第11話 残火
壁の隠し扉を抜けて、階段を降りた。
前に来た時と同じ道。同じコンクリートの匂い。でも今日は肩に荷物を背負っている。着替えと、ゴーグルと、ヨウにもらった工具と、ソラ。それだけの荷物が妙に重かった。
地下に出た。
前回と同じ広い空間。デスク、中央のテーブル、奥のキッチン。ヤカンの湯気。ラジオの音。人の気配。
ただ前回と違ったのは、全員の視線がこちらに向いていたことだった。
「お、来た来た」
ギンジが中央のテーブルから立ち上がった。琥珀色の目がこちらを見て、にやりと笑う。
「ちゃんと辿り着けたじゃん。迷わなかった?」
「……二回迷った」
「前より増えてるな」
「だってルートが分かりにくい」
「分かりにくいから安全なんだよ。慣れろ」
「無茶だよ」
周囲から小さな笑い声が漏れた。エコはフードの下で顔をしかめた。
「お、そいつがソラか。話には聞いてたけど、ちゃんと喋るんだな」
ギンジがエコの肩のソラに話しかけた。
「……ベツニ」
「おー、塩対応だな。仲良くしようぜ」
「ロボットに、シオの キノウ ナイ」
「……」
エコが小さく吹き出した。
「ほら、エコまで笑った」
「笑ってないよ」
「笑ったって。——まあ座れよ。紹介するから」
ギンジに促されてテーブルの前に立つと、奥から一人の男が歩いてきた。
中肉中背。亜麻色の髪を無造作にまとめ、丸い眼鏡をかけている。穏やかな垂れ目。柔らかい笑顔。作業着風の地味な服装。
どこにでもいそうな人だ、とエコは思った。職人か、町工場の主人か。物騒な気配のこの地下で、その人だけが妙に穏やかだった。
「はじめまして。風道祭です。ここの——まあ、取りまとめをしています」
取りまとめ。
その一言に、エコは少し意外な気がした。この人が、ここのまとめ役。見た目だけでいえば、地味な印象だ。
丁寧な声。静かで落ち着いていた。差し出された手は、大きくも小さくもない。ごく普通の手だった。
エコは一瞬迷って、その手を握った。
「……エコです。漣エコ」
「エコくん。ギンジからは話を聞いています。——改めて、ようこそ」
祭の目が眼鏡の奥で細まった。笑っている。穏やかに。
でも一瞬だけ、目の奥に別のものが見えた気がした。深い場所にある、重いもの。すぐに消えた。
「座ってください。お茶くらいは出しますよ」
エコはテーブルに座った。ソラをジャケットから出してテーブルの端に置くと、ソラは周囲をぐるりと見回し、小さく身を縮めた。
「珍しいロボットですね」
祭がソラを覗き込んだ。
「旧式のAIですか。宙晶非搭載の……これはかなり古い型ですね。動いているのが不思議なくらいだ」
エコの指が、膝の上でわずかに丸まった。
「……拾った時は壊れてたんです。でも、いつの間にか動き出して」
「そうですか。面白い子ですね」
祭がソラに向かって微笑んだ。ソラは動かなかった。じっとして、祭の顔を見ている。何かを計っているような、長い沈黙。
「……ヨロシク」
ソラが、ぽつりと言った。
「ええ。こちらこそ」
「まず、私たちが何をしている集まりなのか、説明しますね」
祭が茶を淹れながら話し始めた。手つきが丁寧だった。角砂糖を入れるか聞かれて、エコは首を横に振った。
「私たちは『残火』と呼んでいます。意味は消えかけた火。表の世界から見放された人たちのために、最後に残っている火という意味です」
祭が茶をテーブルに置いた。湯気がまっすぐ立ちのぼる。
「簡単に言えば、政府からの依頼を受けて、代行して問題を解決する。そんな組織です。シギュラが絡んだトラブルは、放っておくと人が傷つく。でも、その政府というのが——一枚岩じゃない」
「一枚岩じゃない……?」
「シギュラを管轄する組織は、二つに分かれているんです」
祭は指を二本立てた。
「一つは警察庁の『特異能力対策局』。通称『特対』。もう一つは厚生労働省の『異能管理局』。略して『異管局』」
「……二つも?」
「昔は『特異事案対策庁』という一つの組織でした。市民は今でも俗称で『対策庁』と呼びます。でも十年ほど前に方針対立で割れて、今は別々の省庁の下にある二つの組織です」
「方針が……違うの?」
「真逆です」
短く、祭は言った。
「特対は、シギュラを危険視して、取り締まる対象としています。異管局は、支援すべき国民として、共生の道を探っている。同じ国の組織なのに、立場が正反対なんです」
淡々とした声だった。だが「真逆」という一語にだけ、微かな重みがあった。
「資金は?」
エコが聞いた。
「一部は異管局から非公式に。残りは支援者の寄付と、依頼の報酬です」
「政府と繋がってるの?」
「繋がっている、というより——利用し合っている、が正しいですね」
祭は薄く笑った。
「異管局は私たちを使って、公には動けない案件を片付けたい。私たちは情報と資金が欲しい。そういう関係です」
きれいな関係ではない。祭はそれを隠さなかった。
「私たちは正義の味方ではありません、エコくん。例えるなら……そうですね、消防団のようなものでしょうか。火事が起きたら消しに行く。でも放火犯を追うのは私たちの仕事じゃない。——本当は」
祭の目が、エコをまっすぐ見た。
「でも最近は、その火事を起こしている側の動きが活発になってきている。シギュラを狙う組織は多い。灰底の襲撃も、その一つでした」
エコの指がテーブルの上で止まった。
「あの紋章の……」
「三日月と炎。ええ、把握しています。各地でシギュラを標的にしている。目的は——まだ正確には分かっていませんが」
祭が茶を一口飲んだ。
「エコくん。ギンジから聞いていると思いますが、私たちがあなたに来てほしかったのは、あなたの力が必要だからです。同時に——あなたが探しているものの手がかりを、私たちは持っている」
「…………」
「これは取引です。あなたは私たちと動いてくれる。私たちはあなたに情報を渡す。それで構いませんか」
エコは茶の水面を見つめていた。
ギンジと同じことを言っている。でも祭の言い方は、もっと丁寧で、もっと正直だった。きれいじゃないことを、きれいじゃないと認めながら差し出してくる。
「……一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「ここの人たちは、なんでこの仕事をしてるんですか」
祭が少し黙った。眼鏡の奥の目が、何かを思い出すように遠くなった。
「人それぞれです。私の場合は——昔、消せなかった火がありました。それだけです」
それ以上は語らなかった。エコも聞かなかった。
「……分かりました。よろしくお願いします」
「ええ。こちらこそ」
祭が手を差し出した。今度はエコも迷わなかった。
握り返した手は、温かくも冷たくもなかった。ただ、確かだった。
「それじゃあ、チームの紹介をしましょう。ギンジ、呼んできてくれますか」
「あいよ」
ギンジが軽い足取りで奥に消えていく。
ソラがテーブルの端で、小さく呟いた。
「エコ。ここに イル こと ニ シタ?」
「……うん」
「ソウ」
短い返事。その声に、ほんの微かな安堵のようなものが混じっていた気がした。
気のせいかもしれない。ソラは旧式のAIだ。安堵なんて、しない。
——はずだ。
同じ夜——灰底、灰聖堂。
台所の灯りが点いていた。
ヨウが一人、椅子に腰を下ろしている。手にぬるくなった茶のカップを持っていた。
向かいの席は、空いている。
いつもなら、その椅子に小さな影が座っていた。じゃがいもの皮を剥く手伝いをしたり、ソラと一緒に何か呟いていたり。
今夜は、誰もいない。
ヨウは台所をぐるりと見渡した。エコの背が届かない高さに置いた塩瓶。エコがよく座っていた窓辺の椅子。エコのために少し低く作った棚。
全部、あいつのために作ったものだった。
ヨウは茶を一口飲んだ。冷えていた。
「……行ってこい、か」
自分で言った言葉を、自分で繰り返した。
見送る時、笑って言ったはずだった。いつでも帰ってこい、と。
でも、本当は。
ヨウは目を閉じた。
「無事でいろよ、——馬鹿息子」
誰もいない台所に、その一言だけが静かに落ちた。
つづく




