Level Ⅱ - ⅲ 日本橋の魚河岸、氷室の罠と異国饗宴
明治二十七年、四月。
東京の夜明けを切り裂くのは、夜陰の底から這い上がってきた日本橋魚河岸の、生魚と潮、そして人間の放つ剥き出しの熱気の混じり合った強烈な活気であった。
神田駿河台の洋館の二階。
小室泰六は、丁寧に糊付けされ、細く巻かれた一本の紙巻き煙草に火を点け、白く濁るアブサン(緑酒)の硝子杯の向こうから、冷淡な眼光を這わせていた。
「小室さん……! 例の、あの神保町の更地で謎の漢が引いていた拉麺屋台のログから、とんでもない裏データ(隠しプログラム)が見つかりました!」
部屋の鉄扉を蹴り開けるようにして突入してきた助手、和田進一の手には、前話の『スキリージ作戦』で男の鼻腔へ極劇薬を嗅がせ、力ずくで吐き出させた清国エージェントの極秘通信記録が握られていた。
進一は肩を激しく上下させ、泰六の机へその紙片を叩きつけた。
「奴らは、読者(あぢち堂の過激派端末)から問い合わせがあった際、高額な裏メニューとして、あの遅効性の秘毒『鶴頂紅』を仕込んだ『毒カレー』を密かに放流していました 。
そして今、その毒カレーと同じ、お上の西洋医学(医理)では絶対に検知できん希釈率のデータを使い、日本橋の魚河岸の地下中枢で、ある巨大なシステム汚染を執行しようとしています!」
泰六は、短くなった紙巻き煙草から細く白い煙を吐き出し、氷のように冷たく微笑んだ 。
「お見事だよ、進一。奴らの狙いは無差別テロではない。明日、数ヶ月後に控えた大戦(日清戦争)への我が国の命運を握る、あの英国政府の最重要特使を迎えた極秘の『割烹晩餐会(饗宴)』が神田錦町で開かれる 。
清国のエージェントどもは、その饗宴へ納品される最高級の鮮魚(食糧パケット)が集まる日本橋の魚河岸、およびその鮮度を保つための『巨大な氷室』を完全にジャックしに動いたね」
「饗宴の鮮魚を、毒で全滅させる気ですか!?」 進一が息を呑む。
「いや、魚ではない。『氷』だよ、進一」
泰六はアブサンの杯を冷淡に置き、外套を羽織った 。
「奴らは氷室の管理親方を物理消去(殺害)し、その管理鍵を強奪した。英国特使たちの魚料理を冷やすための巨大な氷の現物データの中へ、鶴頂紅の毒素を密かに凍りつかせ、饗宴の席で特使をピンポイントで毒殺(物理消去)する気だ。
日本の警備下で英国の重臣が死ねば、のちの日英同盟への外交回線は根底からクラッシュ(システムダウン)し、我が国は完全な孤立無援と化す。一秒の遅れも許されん。魚河岸の氷室へ向かうぞ」
夜明け前の日本橋魚河岸。
何百もの魚船がひしめき、生魚の悪臭と怒号の声が飛び交う、帝都東京で最も巨大な食糧インフラの中枢。
その最奥に建つ、全国から運ばれてきた氷塊を収める国営の巨大な「氷室」。
重い鉄扉を抉じ開けて突入した瞬間、零下を回る冷気と、工作員が仕掛けた「排水溝の凍結クラッシュ(氷室が解けた泥水で満たされるバグ)」による、氷水の激流が足元を襲った。
「うわあっ!?」
滑る氷の床の上で足を取られ、激流のなかに飲み込まれそうになった進一の腕を、超人的な速度で伸ばされた細い手ががっちりとホールド(救出)した。
小室泰六であった。
泰六の肉体には、かつてお茶ノ水の深淵から生還したあと、「房総の漁師の叔父の家で大人しく網を引いていた数ヶ月」の間に鍛え上げられた、あの外洋の荒波をも泳ぎ抜く圧倒的な水泳能力(肉体インフラ)が100%完全に同期していたのである 。
泰六の足腰は、氷の激流のなかにあっても、鉄柱のように一寸も揺らがなかった。
「足元ではなく、論理を走査しなさい、進一。高額な裏メニューのインクの匂いは、すぐそこだ」
氷室の最奥、英国特使へ運ばれるはずの「最高級の鯛の木箱」の周囲へ、鶴頂紅の毒氷を仕込んでいた清国の工作員(財閥の寝返り組)たち 。
彼らが探偵の侵入に気づき、一斉に異国製の短刀を抜き放った。
「そこまでだ、清国のネットワークの残党ども。お前たちの不具合は、すべて私がデバッグした」
「殺せ!」
巨漢の工作員が突っ込んでくるよりも早く、泰六は漁師町で仕込まれたあの「強靭な相撲の足腰(実戦格闘コード)」を凍った床の上で爆発させた 。
滑る氷の上でありながら体軸を寸分もぶらさず、泰六の烈しい掌打が工作員の胸板を物理的に粉砕。ズドン、と硬質な衝撃音が氷室に響き、工作員はそのまま巨大な氷塊へと叩きつけられ、システムを強制終了(一撃KO)されたように泥水の中へと崩れ落ちた。
進一もまた、最新のブリーフケースを盾に、背後の内通者を合気の手際で泥水の中へと組み伏せた。
高級鮮魚が饗宴のテーブルへと発送されるまで、あと三分。
泰六は、寒々とした氷室の中、工作員が隠匿していた「毒カレーの問い合わせデータ(スパイスの調合比率)」を脳内で逆計算した。
「教授の残党どもは、カレーの持つ真の防壁を忘れている」
泰六は冷酷に笑った。「奴らが放流していたあの高額裏メニューの毒カレーは、スパイスの強い香りで鶴頂紅の金属臭を偽装していたが、神保町のあの『西洋伽哩』に含まれるウコンや丁字の成分そのものが、胃袋のなかでその鶴頂紅の毒素を100%完全に中和・相殺する最高の対抗パッチ(解毒剤)なのだよ」
泰六はその解毒の数式を、お上の警察(検事正)のインフラへと即座に伝えた。
饗宴の当日。神田錦町の高級公館。
張り詰めた空気のなか、英国特使と青井総理ら閣僚の前へ、日本橋の氷で冷やされた高級鮮魚の料理が並べられていく。路地裏から日英の破滅を今か今かとニヤニヤしながら待っていた清国の工作員たち。
しかし、何事もなかったかのように平然と最高級の料理を平らげ、冷酷な眼光でこちらを睨みつける英国特使と青井総理たちの姿に、工作員はシステムの不具合を察知して愕然とした。泰六の指示によって起動した検事正が、事前に特使とすべての閣僚へ「神保町のカレー」を隠密裏に配給し、彼らの胃袋のセキュリティ防壁を100%完璧に固めていたからである。
「動くな! お上の正義の規律に基づき、国際条約の破壊を謀った売国奴どもを公式に逮捕する!!」
形勢逆転の瞬間に、検事正率いる抜刀隊が日本橋の魚河岸の残党の隠れ家、および公館の路地裏へ電撃突入。
清国の工作員たちをその場で一網打尽に拘束した 。
宿敵の遺産を利用した最凶の外交ハッキングシステムは、神保町のカレーのインフラによって水際で完全に防御されたのである 。
再び、静まり返った神田駿河台の洋館の二階。
泰六は、新しい紙巻き煙草に火を点けた 。
「奴らは歴史の闇の毒(鶴頂紅)を使い、高額な裏メニューのデータで食糧インフラをハッキングしにきたが、カレーの持つセキュリティコード(ウコン)までは計算できていなかったな、進一」
「全くです、小室さん。……おかげで、神保町はますますカレーの匂いで満ちていきそうですがね」
進一の軽口に、泰六はフッと冷たく笑い、紙巻き煙草を燻らせた 。
この、明治二十七年四月の国家の命運を分けた食糧汚染事件の全容もまた、お上の都合によって公式の正史からは完全に消去される 。
そして後日、和田進一の筆によって、ただの『日本橋の魚河岸 』という嘘の盾をまとって、読者たちへと放流されていくが、神田の夜風のなかに、漂い続けるのであった。




