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「お兄ちゃーん。早く、早く」

「待てよ」

 空色のビキニを着た姉貴の横で、白地に黒の水玉模様のビキニ(こちらは下にスカートがついている)を着た優里が手を振っている。知らないわけではなかったが、こうして改めて露出度の高い姿を見ると、二人とも胸囲の格差社会では上流階級に属しているのがよく分かる。揺れる。ばいん、ばいん、という効果音さえ聞こえる気がする。だがでもしかし、その事実に今はそこはかとなく嫌な予感しかしない。

「正、どう?私の水着」姉貴は口元に手を当てて俯きながら訊いてくる。何ともわざとらしいくせにそれが様になっているから腹が立つ。でも、拙者はときめかぬよ。割とギリギリだけど。

「ああ、いいんじゃない」

「じゃあ、おっぱいは?最近ちょっとまたちょっと大きくなったんだけど、正の好みのサイズかなぁ?」

 ぎゅっと両腕を寄せた姉貴の胸には、ブラックホールの如く男の視線を吸い込むような谷間ができる。ぬおっ、これが神の試練というやつですか?そうですか?

「ちょ、ちょっとお姉ちゃん何してんの!やめてよ、もう。行こ、お兄ちゃん」

 優里は俺の手を掴み、ぐいぐいと引いていく。

「優里も立派なのあるんだからマネすればいいじゃん」姉貴はにやにやしながら追いつく。

「私はお姉ちゃんと違ってそんな恥ずかしいことしないもん」

「ほほー」

「で、どこ行くんだよ?」

「波のプール。ここのは何分かの間隔で大きい波を発生させるらしいよ」

「へえ」

「面白そうね」

 優里に手を引かれながら周りを見回すと、室内施設だけあって季節外れながらも結構賑わっている。しかし来ているカップルのほとんどが傍目にも分かるほどその関係を冷え切らせているのはなかなかシュールな光景で、ははは、いやいやおもろい、おもろい。修羅場割引でもあるんですか?この施設は?なんてことを考えつつぶらつけば、何人かの女は俺を見つけてパッと顔を明るくした瞬間、姉貴と優里の方に訝るような視線を向ける。そして、それに気がついた相手の男が俺に殺意のこもった眼差しを投げかける。嘲笑の表情で返してやろうかと思ったが、優里がずんずん先導するのでそんな余裕はなかった。

「あ、ここ、ここ。段々深くなってるみたいだね」

 弱々しい波が打ちつけているプールには、次の波を待つ客がぷかぷか浮いている。

「で、優里はいつまで正の手を握ってるのかなぁ?」

「え…あっ、ごめん、お兄ちゃん。手握ってるの忘れてた…」

「ふふふ。優里もやるねぇ。いかにも自然な感じで正の手を握るとは」

「私は、別にお姉ちゃんみたいな下心ないし」

「へえ、じゃあ私は下心全開で行くよ?正、行こ」

「ちょ、おい」

 姉貴は露骨に胸を当てるようにして俺の腕にしがみつき、そのまま俺の体を引っ張りつつ、バシャバシャとプールの中へ入っていく。

「あ、ずるい。待ってよー」

 波のプールの底は緩やかに傾斜していて、徐々に深くなっていった。岸から一番奥までの距離の半分ほどまで来ると、すでに水の深さは俺の二の腕くらいまである。姉貴と優里はどうにか顔を出せるくらいの水深だ。姉貴の方は平然とぷかりぷかり浮いているが、優里の方は右手で俺の手を握り、左手で俺の肩を掴んでいて、もはや完全に俺の体にしがみついている。

そういえば優里は泳ぐのがあまり得意じゃない。

「どうする?この辺にするか?」

「もうちょっとだけ進む。でも、絶対手離さないでね、お兄ちゃん」

「分かったよ」

「絶対だよ」

「分かってる、分かってる」

 その時、不意に姉貴が反対側からしがみついてきた。

「あー、私も浮いてるの疲れたー」

「な、お前は平気だろ」

「冷たくしないでよー。これ以上進んだら、私だって足つかないんだよ」

「分かった、分かった、そんなくっつくなよ」さもなくば俺が死ぬる。かもしれない。

「ありがとー」

 言ってるそばから姉貴は思い切り密着してきた。柔らかい感触が背中に広がる。先日は服の上からだったが、今日は薄い水着一枚越しの生々しい柔らかさである。

「おい、おま…」

「お姉ちゃん、くっつき過ぎ」

「だって、私だって溺れるのやだもん」

 優里がそれ以上何かを言う前に波発生のアナウンスが鳴り、俄かに水面の凹凸が激しくなり始めた。

「きゃあ」

「ははは、すごい」

 姉貴は笑っているが、優里はもはや姉貴を詰るのも忘れて目一杯俺にしがみついている。そのせいで、柔らかい感触が倍に増えた。体中がまふまふとした掴みどころのない感触に包まれ、もう訳が分からない。というのは嘘である。それじゃあ、何なのかと言うと、はっきり言おうか。めっちゃ気持ちいいね。乳房の感触に血縁もクソもあるかっ。正直言って、今すぐ奇声上げて吠えながら思う様四つの乳を揉みしだきたい。揉みしだき続けていたい。そんな気分。それじゃあ何?汝はそれを余に自慢してるわけ?と思うかもしれないが、それは違う。神よ、違うからね?それなら何かと言うと、感謝ですよ。ありがとう、ですよ。こんなね、気の触れたような素行を取っている小生は、まあ包み隠さず言えば、この先人生において女体との縁は絶望的、と言っていいくらいな状態・状況だよね。けれど、主、あなたがライトノベルの主人公にしてくださったから、こうして手で、とまではいかなくてもボディでバストのソフトな感じを楽しめているわけです。それに感謝。海よりも深く、山よりも高い、感謝。なんてするわけねーだろ。何がラノベの主人公じゃ、ボケ。迷惑千万じゃ、タコ。舐めとったら沈めるぞ、ニート。なんてことは絶対、これっぽっちも、マジで微塵も思ってない。ああ、この感謝の気持ちをあなたに伝えられたらなぁ。お賽銭しようにも本尊がどこか知らんしなぁ。いやあ、残念。いやあ、困った。

「ほらほら正、ジャンプ、ジャンプ」

 姉貴に促されるまま目前に迫った水の山を飛び越えて着地すると、今度は奥の方へ引っ張られるような流れにバランスを崩され、何とか体勢を戻した時には次の波が迫っている。

 姉貴は笑い、優里は叫び、俺は波に揉まれながら同時に乳に揉まれた。むろん、さすがに乳を揉むことはしなかった。

 波が止まり、ようやくプールサイドまで戻って来た時には、体力的にと言うより精神的にどっと疲れていた。しかしそんな俺に構わず、姉貴と優里はすぐに俺を引っ張り、各種ウォータースライダー、流れるプール、飛び込み台、ウォーターアスレチック、ジャグジープールなどなどと引きまわす。

ようやく一通り回り終えるとすでに昼を過ぎていた。

「はー、楽しー。でもちょっと疲れたねー」

「うん、あ、あそこで何か軽く食べられそうだよ」

 優里が指さした先には机とイスを店先に並べたファストフード店のような軽食屋が数軒並んでいる。

「おお、いいね。行こ、行こ。ほら行くよ、正」

「ああ…って、引っ張るなよ」

 ずらりと並んだ店の前を行ったり来たりしながらようやくクレープ屋の前に席を見つけ、俺は面倒なので姉貴と優里にどちらかと同じものを頼んで、その席に深々と腰をかけた。見るとこの軽食屋の並びも結構混んでいて、周囲の女たちがちらちらと気を惹きたそうな視線を俺に送ってくる。普通ならば鼻の下が伸びるのを抑えがたい状況なのに、自分の命が懸っているせいでウザいことこの上ない。蹴散らしたい。

「おまたせー」

 姉貴と優里がトレーにホットドックを三つ、ラムネを三本乗せて戻ってきた。

「サンキュー」

「さあ、食べよ、食べよ」

「いただきまーす」

 思い切りかぶりつくと、動いて腹が減っていたせいか、何の変哲もないホットドックがやけに美味い。俺はそのまま餓鬼のごとく貪り食った。

「んー、おいひいねー」

「ああ、何か異様に美味いな」

「やっぱ動いた後は食べ物がおいしいよ」

 そのまま無心に頬張っていると、すぐにホットドックはなくなった。

「なーんか、こうやって三人で出かけるのって久しぶりだね」ホットドックを食べ終え、ラムネを飲みながら姉貴はぼそりと言った。

「そんなに三人で出かけてたっけ?私、あんまり三人で出かけた記憶ってないや」

「優里は幼かったからね。でも昔は結構一緒に行動してたんだよ」

 確かに俺にもそんな記憶がある。そのせいか、昔から仲のいい三人姉弟、あるいは兄妹だと言われていた。ような気がする。

「そっか。でも最近はめっきりだよね。特にお兄ちゃんとは話す機会もほとんどなくなってたもん」

「それは私もだなぁ。優里とは割と話すんだけどね。なんか正は私らを避けてるような気がしてたし」

「あ、それ私も思った。特にお兄ちゃんが中二の時くらいから」

「そこんとこ、どうなの?正」

 二人は真顔でこっちを見た。

 何だかあれよあれよという間に、俺にとって気まずい流れになっていた。しかし、こんなところで今更気まずさを味わうのもバカらしい。

「それはあれだよ、何と言っても俺は中二の時、教室でウンコ漏らしたからね。そんな俺なんかと仲良し家族してたら、姉貴も優里も不利益を被るだろうと思ってな」

 二人ともポカーンとした表情でこっちを見ていた。

「あんた、本当にそんなこと気にしてたの?呆れた」

「お兄ちゃん、前にも言ったけど、気にし過ぎだよ。そんな気を遣って避けられても私は嬉しくないよ。今だって、こうやってお兄ちゃんとウォーターパークに来られてすごく良かったって思ってるし」

「そうそう。優里の言う通りだね。いつまでも詰まらないこと気にしてないで、さっさとそんなことは忘れなさいな」

 ぐぬ…またか。神との契約を結んだ日もこうであった。主人公補正の力だという事実を忘れさせるほどに心地よい言葉。もう見えない壁と戦わなくても大丈夫だという、甘い囁き。ありがちな家族再生の物語。

 しかし、決して屈してはならない。この言葉は全て主人公補正が言わせている言葉。よしんば、これが姉貴と優里の本心だったとしても、この世のその他大勢は見えない壁で囲った社会で偽りの調和を貪っているのだ。それ見過ごしていいんですか?いいわけない!

「いやでもね、下痢便だよ?ビッチビチの」甘い罠への抵抗を意識し過ぎていたら、自分でも意味の分からない言い訳になった。

「いや、柔らかくても硬くても関係ないでしょ」

「そうだよ。それにお兄ちゃん、あれからよく、その、教室とかで変なことするっていう話も聞くけど、皆だってそのことについては何とも思ってないと思うよ。漏らした次の日だって、特に誰からも何も言われなかったんでしょ?」

 誰からも何も言われなかったのが、誰もが何とも思っている証拠なんだよ。何とも思っていなければ、平然とネタにするだろう。そのくらいのことをしたのだから。しかし、これを優里に力説しても分からんだろうな。というか、誰にも分からんかも知れん。

 それにしても、何故か今の俺には見えない壁と戦う者として最も持ってはいけない、悲しませたくないという気持ちがこの二人に対して湧いて来ている。こんなことでは、どんどんと凡俗極まる空気に嵌り込んで窒息して死ぬる。ここは一つ話題を逸らすか。

 そう思って口を開きかけた途端、俺は驚くべきものを見た。

 こっちを向いている姉貴と優里の間から見えた隣の隣の店の前のイスに、光輝とほのかが座っている。様子からして、こちらを窺っているようだ。

 俺が気づいたことに気がついた光輝が親指を上げて気味の悪い笑みを浮かべた。

「まあ、そうかもな。俺の方でも最近そんなんかもなって考え始めてたとこだ。ちょっとトイレ行ってくるわ」俺は随分と適当なことを言って立ち上がった。

「それなら、いいんだけど…」

「ま、せっかくこんなとこ来たんだから暗い話ばっかりしてもしょうがない。デザート食べたいな。ちょうどすぐそこにクレープ屋あるし。優里も食べる?」

「うん。お兄ちゃんは?」

「俺はいいよ」そう言って俺はトイレへ向かう振りをして、ずんずんと光輝たちのところへ向かっていった。

 近くまで行くと、光輝とほのかは何食わぬ顔で焼きそばを食べている。ふざけやがって、この粘着野郎どもがっ。と思いつつ、俺も何食わぬ顔で一つ余っていたイスに着席。

「おい、何で来てるんだよ?」

「好奇心ですよ。八代さんが今度はどんなことをしてくれるのか。それを見に来たんです。八代さんの奇行が僕にとっては、どんなテレビ番組や自然現象や世界遺産よりも見ていて楽しいし、貴重ですからね。生で見なきゃ損なんです」

「気持ち悪いんだよ、お前は。それで何でお前もいるんだよ」俺は素知らぬふりを決め込んで焼きそばを食べているほのかの方を見た。

「私は、あれよ、ちょっとプールに入りたくなったから」

「八代さんが行くことが分かった後、即チケット取ってましたよね」

「そ、そそそれは、偶然が、タイミングで、一致したのよ」

「ちゃんと日本語でしゃべってくださいよ。八代さんに会いに来たことは八代さんもすでに先刻承知ですから」

「何でそうなるの!」

 ほのかの大声で周りの数人がこっちを振り返った。

「静かにしてください。それより…」光輝はずいと俺の方に乗り出してきた。「八代さん、何なんですか、あのザマは?」

「ん?何のことだよ?」

「何のことじゃないですよ。あなた、どんだけ姉と妹に甘いんですか。一切の常識的対応を愚弄して、あらゆる調和に唾を吐き、空気を読むという行為の全てを嘲笑ってきたあなたが何ですか、あのハーレム系ラブコメの主人公みたいな態度。僕は幻滅しましたよ」

 こんな気味の悪い幽霊染みた奴にいくら幻滅されようと痛くも痒くもないが、言っていることが一々正鵠を射ているので言い返せない。言い返せないので苛ついてくる。くあぁ、ムカつく。打とうかな。

「そ、それについては私も驚いたわね。異性の兄妹がこの年でカップルみたいに仲良く一緒に遊ぶなんて変よ」

「それを言うなら異性の幼馴染でも変ですけどね」

「何でよ」

「だってそうじゃないですか。付き合ってるならまだしも、幼馴染だからという理由で高校生の男女が遊んだりしないですよ、普通」

「でも、幼馴染は血縁じゃないし…」

「で、八代さん。どうなんですか?」

 ほのかは言い訳がましくぼそぼそと小声でしゃべり続けそのまま半ば自分の世界に入っていったので、光輝はそれを無視して話を戻した。

「何が?」

「あの情けない態度ですよ。僕の認めた八代さんはあんなんじゃない」

「知るか。お前に認められようが認められなかろうがどうでもいいわ。いやむしろ、積極的に認められたくないかもしれん」

「ひどいこと仰る。なら、八代さん自身はどうなんですか?あんなことをしていて自己矛盾に陥らないんですか?」

「無いな。俺はいつだってその時の自分が正しいことにしている」

「うわ。僕に負けず劣らずのクズじゃないですか」

「どこがだ。人間皆そんなものだろ。一貫性なんて幻想。常に手のひらを返しながら、人は生きていくんだよ」

「けど最低限の一貫性は必要だと思います」

「あるだろうが。自分が一番正しいという一貫性が」

「何ですか、それ。そんなの誰だって」

「こら!」

 ほのかが強い口調で光輝の言葉を遮った。

「何、無視してくれちゃってんのよ」

「相手にする必要ありましたか?」

 ほのかはキッと光輝を睨みつけたが、すぐに腕を組んでイスにもたれかかり、大きく息を吐いた。

「あんた、私が陰険部の部室の場所を知っていることを忘れてない?別に私は黙っている義理はないんだけど」

「それなら僕は海野さんが八代さんにべた惚れであることを黙ってる義理が」

「あー!」

 光輝の言葉が今度は背後からの声で遮られた。気づくと、ほのかは口を半開きにした驚愕の表情で俺と光輝の背後を見つめたまま固まっている。何かと思って振りむこうとした瞬間、俺たちの後ろからほのかの方へ人影が飛び出した。

「海野さんじゃん。奇遇だね」

 赤い水着の女がほのかに声をかけている。高校の友人だろうか。

「ねぇ、何してるの?って泳ぎに来てるに決まってるよね。あはは。一緒に来てるのはもしかして彼氏?」訊きながら女はちらりと光輝の方を見た。「あはは。すっごい冴えない顔してるけど」

「顔面バイオハザード女に言われたくないですね」

 光輝は憮然として言い返したが、女は無視した。確かに女の顔は別段可愛くはないものの、バイオハザードと形容するほどに悲惨でもなかったので、女は光輝を見下して無視したのだろう。ていうか、バイオハザードな顔面ってどんなだ。

「それとももう一人の方?それはないか。あんな素敵な人は海野さんとは釣り合わないもんね。あはは」

 随分ズケズケと物を言う奴だな。というか、俺が言うのも難だけど率直に言って嫌な奴だな。友達選びのセンスがまるでない。

 しかし、ほのかの方を見ると俯いたまま両手を合わせて机の上に乗せた姿勢で固まっている。明らかに友達に偶然会ったリアクションではない。よく見ると、合わせた手は微かに震えているようだ。

 何となく関係の予想はついたが、取りあえず訊いてみるのが早そうだね、こりゃ。

「ねぇねぇ、黙ってないで返事してよ」

「君、ほのかの知り合い?」

「お、声かけられちった。そうでーす。海野さんと同じクラスの牧ヶ谷園香まきがやそのかだよ。でも、知り合いってか、唯一の友達?みたいな?あはは。そんな感じ」

 このテンション、うぜぇ…

「唯一?」

「そうそう。だって、海野さんめっちゃいじめられてるんだもん。あはは」

 ほのかの体かピクリと微かに動いた。

「へぇ、初耳だ」

「そうなんだ。でもね、半分八代くんのせいでもあるんだよ」

「俺のこと知ってるの?」ま、今や俺のことを知らないJKなど存在しないだろうけど、敢えて訊いてやるよ。訊いてこますよ。

「当たり前じゃん。ユーチューブに動画あるし。あはは」

「で、何で俺のせいなん?」

「だって八代くん、海野さんと幼馴染だからって一緒に登校とかしてるじゃん?これ見よがしに。別に八代くんの彼女でもないのにそういう見せびらかしやってるから、八代くん好きな女の子たちが怒っちゃってね。もう連日すごいいじめ」

 ということは、神と契約を結んだ次の日からか。部室ではそんなことおくびにも出していなかったが…

「教科書とかノートを全部トイレの便器の中に捨てられたり、まだ食べてない弁当箱の中に砂を入れられたり、靴とかイスとか制服のスカート隠されたり、雑巾絞った汚い水ぶっかけられたり、体操着とかブラウスにマジックで落書きされたり、ケータイのアドレスとか番号をネットで流されたり、ね。あはは。とにかく凄絶な日常送っている海野さんの心の支えが友達である私ってわけ。私だけってわけ」

 なるほど、こいつが主犯というわけか。それにしてもさすがに胸糞悪くなってきた。

 ほのかの方を見ると、今や手だけでなく頭や肩のあたりもはっきりと震えている。俯いていて分からないが、唇でも噛んでいるのかもしれない。

 だが、しかし。

 それは俺には関係ない。誰がいじめられようと知るかっ。ていうか、俺もいじめられているようなもんだしね。男どもから。こっちが何をした覚えも無いのにいじめてくるとか余程根性の拗けた三下どもだよ、まったく。とまあ、それはとにかく今はこの、ほのかが絶対何も言えなくて牧ヶ谷が自分に都合のいいことを言い放題という膠着しきった空気がダメである。ほのかのいじめなどは知らないけど、とにかくこれを壊さないことには見えない壁が厚くなるばかりだ。それは、やってらんねぇよ。見過ごせねぇよ。

「マジか。じゃあ、幼馴染が世話になってるんだな。ありがとう」

「いえいえ。友達だもん。当然っしょ」

「お前、いい奴だな。俺、お前みたいな女が好きだわ」俺はイスから立ち上がって、牧ヶ谷に近づきながら言った。

「え…」へらへらしていた牧ヶ谷の顔が急に恥じらいを持った乙女の顔になる。「本当?」

 ほのかが俯けていた顔を上げた。涙目になって絶望的な顔をしている。光輝は一瞬ポカンとしたが、すぐに俺の狙いを察して期待ににやつく口を手で隠した。

「ああ、もちろん」

「あの、それじゃあ…実は私も八代くんのこと好き、なんだ。だから、その、良かったら私と付き合ってくれないかな?」

 さて、ここまでは予想通りの展開だね、気味悪いくらい。ほのかへの嫌がらせが急に告白タイムになっただけでも相当な見えない壁への打撃である。だが、仕上げはここから。さてさて、どのようにしてこのバカみたいに甘ったるい空気、この見えない壁を壊してくれようか…

 次の一手に考えを巡らせていると、それがちょうどよく雰囲気を高めるタメになる。牧ヶ谷は俯いて返事を待っていたので、俺は前方の虚空を見つめて最も効果的な展開を考えていた。傍から見たら告白どころか、到底二人がコミュニケーションを取っているとは思えないだろう。

 方針を決めた俺は、顔をゆっくりと下へ向けた。

 が、なんと。

 驚くべきことに、そこには後わずか二、三センチにまで迫った牧ヶ谷のキス顔があった。

 俺の中で時間が止まった。

 それまでの俺の思考は完全に停止し、代わりに来し方十七年の走馬灯がものすごい勢いで流れ出す。平凡であったウンコを漏らすまでの走馬灯は手抜きの映画みたくあっという間に終わり、ウンコを漏らしてからの死闘の日々は極限まで時間的に圧縮されて一気に眼前に展開した。

 圧巻であった。これだけの意味のないことを、見えない壁という、あるかないかも証明できないものを壊すためにやってきたのかと思うと、何かもう、それはそれは言葉にならない気持ちだった。

 ただのバカやんけ、とも言えるし、メンタル強いな、とも言えるし、おつかれさま、とも言えた。

 そして戦いの日々の走馬灯も消えた瞬間、次に現れたのはただの文字だった。


『人・生・終・了』


 このキスで人生は終わってしまう。ああ、短かったな、俺の人生。結局、見えない壁との戦いに俺は負けたのか…


 そんなことでいいんですか?


 諦観に支配されかけた俺の心に響いてきたのは、俺が幾度となく他人に呼びかけてきた言葉だった。

 まだキスをしてしまった訳でもないのにもう諦める。そんなことでいいんですか?よしんばキスをしてしまったとしても、それが神の決めたルールだからって諦める。そんなことでいいんですか?見えない壁と戦っているくせにルールなんて決まり切ったものに従う。そんなことでいいんですか?

 いいわけない!

 俺はカッと目を開いた。

 人生終了のキスまで残り一センチ。

 俺はまるでそれが反射運動であるかのように一瞬にして、上体を後ろへ反らしながら右脚を引き、牧ヶ谷に対して半身の姿勢を取った。

 そして。

「ふざけんじゃねぇぞおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!くっそ野郎があああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 渾身の力を込めた右ストレート。

 それは寸分の狂いもなく牧ヶ谷の左頬に直撃した。

 牧ヶ谷は飛んだ。

 クルクルと回転しながら飛んですぐ後ろのテーブルに乗っていたカレーライスの上に背中から着地して、そのままテーブルをなぎ倒してむこう側へ倒れ込んだ。

 その倒壊の大音響が鳴り響いた後、少し遅れて周囲から悲鳴が上がる。

 俺の頭に上った血はまったく下りる気配がなかった。顔が熱く、耳の奥に心臓の拍動が聞こえる。ああ、怒れる。マジで、怒れる。怒れ過ぎてイカれる。なんてギャグぶっこいている間にも血が上って、頭が爆ぜる。

「バカか、てめぇ!危うく死ぬところだったじゃねぇか!」

 俺は光輝の焼きそばを掴んで、倒れたテーブルの向こうに伸びている牧ヶ谷の顔に思い切り投げつけた。

「ああ、僕の焼きそば…」

「何考えてんだお前!調子乗ってんじゃねぇぞ!」

 隣のテーブルのお好み焼きも掴んで投げつけた。

「おい、ちょっと…」

「何とか言ってみろ、こら!ケツについたカレーがウンコみたいになってんぞ!」

「八代さん、落ち着いて。ぐふふ、さすがにヤバい」

 ヤバいと言う割に、そして自分の焼きそばを放られたにもかかわらず、普通に笑っている光輝に肩を揺すられて、俺はようやく正気に返った。見ると、牧ヶ谷は焼きそばとお好み焼きに顔を覆われ、体のところどころにカレーがべったりと付いている。

 それを確認して、俺はようやく事の重大さに考えが及んだ。

 これは非常にあかん事態かもしれない…いや待てよ、あかん事態だからなんだと言うのだろうか。そもそも俺はいつも積極的にあかん事態を作り出しているではないか。さすがに女の顔面をグーパンしたのは初めてであるが、見えない壁と戦ってきたこれまでの経験からすればこれが特別とも言えないしね。ははは。牧ヶ谷とかいう女には悪いけど。それにむしろ、ここで窮地にびくびくしていたらせっかく壊した見えない壁が復活してしまう。ヤバいとか考えてビビっている場合ではない。

 俺はすぐに開き直った。

 気づけば辺りはしんと静まり返っていた。周囲の人々はもはや騒ぎ声も上げず、息を呑んで成り行きを見守っている。

「さーて、ひと泳ぎしてくるかな」

 唖然としている野次馬たちに宣言するように高らかに言い放つと、横にいた光輝が小声で「うわぁ」と呟き、ぐふふと笑った。相変わらず楽しんでいるようだ。しかし俺が歩き出そうとした時、集団の中から男が一人、ずいと前に出てきた。

「おい、お前!何やってんだよ。どんな事情があるのか知らねぇけど、女の顔を殴るとかあり得ねぇぞ。警察呼べ、警察」

 騒ぎ出した男には見覚えがあった。さきほど姉貴や優里と泳ぎ回っている時に見かけた、彼女と思しき女と一緒にいた奴だ。確か、この男が横から必死に話しかけている間中、彼女の方はひたすら俺に見惚れていた。

「ほら係員、警察だよ、警察」男の目は復讐の喜びに爛々と輝いている。

「おいおい、事情も知らないのにやけに偏った見方してくれるな」

「何か言い訳があるのか?ええ?」男は完全に興奮しきっていて、小馬鹿にしたような口調になっている。

「当たり前だろ。その女はなぁ、俺の幼馴染を集団でいじめてたんだよ。なあ?」

 間違っていたらどうしよう、と思いながら俺はほのかの方を振り返ると、ほのかは戸惑った顔をして「え…う、うん。そうだけど…」と答えた。

「俺は許せなかった。人をいじめて楽しむ奴は元から大嫌いだったし、いじめられているのが俺の幼馴染ならなおさらだ。だから、鉄拳制裁をくれてやったんだよ」まあ、そんなこと微塵も考えてなかったけどね。ほほほ。

「いくらいじめの制裁でも暴力を行使していいわけないだろ!大体、それでお前の幼馴染は気が晴れるのかよ。お前の幼馴染はそんな性根の暗い奴なのか?」

 自分だって彼女を奪われた恨みで俺を糾弾しているくせによく言うわ。タコが。陰険部へ入部したらどうですか?

「あんたは自分がその立場でもそう言えるのか?どんなに理不尽で辛いいじめを受けても、相手に暴力を振るうのは良くないと思えるのか?そいつが他人に殴られても絶対スカッとした気持ちを覚えないと言い切れるのか?無理だろうが。少年漫画の主人公じゃないんだから、そんな聖人君子になれるはずがない。そもそも、自分をいじめた奴が殴られてるのを見て気分を良くするなんていうのは、性根が暗いことでもなんでもない、極々普通の感情だろうが。本当に性根が暗いのはいじめをしている連中なんじゃないの?そこんとこ、どう考えてんのよ?」

「だが、復讐は何も生まない」

「でも、復讐しないとストレスが生まれるけど、それは?」

「そういった日々のストレスに耐えて生きていくのが人間だ。そうしなきゃ、社会は回っていかないだろ」

 理想的な論調をいきなり現実路線に乗せて来やがった。こいつ中々面白いかも知れん。

「違うでしょ。それは他人にストレスを与える側に都合のいい理論だよね。そうしたストレスを他人に与えないように気をつけて生きていくのが人間なんじゃないの?それは理想論だ、現実には人にストレスを与える奴が少なからずいるんだよ、と思うかもしれないけど、そしたらそのストレスを与える人間を排除すればいいだけだよね。そして、そのためには暴力だって肯定されるよね。それだけのことをしたんだから。だから懲役や死刑があるんじゃないの?報復されても仕方ないことをしておきながら、復讐されても仕方ないことをしておきながら、『復讐は何も生まない』なんて澄ました顔で言っている奴はどうかと思うよ?」俺もついこの前、駅ビル騒動でやったけどね。「言わしてもらえば、そういうことを言う奴がいるから少年法みたいな歪なものが生まれて、社会の弊害になっていると思うね、俺は。まあ、それに守られている俺が言うのも難だけど、ははは」

「それじゃあ、お前が与えたその席の人へのストレスはお前が償うんだな?」

「まさか。それもこれも全部そこに伸びている女のせいですよ。そいつが俺の幼馴染をいじめなければこういうことにはならなかった。俺は悪くない。むしろ正しい」

 男の睨みがまた一段ときつくなった。

「ふざけんなよ。そんな理屈があるか。普通にお前は暴行罪なんだよ。早く警察を」

「もう止めて!」

 男の言葉は甲高い女の声に遮られた。同時に人垣を押しのけて花柄のタンキニを着た女が現れる。

「恵美、お前…」男が驚いたようにタンキニの女を見る。

「いい加減にしてよ。恥ずかしい。あんた、自分がどんだけ理不尽なこと言ってるか分かってんの?」

「おい、理不尽は明らかにむこうだろ」

「本気?」

「お前の方こそ正気か?いくら当てつけにしたって、ひどすぎるぞ」

「何でそんな考え方しかできないの?あんたって本当に自分が正しいって、無条件に信じてるんだね。呆れた。幻滅した。落胆した。がっかりした。失望した。絶望した」

 何だか知らないが、いきなり痴話喧嘩が始まった。直前までの緊張した空気はどこへやら、今は野次馬も気まずそうに俯きながらそれぞれの場所に立ったり座ったりしている。意図せずして見えない壁への連続攻撃が成立していることに俺は感動した。

「お前は一体、どっちの味方なんだよ?」

「まだ分からないの?八代くんに決まってるじゃない」

 男は俄かに言葉を失った。

「な、何で、あいつの名前を…?知り合い、なのか?」

「何でって、ユーチューブに動画投稿してるし、再生回数十億超えてるし、有名人だもん。それにカッコいいし」

 タンキニ女の発言に周囲の女どもが「うん、うん」と頷いて強く同意を示した。すると不意に気詰まりな雰囲気は一変し、周りにいた男どもは俺に向けて一斉に殺意のこもった視線を投げかけ出した。はは、単純なボンクラどもが。

「あんな奴のどこがカッコいいんだ!」

 感極まった男の裏返った声に、俺は思わず吹き出した。

「笑ってんじゃねぇよ」男は再びこっちへ顔を向けた。

 他の男どもも殺気立って「舐めてんじゃねぇぞ」「調子乗んな」などとこっちに聞こえるように呟いている。俺がそんなことで黙ると思っているのだろうか。見えない壁を作って俺を黙らすつもりなのか。ははは、おもろいやんけ。いいだろう。それならもう、その見えない壁をぶっ壊すだけ。それだけ。

「いやあ、実際俺がカッコいいから仕方ないだろ。お前らが怒ったって、それはただの嫉妬だからね。あは、あは、あははははは」

「きめぇな。天狗になってんじゃねぇぞ」

「お前がカッコいいとか何のギャグだよ」

「あり得ねぇわ」

 男どもの言葉に女どもが反応しそうになったので、俺は声を張り上げた。

「じゃあ、確認してみようか。民主主義的に。客観的に。ここにいる女性に訊きます。俺が世界で一番かっこいいと思う人挙手してくださーい。おねがいしゃーす」

 まるで事前に打ち合わせたかのように一瞬で、見渡す限り全ての女の手が挙がった。

「万里江、なんで…」

「あんな奴のどこがいいんだ?」

「おい、どういうことだよ、美穂子」

 彼氏が傍らにいる女もお構いなしに挙手したので、隣に座っている彼氏たちが驚愕している。

「うくく、くくく、はは、あーっはっはっはっはっはっはっはっは。ははは。あー、ひっひっひっひっひっひっひ」俺は大笑いしながらテーブルをバンバン叩いた。「いやあ、モテないというのは辛いですなぁ、ブサメン諸君。しかし、これが現実だ。明日からもちゃんと前を向いて生きていってくれたまえ」

 ブツっと、何かが切れるような音が聞こえた気がした。それくらい男たちの怒りが臨界を超えたのがはっきりと分かった。

 訳の分からぬ奇声を上げて俺に飛びかかろうとした男たちはしかし、それを敏感に察知していた女たちに抑え込まれた。力の差はあるものの、この場には七対三で女が多い。女たちは見事に一人残らず男を抑えていた。が、あまり長持ちはしそうにない。

「八代くん、逃げて」

「早く」

「うむ。協力感謝するよ。君たちの好感度は俺の中で確実に上がった。まあ、まだ付き合うとかそんなレベルではないけどね。とにかく上がったよ」

「八代さん、ちょっと…」

 走り出そうとすると光輝の声がした。見ると、他の男どもと同様に二人の女に抑えつけられている。俺は思わず笑った。

「モテモテじゃないか、良かったな」

「ああ、待って下さいよ」

 俺は無視して走り出した。

 十メートルほど離れると、腕力の強い者たちが女を振りほどいたようで、背後から雄叫びが聞こえてきた。

 一心に走ってどうにかウォータースライダーの階段下まで辿り着き、一呼吸おいてから階段を駆け上がる。途中で後ろを振り返ると、すでに男どもは狭い階段に殺到していた。

 何とも気持ち悪い…しかし、ようやくなりふり構わなくなったようだ。そもそも見えない壁なんぞで俺を攻撃しようという考えが甘いんじゃ、ボケが。取りあえずこれで見えない壁は木っ端微塵だな。ははは、ざまあみろ。

 例によってざまを見るべきなのは俺かもしれないが、むろん、俺には後悔も反省もない。

 ウォータースライダーは運の良いことに空いていて、滑り口に着くとすぐに滑れる状態であった。

「待ちやがれ」

「追い詰めたぞ」

 声はすぐ後ろに迫っている。

 俺は二人乗り用の小さいボードを引っ掴んで、驚く係員を尻目にスライダーへ飛び込んだ。

 コースはぐねぐねと蛇のようにうねっている。少しでも空気抵抗を減らすために、俺はボートの上で極限まで体を寝かした。すると、ぐんぐん加速していくのが楽しく、危うく追われていることを忘れそうになった。

「どこだ」

「逃がさねぇぞ」

「ほほーい」

「いーやっほう!」

 どうやら追手も半ば予想外に楽しめているらしい。

 バシャ。

 不意にスライダーが終わり、ボートがプールに突っ込んだ。俺は慌てて起き出し、手漕ぎでスライダーから離れた。

 バシャ、バシャ、バシャ。

 続々と追手もスライダーを滑り終える。

 逃げ道を探して辺りを見渡すと、なんとプールサイドは男どもによって、すでに包囲されていた。やけに本気ではないか、諸君。俺は取りあえずプール中央へと行き、ボートの上に立った。しかしボートは安定が悪く、ちょっとバランスを崩せば転覆しそうだ。

 スライダーを滑ってきた連中もプルプルと足を震わせながらボートの上に立ち、こちらへ近づいてきた。

「はは、ゲームオーバーだな」

「もう逃げられないぜ」

「神妙にしやがれ」

 くそ。確かに逃げ道はもうない。こいつらはボートで近づいて殴りかかって来る気だろう。だが、全員足元が悪いはず。せめてリーチのある武器が…あっ、そうだ。

 俺はその場で海パンを脱いで全裸になった。

「うお、何やってんだ、こいつ」

「おいおい」

 そしてボートに座り、土下座をした。

「すいません。調子に乗り過ぎてました。どうか、この全裸土下座に免じて許して下さい」

 男たちの間に異様などよめきが走った。ぼそぼそと囁き交わす声が聞こえ、しばらくしてから俺の一番近くにいた男がしゃべり出した。

「許すわけにはいかねぇな。だが、この衆人環視で全裸になる心意気は認めよう。それに免じて、全員一発ずつ殴るだけで勘弁してやる」

「分かりました。ありがとうございます」俺は海パンを握りしめたまま全裸で立ち上がった。

「うむ。では俺からだ」

 一番近い男がゆっくりとこちらに近づいてくる。

 あと少し…あと三メートル…二メートル…一メートル…今だ!

「ほあちゃー」

 パチーン。

 俺の振るった海パンが音高く、男の体に直撃した。

 衝撃で目を見開いたまま男はバランスを崩し、派手な音を立ててプールに落ちた。

「な…」

「てめぇ」

「騙しやがったな」

「何が全員一発ずつ殴るだ。理不尽過ぎなんじゃ、ボケ!悔しかったら、お前らも海パン脱いでかかってこいや」

「くっそ」

「ち、仕方なねぇな」

「覚悟しろよ」

 口々に脅し文句を吐きながら、男たちはフリチンになり始めた。

 俺はバランスを崩さないようにしながら、落ちた男の乗っていたボートを持ち上げた。落ちた男はあまり泳ぎが得意ではないのか、それともゴーグルがなくて目が開けられないからか、一散にプールサイドを目指して泳いでいる。

「海パン無双、開戦じゃあ」

 フリスビーのようにしてボートを四、五人かたまった場所へ投げると、見事一人に命中し、バランスを崩したそいつが近くの奴にぶつかり、そいつがまた他の奴に、と連鎖的にぶつかって五人ともプールに落ちた。

「ははは、ざまあみさらせ」

 しかし痛快な気分も束の間、続々とフリチンの集団がせまってきた。むろん、俺自身もフリチンであるが。

「かかれー」

「やっちまえ」

「沈めろ、沈めろ」

 先陣を切って突っ込んできた三人組に小便をお見舞いしてやると、それだけで一人が「おい、マジやめろ」と言ってバランスを崩して落ちた。もう二人の方にも平等にかかるように腰を振り、「うわ、汚ねぇ」と怯んだ隙に海パンで叩いて落とした。

 しかし、気づけば四方八方フリチンだらけである。何の地獄だ。

 迫りくる海パンヌンチャクかわし、あるいはかわしきれずに食らいながらもバランスを保ち、俺は必死に反撃した。落ちた奴が下から攻撃してきた時には、思い切って近くの敵のボートへと飛び移った。すると、お互いに全裸であるため、相手のイチモツが足に当たったりして非常に気持ち悪い。しかしそれを堪え、即座に乗っていた奴を叩き落として次の攻撃に備える。

 そんなことを繰り返しながら、もう何人落とした分からなくなった頃、俺はついに背後からの強烈な海パンでバランスを崩し、プールに落ちた。

 体中がひりひりする。フリチンの男どもが追撃を加えんと迫ってくる。

 しかし、何とも言えない清々しい気分であった。

 そこには確かに見えない壁のない、澄明な景色があった。

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