プロローグ 夜の記憶
祈りが、悲鳴に変わった。
ステンドグラスが砕け散る。聖母の青、殉教者の赤、天使の金。色とりどりの破片が宙に舞った瞬間、まるで光そのものが息をしているように見えた。それが、足元へ降り注いだ。
炎が天井を舐めている。古い木の梁が生き物のように軋む。熱気が頬を炙り、煤が舌の奥に張り付いていた。
窓の外から、怒号が幾重にも重なって聞こえる。革のブーツが石畳を打つ音。鉄器が壁を打つ振動。誰かが扉を蹴破ろうとしている。一度。二度。三度。
祭壇の陰で、少年はうずくまっていた。
膝を抱える腕に、自分の鼓動が響いていた。疾く、硬い。喉の奥で空気が震え、吸っても吸っても、足りない。
煙が目に沁みる。視界が滲んでいるのが、涙のせいなのか、煙のせいなのか、もう分からなかった。
「——エコ! 動かないで!」
女の人の声。いつも子守唄のように穏やかな声なのに、今は聞いたことのない掠れ方をしていた。
「あの子たちを連れて裏口から——」
爆音。
壁が、内側に向かって膨らんで、弾けた。粉塵が礼拝堂を満たす。木の破片が頬を掠めた。痛みは、後から来た。
灰色の煙が薄れていく。その向こうに、黒い影が立っている。一人。二人。三人。もっと。
影がゆっくりとこちらへ歩いてくる。
女の人が少年の前に立った。両腕を広げて。墨色の長い髪が背を覆う。白い装束が火明かりに染まる。その小さな背中が、少年の視界の全部になった。
隣にいた男の子が立ち上がった。
少年より、少し背の高い、同い年の男の子。
震えていた。
足が、手が、唇が。指先まで、震えていた。普段、賛美歌を歌う時には決して震えない、その指。
それなのに、男の子は走り出した。
女の人を守るように。少年を守るように。
逃げるのと、反対の方向に。
拳を握って、自分よりずっと大きな影に向かって。
「さわるなっ!」
男の子の叫びが、礼拝堂に反響した。
次の瞬間。
その体が、糸の切れた人形のように、宙に浮いた。
壁に、叩きつけられた。
音がした。重くて、短くて、嫌な音。耳の奥に、こびりついた。
彼は、もう動かなかった。
崩れた手足が、不自然な角度で止まっている。半開きの口の端から、糸のような血が頬を伝った。
時間が、止まった。
「——————ッ!」
少年の喉から、声が、出た。
声というより、もう少年自身のものではない何か。形にならない音が、炎の中をのたうって、燃える梁を震わせた。
その瞬間。
胸の中で、心臓が弾けた。
いや、違う。
弾けたんじゃない。
何かが——目覚めた。
燭台が捻じ曲がった。
床を留めていた釘が、一斉に、抜けた。木が裂ける音が、礼拝堂を満たす。祭壇の鉄の十字架が自重を忘れたように歪んだ。壁の金具がちぎれて、宙を切った。
教会中の金属が、少年の悲鳴に呼応するように、暴れ出した。
少年の指先から、見えない糸が何百本も、教会中に伸びていく感覚があった。糸の先で、金属が自分の体の一部のように動く。
動くな。
動くな。動くな。
念じるほど、暴れる。
止められない。
止まらない。
金属の破片が四方八方に飛び散る。敵も、味方も関係なく。壁が裂ける。柱が折れる。天井が崩れ始める。
女の人が何かを叫んでいた。
いつも穏やかに賛美歌を歌っていたシスター。墨色の長い髪が、炎の中で乱れていた。優しい焦げ茶の瞳が、見たことのない光を宿していた。
白い装束が、命を絞り出すように、発光している。
彼女の腕は、倒れた男の子の方に伸びていた。指先から、目には見えない何かが、絹のような細い線になって、流れ出ていく。
いや——彼女自身が、流れ出ていた。
命を、燃やしながら。
その細い光の、もう一方の先に。
古びた小さなロボットが転がっていた。礼拝堂の隅、誰のものでもない瓦礫の中に。単眼の丸いレンズが、暗く曇っている。
彼女が何をしているのかは、分からなかった。
彼女が誰に向かって祈っているのかも。
何も分からなかった。
崩れていく天井。砕けていく壁。舞い上がる灰と、爆ぜる炎。
少年は、叫んでいた。ただ、叫んでいた。
守りたかった。
守りたかっただけなのに。
また、守れなかった——また?
目が、覚めた。
色褪せて、罅の入った、見慣れた天井。
息が荒い。汗が冷たい。胸の中で、硬い鼓動がまだ暴れている。
「また ウナサれテイタ」
声がした。
枕元から、小さな金属の体がこちらを覗き込んでいる。古びた塗装が剥げ、地金が露出した、丸い単眼レンズ。その奥で、暗い紫の光が微かに脈動していた。
「ヘイキ?」
「……うん、大丈夫だよ」
ソラは、それ以上何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
体を起こす。汗で髪が額に張り付いている。少年はそれを指で払ってから、枕元のゴーグルを首にかけた。
窓の外は、まだ薄暗い。朝は遠い。
台所から、包丁がまな板を叩く音が聞こえてきた。乱暴で、正確なリズム。
「起きたか」
白い短髪の男が振り返りもせずに言った。背は高いが線は細い。それでも包丁を振るう腕には、妙に手慣れた力の入り方がある。
「飯できてるから食えよ」
「うん。ありがとう」
席に着く。ソラがテーブルの端に陣取り、小さな体ごと皿の方に傾いている。
「キョウの しョくジ、エイヨうバランス……マアマア」
「マアマアとは何だ。文句あるなら自分で作れ、ポンコツ」
「ジブンで ツクル キノウは ソウビ さレテイマセン」
「だったら黙って見てろ」
温かいスープを口に運んだ。
香草の匂いと、塩気と、出汁の奥にある、何かの肉の旨味。具材はいつも違うが、味はいつも変わらない。
無骨な料理も、的外れな分析に本気で怒る声も。
——だから。
スープに映った自分の目が、一瞬だけ変わった。
ほんの一瞬。
「ごちそうさま」
「ああ、そうだエコ。今日は暇か?南通りの配給手伝ってくれないか」
「うん、分かった」
いつもの朝だ。
それが、この少年の——表の顔だった。
誰もまだ知らなかった。
この少年が、夜の灰底で「灰かぶり」と呼ばれていることを。
第1部「灰かぶりの少年」開幕。
はじめまして、Mao.と申します。
数ある作品の中から『悪役物語』を見つけてくださって、ありがとうございます。
これは、全てを失った少年が「悪役」になるまでの物語です。彼がこの先どこへ向かうのか、ゆっくりと書き進めていきます。
続きでお会いできたら嬉しいです。




