第9話 援軍
屋根の上に影が立っていた。
緋褐色の髪。琥珀色の目。あの軽い声。
「おー、やってるやってる。遅くなっちまったな」
蘭堂ギンジが屋根の縁にしゃがみ込み、こちらを見下ろしていた。
その後ろに、もう二つの影。
「ギンジ、喋ってる場合じゃないでしょう。下の子たちが先」
女性の声。落ち着いている。聞き覚えがない。
「分かってるって。——シズク!」
「は、はい……!」
小さな声。屋根の上の三つ目の影が両手を前に伸ばした。
風が吹いた。
下からではない。横でもない。路地全体を包み込むように空気の流れが変わった。柔らかいが確実な風が、座り込んでいた子供たちの体を持ち上げるように押して、路地の奥へ——安全な方向へと運んでいく。
子供たちが驚いて声を上げた。でも痛くはない。転がるように路地の角を曲がり、壁の陰に消えていった。
一瞬だった。風が止んだ時には、戦闘区域に民間人は誰もいなくなっていた。
「……子供たち、退避できました」
屋根の上から小さな声が報告した。
三人の敵が屋根を見上げた。
「なんだ、増援か」
「何人だ」
「三人。たかが三人だ」
ギンジが屋根から飛び降りた。着地の音は軽い。路地の真ん中に立ち、両手をポケットに突っ込んだまま笑った。
「三人で十分だろ」
敵の一人が動いた。拳の男。ギンジに向かって踏み込む。さっきエコの腕の金属膜を砕いた、あの重い一撃。
拳がギンジの顔面に届く——直前。
ギンジの体が揺らいだ。
いや、違う。蜃気楼のように。拳が振り抜かれた瞬間、ギンジは煙のように消えた。
「残念。そっちは偽物」
声は拳の男の背後から聞こえた。
振り返った男の視界に、もう一人のギンジが立っている。同じ笑み。同じ姿勢。
いや——違う。
路地のあちこちに同じ顔が立っていた。屋根の上、壁の影、ゴミ箱の陰。七人。同じ笑みを浮かべた七人のギンジが、夜の灰底に並んでいる。
「どれが本物でしょう? ——って、正解は全部偽物なんだけど」
七人が同時に同じ口を動かす。声が幾重にも重なって路地に響いた。
男たちが混乱した。一人が拳を振るう。掠った瞬間、ギンジの体はぱっと淡い光に変わって弾けた。別の一人の蹴りが空を切る。倒したと思った刹那、背後から「やあ」と声をかけられる。
路地が、偽物だらけになっていた。
その間に——。
「失礼します」
背後から静かな声。
女性が、最初に倒された若い男の横に膝をついていた。いつの間にそこにいたのか。戦闘の隙を縫って回り込んだのだ。
彼女の手が男の胸に触れた。淡い光が滲む。男の体が微かに震え、乱れていた呼吸が少しずつ整っていく。
それを見て、エコは息を呑んだ。あの光は——力だ。自分のように人を壊す力ではない。壊れかけたものを、繋ぎとめる力。
「意識はありません。でも命に別状はない。運びます」
淡々とした声。倒れた男を肩に担ぎ上げる動きに、迷いがなかった。
敵の二人目、衝撃波の男がそちらに気づいた。手を向ける。
風が唸った。
衝撃波が放たれるより先に、横から鋭い突風が叩きつけた。風は男の腕を横へ強引に押し出す。狙いのズレた衝撃波が、見当違いの壁に大きな穴を開けた。
「……っ」
屋根の上で、シズクの両手が震えながら風を操っている。さっき子供たちを退避させたのと同じ力。だが今度はピンポイントで、敵の腕だけを狙っていた。
その間に、ギンジの幻影が拳の男を翻弄していた。当たらない。当たったと思えば消える。男の動きが焦りで雑になっていく。
その間に、女性が負傷者を担いで安全な場所まで運んでいた。
その間に、シズクが次の風を編んでいた。
その間に、ギンジが新しい偽物を路地の角に置いていた。
三人の敵が向き合うべき相手は、三人ではなかった。
幻影。風。人を繋ぎとめる光。三つの力がそれぞれ別の方向で同時に動いている。一つも互いの邪魔をしない。
エコは膝をついたまま、それを見ていた。
——これが、チームか。
喉の奥が、不意に詰まった。
一人では三方向を守れなかった。一人では攻撃しながら子供を逃がせなかった。一人では倒れた人を助けに行けなかった。さっきまで、その全部に手が届かず、ただ立っていることしかできなかった。
三人なら——全部、同時にできる。
当たり前のように。
「おい、灰かぶり」
ギンジの声。本物がどれかは分からない。だが声はすぐ近くから聞こえた。
「動けるか?」
「……動ける」
「なら壁を作ってくれ。あの路地の入り口。逃げ道を一本塞ぐ」
明確で短い指示。何をすればいいか、すぐに分かった。
エコは立ち上がった。路地の壁から金具を引き剥がし、排水管を捻じ曲げ、入り口を塞ぐ鉄の壁を組み上げる。即席で不格好だが、人が通れない程度には頑丈だ。
逃げ道が一つ減った。三人の敵が後退できる方向が限られる。
「ナイス。セイカさん、退避は完了した?」
「完了です」
女性が——セイカが答えた。
「シズク、追い込んで」
「は、はいっ……!」
風が一気に質量を変えた。
路地中の空気が一方向にだけ流れ始める。三人の敵が、自分の意志に反して後退させられていく。何かに押されているような、見えない圧力。
左右の壁はギンジの幻影が塞いでいた。後ろはエコの鉄の壁。
逃げ道はシズクの風が誘導する一本だけ。
追い込まれた三人が、路地の奥に固められていく。
ギンジの幻影が、その周囲をぐるぐると回る。どこに逃げても同じ顔。同じ笑顔。
拳の男が苛立ちのまま偽物を殴りつけた。光になって消える。また殴る。また消える。
「——任務外だ」
三人目、腕を組んでいた男が初めて声を出した。
「目立ちすぎた。引け」
「は? たかがガキ共に——」
「引け」
短い、絶対的な命令。
三人目の男が壁に手を当てた。
触れただけで、コンクリートが粉のように崩れ落ちる。
いや、崩れたのではない。砂になった。物質の構造そのものが変質し、さらさらと足元へ流れ落ちる。
壁に大きな穴が開いた。
三人が崩れた壁の向こうに消えていった。
ギンジの幻影が一つ、また一つと淡い光になって消えていく。最後に残った一体が——やっぱり偽物で、薄く笑って溶けるように消えた。
路地の反対側から、本物のギンジが歩いてきた。
「逃げたか。まあいいさ」
息一つ乱していない。ポケットに手を突っ込んだまま、エコの前に立った。
「——大丈夫か、灰かぶり」
エコは壁にもたれたまま、ギンジを見上げた。
体中が痛い。腕の金属は剥がれ落ち、足元に鉄屑が散らばっている。組み直す力は、もう残っていない。
「……なんで、ここに」
「灰底で妙な連中が動いてるって情報が入ってな。様子を見に来たら、お前が一人で突っ込んでた」
「…………」
「一人で、よくやったよ」
ギンジの声が、少しだけ低くなった。軽口の調子が抜けている。
「子供たち、守りきった。でもな」
琥珀色の目が、エコをまっすぐ見た。
「次は一人でやるな。死ぬぞ」
エコは答えなかった。
答えられなかった。
分かっていたからだ。一人じゃ無理だと。三年前から、ずっと。
屋根の上で、小さな影がおずおずとこちらを見下ろしていた。深藍色の髪が風に揺れている。その隣に、常磐色の髪の女性が立っていた。
たった三人で、エコが一人ではできなかったことを、全部やってのけた人たち。
ソラが肩の上で小さく呟いた。
「エコ。ダイジョウブ?」
「……うん」
大丈夫じゃなかった。体も、心も。
でも——子供たちの泣き声は、もう聞こえなくなっていた。
ギンジがエコの隣に来た。
軽い口調を作ろうとして、うまくできなかったのか、ただぽつりと言った。
「明日——拠点に来いよ」
エコはギンジを見た。
「本格的に話そうぜ。お前のことも、俺たちのことも」
「……」
「決めるのは、お前だ。——でも、来てくれたら、俺は嬉しい」
ギンジがエコの肩を一度だけ叩いた。
それからシズクとセイカの方へ歩いていく。その背中は、もう振り返らなかった。
エコはその背中を見送った。
三年間、ずっと一人でやってきた。
一人でも、そこそこ強くなった。纏う力も、心臓の使い方も、気配を殺す術も、全部独りで覚えた。
でも——一人でやれることには、限界がある。
今夜、それを目の前で見せられた。羨ましさにも似た何かが、痛む体の奥で小さく疼いた。
鋼の心臓が、いつもと違うリズムを刻んでいた。
明日——行くかもしれない。
まだ、決めていない。
でも、もう戻れない気もしていた。
つづく




