第2話 夜の顔
女の子だった。
長い髪が、地面を擦り、土埃がその髪に絡んでいた。意識はないらしい。腕がだらりと垂れ下がり、靴が片方、脱げかけている。引きずられる靴底が、灰色の塵に、細い線を刻んでいた。
エコの呼吸が、止まった。
屋根の縁を握る指に、力が入った。瓦の表面で、金属片が軋む。
立ち上がろうとした。屋根を蹴って、飛び降りようとした。
「エコ」
ソラの声。小さく、鋭く。
「ニンズウ ガ チガイマス」
エコは、動きを止めた。
「ヨンメイ ノ ホカ ニ、 ミハリ ガ ニメイ。 ヨウコウ ノ アイダ ニ、 サラニ サンメイ ノ ジュウタイハン。 タイショウ シャ センメイ ノ チョウシ ガ ヘンドウ シマシタ」
体重の重心が変動した、とソラは言った。建物の中で、誰かが立ち上がった。あるいは——位置についた。
エコは屋根に伏せたまま、息を殺した。
倉庫から出てきた四人のうち、女の子を引きずっていた一人が、ぞんざいな手つきで彼女を路地に停まった黒い車の後部座席に放り込んだ。荷物が叩きつけられるような、鈍い音がした。
残りの三人が、周囲に視線を走らせる。
その視線の動きが、素人ではなかった。
目の動き、肩の角度、足の運び。一人一人が、訓練を受けた者の動きをしていた。
倉庫の角に立つ見張りの男が、軽く、右手を上げた。
指先で何かが煌めいた。光ったのではなく、空気が、わずかに歪んだ。
力の発露。微弱だが、確実にあった。
——能力者。
それも、複数。
「シンパクスウ じょうショウチュウ。エコ、レイセイ ニ」
エコは、答えなかった。
答えられなかった。
数を、数えていた。
倉庫の外に、七人。中に何人いるかは分からない。最低でも、七人の能力者を、自分一人で——。
脳裏に、男の体が壁に叩きつけられる、あの音が蘇った。
あの夜。三年前の、教会。
ニコラの体が、糸を切られた人形のように。
止めなくては、と思った瞬間に、もう一つの声が心の奥で囁いた。
届かない。
車のドアが閉まる音がした。
動き出す。
女の子を乗せて、車が静かに走り出していく。テールランプが灰底の闇の奥へと、小さくなっていく。
その光を、エコは追えなかった。
追えば、見つかる。見つかれば、殺される。
そして、女の子は、結局、救えない。
拳が、震えていた。屋根の縁に当たった金属の破片が、エコの感情に呼応して、わずかに浮き上がっては、落ちる。浮き上がっては、落ちる。
——三年前と、同じだ。
あの夜と、何も、変わっていない。
守りたいものが、目の前にあって、手が届かない。力はあるのに、足りない。一人では、届かない。
車のテールランプが、最後の角を曲がって、消えた。
路地に、闇だけが残った。
「エコ」
ソラの声が、いつもより少し、低く聞こえた。
「キョウハ、 ココマデ デス」
「…………」
「キョウハ」
ソラは、二度、同じことを言った。
エコは息を吐いた。長く、震える息だった。屋根の縁から、指を離した。浮き上がっていた金属片が、かたん、と音を立てて、落ちた。
ゴーグルを上に押し上げて、一度だけ、目を閉じた。
目を開けた時には、もう、何も見るべきものはなかった。
帰り道は、いつも、長く感じる。
屋根伝いに来た道を戻りながら、エコは、何度も後ろを振り返りそうになった。振り返って、車のあった場所に、何かが残っていないかと、いるはずがないのに、確認したくなった。
あの女の子は、どこへ運ばれていくのだろう。
売られるのか。実験材料にされるのか。それとも、もっと別の——。
考えるな、と思った。考えても、今のエコには、どうにもできない。
でも、考えずには、いられなかった。
ソラは、肩の上で、ずっと黙っていた。普段なら何かしら言うはずなのに、今夜は、何も言わない。それが、エコには、ありがたかった。
——本当に潰したいのは、こいつらじゃない。
昼間、自分の中でそう呟いたのを、覚えていた。
なのに、本当の連中が現れた時、自分は、手が出せなかった。
昼間に潰した人攫い三人。あれは、簡単だった。鈍色の鉄屑を浮かべるだけで、男たちは怯えて逃げた。
だが、本当に立ち向かわなければならない相手の前では、自分は、ただ、屋根の上で息を殺していただけだった。
足取りが、鈍く、重かった。
灰底の路地は、夜になると、さらに迷路めいて見える。同じような壁、同じような暗がり、同じような曲がり角。気を抜けば、自分がどこにいるのかも、分からなくなる。
屋根の上から、屋根の上へ、そして地に下りて、路地の闇を選ぶように歩く。エコは自分の足音だけを聞きながら、灰聖堂のある通りを目指した。
角を曲がった時——声が聞こえた。
怒声。複数。
薄い街灯の下に、三人の男が、誰かを囲んでいた。
「おい聞いてんのか、宙憑き。さっき手ェ光ってたの見たぞ」
「ち、違う……僕は……」
囲まれているのは、エコと同じくらいの年頃の、少年だった。背中を壁に押し付けて、震えている。膝が笑っていた。
「嘘つくんじゃねえよ。この辺で宙憑きが暴れてるって話、知ってるか? お前みたいなのがいるから迷惑なんだよ」
男の一人が、少年の胸ぐらを掴んだ。少年の踵が、地面から少しだけ浮く。
エコは足を止めた。
——関係ない。
今夜は、もう、何もできない。
さっきの倉庫を見た後で、目立つ真似はできない。組織に気づかれる。万が一、あの黒い車の連中と、繋がっている男たちだったら——。
「やめてくれよ……僕は何もしてない……!」
少年の声が震えていた。
エコは、唇を噛んで、踵を返そうとした。
ソラは、何も言わなかった。
いつもなら、何か言うはずだった。「カンケイ ナイ」とか、「タチサル ベキ」とか。そういうことを言うはずなのに、今夜は、黙っていた。
肩の上で、じっと、エコの横顔を見ていた。
倉庫の前で、ソラはエコを止めた。
あの判断は、正しかった。あの場で踏み込んでいたら、エコは死んでいた。女の子も救えず、自分も死んで、ヨウが、ムジカが、みんなが悲しむ。
正しかった。
なのに——。
「やめろよ!」
少年の悲鳴。
胸ぐらを掴まれた少年が、無理やり、地面に押し倒された。
その音を、エコの耳が拾った。
軽い、頼りない音だった。
——救えなかった。
あの女の子を、救えなかった。三年前のあの夜と、同じだった。守りたかったものを、守れなかった。
なら、目の前のこの子は。
今、ここで、目の前で、倒れたこの子は。
エコの足が、止まったまま、動かなかった。
ソラは、まだ、黙っていた。
「…………」
エコの胸の中で、鋼の心臓が一度だけ、強く打った。
踵を返す代わりに、振り返った。
つづく




