第10話 旅立ち
翌朝、南通りの路地には罅割れた壁と散乱した鉄くずが残っていた。
配給はいつも通りだった。ヨウは鍋の前に立ち、柄杓を振るっている。何事もなかったかのように。
でも列に並ぶ人の数が、少し減っていた。
「昨日のアレ、何だったんだ」
「宙憑き同士の喧嘩だろ。巻き込まれたらたまんないよ」
「もうこの辺来たくないな……」
声が聞こえる。エコはパンを配りながら黙って聞いていた。
鉄の花の女の子は今日も来ていた。母親に手を引かれて列の真ん中に並んでいる。エコと目が合うと、小さく手を振った。もう片方の手で、鉄の花をまだ握りしめていた。
エコは笑顔を返した。
返せた。——今日は、返せた。
配給が終わってから、エコは教会の裏の空き地に座っていた。
ソラが膝の上にいる。
「エコ」
「……なに」
「キノウの こと、カンガエテル?」
「…………」
考えている。ずっと。
昨日見たもの。三人の連携。風が子供たちを運び、幻影が敵を惑わせ、その間に傷ついた人を助けに行く。全部が同時に動いていた。
自分は一人で全部やろうとして、何一つ間に合わなかった。
——次は一人でやるな。死ぬぞ。
ギンジの言葉。冗談みたいな口調だったのに、目だけは本気だった。
「ソラ」
「ナニ」
「僕、行こうと思う」
「……あの バショ?」
「うん」
ソラは何も言わなかった。数秒、沈黙があった。
「ソウ」
短い返事だった。賛成でも反対でもない。ただ——エコが決めたことを受け取った、という音だった。
「情報のためだよ。あの紋章の連中を追うには一人じゃ限界がある。それだけだから」
「ソウ」
同じ返事。同じ音。
嘘をついているのは、エコ自身が一番分かっていた。情報だけじゃない。あの三人の連携を見た時に感じたもの。壁を作れと言われてすぐに動けた時の感覚。自分の力が、誰かの力と噛み合った瞬間の——。
でも、それを認めたら。仲間が欲しいなんて認めたら。
また失う時に、耐えられなくなる。
「……情報のためだから」
三度目はソラには言わなかった。自分に言い聞かせた。
夕食の後。
ヨウが台所で洗い物をしている。エコはテーブルに座ったまま、その背中を見ていた。
言わなければならない。
「ヨウさん」
「あ?」
「少しの間、ここを離れるよ」
水の音が止まった。
ヨウは振り返らなかった。蛇口から水が滴る音だけが、台所に落ちていた。
「……どこに行く」
「中層で、仕事をしようと思ってる」
「仕事、ね」
ヨウが蛇口を閉めた。タオルで手を拭きながら振り返った。
鋭い目がエコを見ていた。問い詰める目ではなかった。もっと——静かな目だった。
「昨日の騒ぎと関係あるか」
「……少しだけ」
「少しだけ、ね」
ヨウが鼻で笑った。信じていないのは明らかだった。でも、それ以上は聞かなかった。
椅子を引いて、エコの向かいに座った。テーブルの上に大きな手を置いた。
「エコ」
「……うん」
「お前が決めたことだ。何をするか、何をしたいのかは聞かない。ただ——一人で無茶はするな」
「……うん」
「通えないのか」
「……任務がいつ来るか分からないから、向こうにいた方がいいって」
嘘ではない。でも全部でもない。
本当の理由は——ここと向こうを行き来したら、この教会の場所があの連中にバレるかもしれない。ヨウや、配給に来る人たちを巻き込むかもしれない。
だから離れる。守るために、離れる。
ヨウは、しばらくエコの目を見ていた。
「……そうか」
それだけ言って立ち上がった。
台所の棚から何かを取り出して、テーブルに置いた。古い布に包まれた、小さな包み。
「持っていけ」
エコが布を開くと、中には小さな工具セットが入っていた。精密ドライバー、ピンセット、極細のワイヤー。古いが、手入れの行き届いた道具。
「……これ」
「あのポンコツの関節、錆びてたぞ。お前以外に面倒見てやれる奴はいないだろ」
ソラがテーブルの端で反応した。
「サビテ ナイ。ケイネン レッカ」
「同じだろ」
「チガウ」
ヨウが鼻を鳴らした。
エコの指が工具に触れた。金属の冷たい感触。使い込まれた道具特有の、手に馴染む重さ。柄の部分が、長年握られてきた形にわずかに摩耗している。
ヨウがこの道具で、何をしてきたか。誰を繋ぎとめてきたか。
「……ありがとう」
「礼はいらん。——飯は向こうでもちゃんと食えよ。痩せて帰ってきたら承知しないからな」
いつもの夜だった。
でも、最後の夜だった。しばらくは。
朝。
荷物は少なかった。着替え。ゴーグル。ヨウにもらった工具。ソラ。それだけだ。
教会の入り口に立った。振り返ると、ヨウが廊下の奥に立っていた。法衣の袖をまくり上げたまま、壁にもたれている。
「いつでも帰ってこい」
短い言葉だった。笑ってもいないし、泣いてもいない。ただ、まっすぐにこちらを見ていた。
一瞬、間があった。
「体を、大事にしろよ」
エコの視界が、少しだけ滲んだ。
「……行ってきます」
それだけ言って背を向けた。それ以上ヨウの顔を見ていたら、足が動かなくなりそうだった。
教会の扉を押し開けて、灰底の通りに出た。朝の空気が冷たかった。
ソラが肩の上で小さく身じろぎした。
「エコ」
「……なに」
「カエッテコヨウ」
エコは立ち止まった。
帰ってこよう。一緒に行って、一緒に帰ろう。そう言っている。
「……うん」
歩き出した。
検問を迂回する裏道に入る前に、一度だけ振り返った。
灰聖堂の屋根が、朝の薄い光の中に見えていた。
——必ず帰る。
声には出さなかった。胸の奥で、鋼の心臓が静かに鳴っていた。
第1章「灰色の日常」——了。




