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悪役物語《ヴィランズストーリー》〜灰かぶりの少年〜  作者: Mao.
第1章 灰色の日常

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第1話 灰底の朝

 夜の路地に、悲鳴が走った。


 灰底の裏通り。崩れかけた壁に挟まれた狭い道で、若い女が地面に這いつくばっていた。剥き出しの腕に走る、ひきつれた火傷の跡。力の発現で焼かれた、シギュラの烙印だ。男たちが三人、女を取り囲んでいた。


 革のブーツの裏が、女の腕を踏みつけた。鈍い音と、押し殺した呻き。


「未登録だろう、てめえ。——付いてこい、薄汚れシギュラ。売り先はこっちで決めてやる」


 頬の傷が引き攣れた笑い。煙草と安酒の臭いが、夜の冷気の中で淀んでいる。


 その時——男たちの背後で、金属が、軋んだ。


 錆びた配管の悲鳴。鉄屑の擦れる音。複数の細い音が、絡み合って、近づいてくる。


「?」


 振り返った男たちの視線の先に、フードを目深に被った人影が立っていた。


 ゴーグルが、淡く光る。


 男の一人が一歩踏み出した。手に拳銃。構え方が、素人ではない。


「邪魔するなよガキ。死にたくないなら——」


 言い終わる前に。


 男の銃が、弾けた。


 握っていた銃身が、勝手に歪んでいた。鉄が呼吸を始めるように、肉のような柔らかさで膨らみ、そして捻じれた。鈍色の蛇が男の手から逃げ出すように落ちた。


「な——」


 男が叫ぶ前に、地面の鉄屑が、一斉に浮いた。


 壁から剥がれた鉄板。割れた配管の破片。錆びた鉄筋。捨てられたボルト。男たちの周囲で、灰底に散らばっていた金属の屑が磁石に吸い寄せられるように動いた。


 それらが、ひとりの少年の周りで、ゆっくりと宙を漂い始める。


 大小不揃いの鈍色の粒が、少年の足元から肩の高さまで、塵のように浮いていた。風がないのに揺らめき、互いに位置を入れ替え、少年の輪郭を灰色にぼかしていく。


 まるで、灰を被ったような姿。


 ゴーグルの下、口元から顎にかけて、鉄屑が編み込まれていた。継ぎ目の歪んだ、不恰好な鉄面。それが、少年の顔の下半分を覆い隠していた。


「退け」


 短い声だった。鉄越しに響く、低くて、温度のない声。


 男たちが息を呑んだ。


 一人が、ズボンの裾を裂きそうな勢いで身を翻し、闇の中へ逃げていった。


「灰、かぶり……」


 残った男のひとりが、掠れた声で呟いた。


 灰底で、夜にしか出ない、未登録の少年。

 体の周りに、灰色の鉄屑を纏わせ、何の音もなく現れる。

 誰の顔も知らない。誰も逆らえない。そう、噂で聞いた。


 最後まで踏み止まった男が、震える手でナイフを抜いた。逆手に握り、女の腕を強引に掴み上げる。


「て、てめえ……このアマだけは——」


 少年の指が、わずかに、動いた。


 男の悲鳴が、夜を裂いた。


 握っていたナイフの刃が、自ら折れ曲がり、男の手のひらを貫いていた。鈍色の切先が甲側から突き出している。血が、ぽたりと、地面に落ちた。


「いいから、退け」


 声色は、変わらない。


 男が女を放り出し、転がるように逃げていった。靴音が遠ざかる。やがて、何も聞こえなくなった。


 路地に、女と少年だけが残った。


 女が、震える声で、何かを言おうとした。「あ、あり……」


 少年は、答えなかった。


 ただ、男たちの逃げ去った闇の奥を、しばらく見ていた。


 ゴーグルの硝子の奥で、淡い紫色が、微かに揺れている。


 ——こういう連中は、灰底ではいくらでも湧いてくる。一匹潰しても、明日にはまた別のが来る。


 本当に潰したいのは、こいつらじゃない。


 フードの中で、奥歯を噛んでいた。指の先が、まだ熱を持っている。


 少年の周囲に浮かんでいた鉄屑が、ひとつ、またひとつと、地面に落ちていく。


 最後に、口元の鉄面が、顔から離れた。


 目の前で、ふわりと宙に浮く。継ぎ目の歪んだ鈍色のかけらが、糸を切られたようにほどけて、エコの眼前で、ばらばらと、地面に散った。


 夜風が、ようやく解放された唇を、撫でていく。


 少年は、振り返らずに歩き出した。


 女が、何か呼ぼうとした、その背中は、すでに闇の中に溶けていた。




 今朝も、灰底に陽が昇る。


 厳密には、灰色の空が、ほんの少しだけ明るくなる。それを、ここでは陽が昇ると言う。


 南通りは、朝から人で溢れていた。教会の裏手に並んだ長い列が、路地の角を曲がって見えなくなるまで続いている。老人。子供。片腕のない女。誰もが同じような色の服を着て、同じように疲れた顔をしている。


 冷たい空気に、湯気が立ち昇っていた。


「はい、次の人」


 ヨウが鍋の前に立ち、柄杓でスープをよそっている。法衣の袖をまくり上げた腕は、日に焼けて引き締まっていて、神父というより、何か別のものに見える。腕の内側に、古い線状の傷が幾筋か走っていた。


「ヨウさん、今日のは昨日よりうまいね」


「当たり前だ。昨日は芋が腐ってた」


「それ自慢にならないだろ」


 列に並んだ男が笑う。ヨウも鼻で笑う。こんなやり取りが、毎朝、繰り返されている。


 エコは列の横に立って、パンを配っていた。固くて、あまり美味しくないパン。でも、ここでは貴重だ。


「お兄ちゃん、ありがとう」


 小さな女の子が、両手でパンを受け取った。痩せた腕。目だけが大きい。受け取った手が、エコの掌よりずっと冷たかった。


「ちゃんと食べてね」


 笑顔を返す。女の子は嬉しそうに走っていった。


 肩の上のソラが、かすかに重くなった気がした。


「アノ こ、タイジュウ ふソク。スイテイ 18キロ」


「……知ってるよ」


「リョウカイ。エコ、ヒトコト デ ジョウキョウ ハアク。ユウシュウ デス」


「褒められた気がしない」


「シツレイ シマシタ。ホメテ イマセン。ホウコク デス」


「……どっちでもいいよ」


 分かっている。ここにいる人たちの大半が、ああだ。


 灰底。鉄華の最下層。


 上を見上げれば、遠くに上層のビル群が、朝の光をガラスに照り返している。同じ街なのに、ここからでは別の国みたいだ。


 灰底に光が届くのは、いつも、最後。


「ヨウさーん、もうないの?」


「ない。明日また来い」


「えー」


「えーじゃねえ。作る方の身にもなれ」


 ヨウが、空の鍋を柄杓で叩いた。子供たちが笑いながら、散っていく。




 配給が終わった頃、エコは鍋を洗っていた。


 冷たい水が指を痺れさせる。井戸から汲んだ水は、夏でも冷たい。


 ふと顔を上げて、通りの向こうを見た。


 壁に貼られたポスター。雨で滲んだ紙。


『能力が発現した方は、最寄りの届出窓口へ』


 その隣に、殴り書き。


『宙憑きは出ていけ』


「…………」


 届け出れば、チップが腕に埋め込まれて、力の使用が記録される。便利な医療や住居支援が受けられる代わりに、自由が、削られる。


 灰底の行列の中には、未登録のシギュラが、何人もいる。エコ自身も、そのひとりだった。


「エコ」


 ヨウの声。


 振り返ると、ヨウが洗い場の横に立っていた。エコの視線の先を、一瞬だけ追って、それから、何も言わなかった。


「鍋、まだ汚れてるぞ」


「あ、ごめん」


 慌てて手を動かす。ヨウは、少しの間、そこに立っていた。


「今日も散歩か」


「うん」


「気をつけろよ」


 それだけ言って、教会の中に戻っていった。


 法衣の背中が、薄暗い廊下に消える。足音は、軍人のように静かだった。一度も、振り返らなかった。


 エコは鍋の水面に映る、自分の顔を見下ろした。


 水に、薄鈍色の前髪と、淡い紫の目が揺れている。


 ——ヨウは、いつから気づいているんだろう。


 知らないふりをしているのは、エコの方なのか、ヨウの方なのか。


 胸の奥が、わずかに痛んだ。




 午後。


 エコは、灰底の通りを一人で歩いていた。ソラが、肩に乗っている。


 ヨウには「散歩」と言ってある。嘘ではない。散歩だ。ただ——少しだけ、目的がある。


 灰底の路地は、入り組んでいる。何度も壊れ、何度も継ぎ接ぎで直された建物が、通路の壁になっている。元の形が分からないほど、修繕と崩壊を繰り返した街。どこもかしこも灰色で、だから灰底と呼ばれている。


 路地の隙間から、遠くに、巨大な霧の壁が見えた。鉄華の西側郊外を覆う、三百年前のインパクトの傷跡——汚染区。霧の外縁から、大きな宙晶の塊が、暗い紫色に明滅している。あの色が、シギュラの力の源、ダークエネルギー。あの中から採れる宙晶のおかげで、鉄華は発展した。皮肉な街だ。


「エコ」


 ソラが、小声で言った。


「ヒダリ。2メイの シセン」


 左の路地に、壁に寄りかかった二人組が、こちらを見ていた。目が合うと、すっと、視線を逸らされる。


 灰底ではよくあること。みんなが、みんなを値踏みしている。


 エコは目を伏せて、足を速めた。


 五分ほど歩くと、通りの雰囲気が変わった。シャッターが半分閉まった雑貨屋や、何を売っているのかよく分からない露店が並ぶ区画。


 その中に、ひときわ古い店がある。


 看板はない。窓は黒い布で覆われている。扉だけが、妙に新しい。


 エコは周囲を確認してから、扉を叩いた。三回、間を置いて、二回。


 扉が細く開いた。


「早いな、坊主」


 古い煙草の匂いが、鼻先まで漏れてくる。


「入れよ」




 煙が、渦を巻いていた。


 四畳半ほどの狭い部屋。テーブルと椅子が二つ。壁には、灰底の地図が何枚も重ねて貼られ、テーブルには、紙の束が雪崩のように積まれている。唯一の光源は、天井からぶら下がった、古いランプだけだ。


 紙の山には、消えた人間の名前と、まだ生きている人間の動向が、混ざって積もっている。ムジカは、それを売って暮らしている。


 その薄暗い光の中で、ムジカが煙草をくゆらせていた。三十代半ば。鴉色の髪の前髪で、片目を隠した、無精髭の男。


「で? 今日は何が聞きたいんだ」


 エコは、テーブルに、革のバッジを置いた。


 黒い革に、銀の刻印——三日月と、炎。


 ムジカが、煙を吐く手を止めた。


「……またそれか」


「うん」


「先月、東地区の一件で剥がしてきたやつだろ。何度見ても同じだぜ。しょっぱい末端の証だ」


「分かってる。でも——これしか、辿る糸がない」


 ムジカは、煙草を灰皿に押しつけた。ねじ込まれた火が、ぷすりと消えた。それから、初めて、エコをまともに見た。


 見える側の片目が、ランプの光を受けて、底光りしている。


「坊主。お前、変わったな」


「そう?」


「三年前のお前は、もっと——震えてた」


 エコは、答えなかった。


 答える代わりに、ゴーグルの紐を、無意識に指で触っていた。


 ムジカが、机の引き出しを開けて、紙の束を取り出した。古いインクの匂いがした。


「動きが、あったよ」


「…………」


「最近、灰底の東端、旧貨物区画のあたりで、見慣れない連中が出入りしてる。三人から五人の小グループ。夜だけ動いて、朝には消える」


「紋章は」


「確認はできてない。だが——雰囲気でな。俺の鼻は利く」


 ムジカが、地図の一点を指さした。指の腹に、煙草のヤニが染みている。


「七番倉庫。今夜も動きがあるかは知らん。自己責任だ」


 エコが、ポケットから小さな結晶を取り出して、テーブルに置いた。暗い紫色に、微かな光が脈打っている。灰底では、これが金代わりになる。


 ムジカは結晶を指で転がし、ランプの光に透かした。


「……まあ、いいだろう」


 立ち上がりかけたエコを、ムジカが呼び止めた。


「坊主」


「何」


「お前がどこの誰で、何を探してるかは聞かない。俺はそういう商売だ。だが——」


 片目がエコを見ていた。


「ガキ一人で首突っ込む場所じゃないぜ、あのあたりは」


 エコは、少しだけ笑った。口の端だけ、わずかに上がる笑い。


「大丈夫。見るだけだから」


 ムジカは、煙草の箱を弄びながら、何も言わなかった。


 ただ、扉を出ていくエコの背中を、片目で、見送っていた。




 夜。


 灰底の暗さは、昼とは質が違う。頼りない街灯がぽつぽつと闇に浮かんでいるだけで、その間を、黒い影が埋めている。


 空気が、湿っていた。


 エコは屋根の上にいた。


 ゴーグルを目元に下ろし、上着のフードを深く被っている。屋根瓦の冷たさが、肘から肩へと這い上がってくる。昼間の柔らかい少年の気配は、もう、どこにもなかった。


「ナナバン ソウコ。ゼンポウ 200メートル」


 ソラが、肩の上から、小声で報告する。レンズの紫が、エコの鼓動と同期するように、微かに脈動している。


「ニンズウ ハアク できズ」


「うん」


「エコ」


「分かってる。見るだけだよ」


 ソラは、少しだけ黙った。


「……ホントウ ニ?」


 エコは、答えなかった。


 向かいの建物の屋根に伏せて、目の前の倉庫を観察した。


 七番倉庫——元は何かの物流拠点だったのだろう。錆びたシャッターの大きな建物が並んでいる、その中の一つ。


 そこだけ、明かりが漏れていた。


 シャッターの隙間から、人影が見える。二人。いや、三人。中で動いている。


 声は、聞こえない。だが、空気が、かすかに震えている。


 中にいる誰かが、力を使っている。微弱だが、確かに。


 ——あの夜と、同じ。


 息が、ふっと詰まった。


 三年。


 三年間、追いかけ続けた、紋章。


 教会を焼いた連中。


 ニコラを、サクヤ姉ちゃんを、奪った連中。


 その末端が、今、目の前にいる。


 エコの指が、屋根の縁を、強く握りしめていた。爪の先が、瓦の表面に、白い痕を残していく。


「シンパクスウ じょうショウチュウ」


 ソラの声。


「……分かってる」


 今日は、見るだけ。


 数を確認する。場所を覚える。それで、十分だ。


 一人では、踏み込めない。それは、分かっている。


 三年間、ずっと、分かっていた。


 エコは目を閉じて、息を吐いた。


 ゆっくりと屋根から後退しようとした、その時。


 倉庫のシャッターが、軋みながら、開いた。


 エコの体が止まった。


 中から、人影が出てくる。一人。二人。三人。——四人。


 最後の一人が、何かを引きずっていた。


 布袋でも、荷物でもない。


 人だった。


 意識のない、女の子。


 長い髪が、地面を擦って、灰色の塵を引いていた。


 エコの胸の中で、鋼の心臓が激しく軋んだ。




   つづく


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