いがした。
「もう一回言ってみろ」
エコは黙っていた。
代わりに、空気が震えた。
路地の暗がりから、かすかな金属音。
壁を留めていた錆びた金具が、ひとつ、剥がれた。捨てられた空き缶が地面を擦って動いた。割れた配管の破片が地面から浮き上がった。
ちりちりと、鉄屑がエコの周囲に集まってくる。
大小不揃いの鈍色の粒が、少年の足元から肩の高さまで、塵のように浮いた。男たちの靴のそばを、鉄の欠片がすり抜けるように転がっていった。
まるで、灰を被ったような姿。
そして、ゴーグルの下、口元から顎にかけて、鉄屑が編み込まれていく。継ぎ目の歪んだ、不恰好な鉄面が少年の顔の下半分を覆い隠した。
「な——」
男が、一歩、後ずさった。胸ぐらを掴もうと伸ばした手が、宙で止まっている。指先が微かに震えていた。
「宙憑き……こいつも宙憑きだ!」
残りの二人が、少年から離れ、後ずさった。掴んでいた腕が離れる。少年がよろめいて、壁にもたれた。
「ば、化け物——」
男たちが走り出した。
転びそうになりながら、路地の奥に消えていく。革靴が石畳を打つ音が、不揃いに遠ざかり、やがて、聞こえなくなった。
静かに、なった。
エコは息を吐いた。鉄面の内側で、自分の息がこもって熱い。
周囲の鉄屑が、ひとつ、またひとつと、地面に落ちていく。
最後に、口元の鉄面が、顔から離れた。目の前で、ふわりと宙に浮き、糸を切られたように、ばらばらと散った。鈍色のかけらが路地の床に転がる。
夜風が、剥き出しになった唇を撫でていく。
「…………」
助けた少年を、見た。
少年は壁にへたり込んでいた。目を見開いて、エコを見ている。
怯えていた。
——男たちと、同じ目だった。
冷たいものが、エコの中を、すっと下りていった。
「大丈夫? もう——」
「来ないでっ!」
少年が叫んだ。両手で頭を抱え、顔を背けた。
「来ないで……来ないでください……」
エコの手が、伸ばしかけたまま、止まった。
頭上で、街灯が明滅していた。路地に散らばった鉄の欠片が、その不安定な光を、鈍く反射していた。
エコは、手を下ろした。
「……ごめんね」
小さく言って、背を向けた。
ソラが、肩の上から、振り返って少年を見ていた。うずくまる少年と、歩き出すエコ。その古びた小さな体が、小さく、揺れていた。
「エコ」
「……なに」
「ワルイ こと、シテナイ」
「……そうかな」
「シテナイ」
ソラの声は、いつも通りの機械的な響きだった。でも——繰り返した。
エコは答えなかった。フードを深く被り直して、灰底の路地を歩いた。足元に散らばる金属の欠片を、踏みながら。
——灰かぶり。
いつからそう呼ばれ始めたのか、知らない。灰底で時々現れる、鈍色の鉄屑を纏った、宙憑き。ふらりと現れて、気がつけばいなくなっている。
名前も、顔も、知られていない。
ただ——灰を被った、何か。
それが、この少年のもう一つの顔だった。
教会に戻ると、ヨウはもう寝ていた。
台所の明かりだけがついている。テーブルの上に、皿が一つ。ラップをかけた、冷めたスープ。
書き置きが添えてあった。
『遅い。飯あるから食え。たまにはポンコツのメンテナンスもしてやれ。』
エコがよく知る、無骨な男には似合わない、達筆だった。
ソラをテーブルに下ろし、スープを温め直す。
古いコンロの上で、火が青く揺れる。冷めたスープがゆっくりと温かくなっていく。湯気が立ち昇り、香草の匂いが台所に広がった。
その匂いを吸い込んでから、エコはやっと、自分が緊張で固まっていたことに気づいた。
「ソラ」
「ナニ」
「……ありがとね」
「ナニガ」
「さっき。何も言わなかったこと」
ソラが、小さく、首を傾げた。
「ナニモ いワナカッタ のハ、イウ コトが ナカッタ ダケ」
「そっか」
エコはスープを口に運んだ。
温かかった。
その温かさが、喉から、体の奥へと落ちていく。
目の奥が、少しだけ、熱くなった。
その頃。
灰聖堂の通りから少し離れた、路地裏。
一人の男が、壁にもたれていた。
襟足の長い、緋褐色のウルフカット。トップは短く立ち、襟足だけが首筋にかかっている。左耳に、小さなシルバーピアスがひとつ。
くすんだ赤茶のシャツに、深いバーガンディのベスト。シャツの袖は、肘までラフにまくり上げられて、痩せた前腕が覗いていた。
琥珀色の目が、街灯の弱い光を底から照り返した。
男は煙草に火を点けて、深く吸い、ゆっくりと吐いた。
煙が、夜の冷気の中で長く尾を引いた。
「——見つけたぜ、灰かぶり」
唇の端だけで、静かに、笑った。
吐いた煙が、夜風に解けていく。男はそれを、しばらく、見ていた。
夜の灰底に、新しい風が吹き始めていた。
つづく




