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『毒入り伽哩(カレー)』別version - 神田川落下からの、小室泰六(SHERLOCK)の帰還  作者: 東曌


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Level Ⅱ - ⅱ 新橋の深夜便、暗黒の電信と弾薬列車の算法

明治二十七年、三月。


東京の夜の底を支配するのは、春の重い泥を孕んだ霧と、至る所で敷設が始まった電信線の吐き出す、かすかな静電気のノイズであった。


神田駿河台の洋館の二階。小室泰六(こむろたいろく)は、丁寧に糊付けされ、細く巻かれた一本の紙巻き煙草(シガレット)に火を点け、その乾いた煙の向こうで、硝子杯(ガラスはい)に揺れる白く濁ったアブサン(緑酒)を冷淡に見つめていた。


「――小室殿! 一刻(二時間)前に横浜港を発った陸軍省行きの『特別弾薬貨物列車』の現在位置が、新橋の手前で一分ごとに数秒ずつ遅れるという奇妙な同期ズレ(バグ)を起こしている!」


部屋の扉を力任せに押し開けて飛び込んできたのは、司法省の検事正(逮捕する側)であった。その手には、新橋停車場(新橋駅)の中央電信室から吐き出されたばかりの、不自然に乱れた電信ログ(運行記録)の紙片が握られていた。


泰六は、紙巻き煙草の細く白い煙を吐き出しながら、検事正の持ち込んだデータに冷徹な眼光を走査(スキャン)した。


「検事正、これは単なる機関車の出力不足(ノイズ)ではないよ。前話(Level Ⅱ - ⅱ)において、神田錦町の地下水道(木樋インフラ)を使った日英同盟の引き剥がしテロに失敗した清国の工作員どもが、いよいよ最後のルート権限を奪いに動いたのだ」


「何だと……!? 奴らの狙いは、また新橋駅の手前での大衝突(システムクラッシュ)か!」


検事正の脳裏には、かつて明治二十六年にあぢち堂の最高顧問(モリアーティ教授)が仕掛けた、あの新橋駅の旅客列車大衝突未遂事件の恐怖が過っていた。


「いや、奴らは同じバグ(重複コード)を二度も使わんよ、検事正。あぢち堂の残党の算法は、もっと冷酷で合理的だ」


泰六は冷淡に笑い、アブサンの杯を机に置いた 。


「今回の狙いは旅客の抹殺ではない。数ヶ月後に控えた大戦(日清戦争)の勝敗を決定づける、最新鋭の英国製大口径砲弾(軍事インフラの現物)そのものの物理強奪だ。


奴らは新橋の手前で電信信号線(運行パケット)を物理的に切断し、中央交換所へ『列車は正常に進行中』という偽の電信パケットを掴ませている。


その隙に、鉄路の転轍機(ポイント)を裏からハッキングし、弾薬列車を丸ごと横浜の寂れた港の隠し引き込み線(サンドボックス)へと強制誘導して、海の向こうへ消去(強奪)する気だ。日本の弾薬供給インフラを根底からデフォルト(消去)せんとする、時間規律の罠だよ」


「な……! そんなことをされれば、我が国の国防は開戦前に完全に機能停止(システムダウン)してしまう!」


「一秒の遅れも許されん。新橋の手前、地下の暗渠(あんきょ)へアクセスするぞ、進一」


泰六は助手、和田進一(わだしんいち)を伴い、蒸気と霧が立ち込める新橋停車場の闇の奥へと潜入した。


目指すのは、新橋の鉄路の真下を走る、江戸時代から続く暗黒の巨大排水溝(暗渠ネットワーク)。


清国のエージェントどもは、お上の警察の防壁(セキュリティ)が届かないこの地下の死角に臨時の傍受所を構築し、地上の電信線をハッキングしていた。


鉄の梯子を下りた瞬間、ゴオオオ、と耳条を圧する轟音が響いた。春の雪解けの雨水を吸い込んだ暗渠の泥水は、狂暴な激流と化して荒れ狂っていた。


「うわあっ!?」


足元をすくわれ、濁流のなかへと引きずり込まれそうになった進一の身体を、超人的な速度で伸ばされた一本の腕ががっちりとホールド(捕縛)した。

小室泰六であった。


泰六の借り物の肉体には、かつてお茶ノ水の深淵から生還したあと、「房総の漁師の叔父の家で網を引いていた数ヶ月」の間に鍛え上げられた、あの外洋の荒波をも泳ぎ抜く圧倒的な水泳能力(肉体インフラ)が刻み込まれていたのである 。泰六の足腰は、泥水の激流のなかにあっても、鉄柱のように一歩も揺らがなかった。


「足元を論理的に走査(スキャン)しなさい、進一。奴らの吐き出す数理のインクの匂いは、すぐそこだ」


排水溝の最奥、赤煉瓦の壁に臨時に設置された電信切り替え盤の前。


そこには、衣服を整える暇もなかったかのように着の身着のままで、電信線を弄んでいる財閥の残党と、清国の工作員たちの姿があった 。


「そこまでだ、清国のネットワークの端末ども。お前たちの不具合(エラー)は、すべて私がデバッグした」


「探偵め、殺せ!」


工作員の一人が、懐から異国製の短刀を抜き放ち、泰六の胸元へと突っ込んできた。


だが、泰六の肉体(インフラ)は、彼らの予測速度(処理速度)を遥かに超越していた。泰六は、漁師町で仕込まれたあの「強靭な相撲の足腰(実戦格闘コード)」を泥水の中で爆発させた。


引き金が引かれるよりも早く、泰六の掌打が工作員の顎を物理的に粉砕し、そのまま巨漢の身体を力ずくで赤煉瓦の泥壁へと叩きつけた。

ズドン、

と硬質な衝撃音が暗渠に響き、工作員はシステムを強制終了(一撃KO)されたように泥水の中へと崩れ落ちた。

進一もまた、最新の気つけ薬のケースを握りしめたまま、背後から襲いかかってきた内通者を合気の手際で組み伏せた。


「弾薬列車が横浜の隠し港へと転轍されるまで、あと三十秒。小室泰六は、短くなった紙巻き煙草を暗渠の泥水へと冷淡に踏み消しながら、工作員が固定していた真鍮製の信号レバーに手を掛けた」


「これでチェックメイトだ、清国の蜘蛛ども」


泰六は、その強靭な漁師の腕力で、レバーを力ずくで正規の位置へと引き戻した 。

同時に、工作員が流していた偽の運行規律(タイムライン)を、脳内で完全に逆計算(デバッグ)して中央交換所へと送り返した 。

ガチャン、と鉄路の分岐が正常に切り替わる硬質な音が、地上の闇の向こうから微かに響いた。


次の瞬間、最新鋭の英国製砲弾を山積みにした深夜の特別貨物列車は、強奪のタイムラインから鮮やかにリカバリーされ、東京の陸軍省の正規の鉄路へと無事に入着(生還)を果たしたのである。


「お上の正義の規律に基づき、国家インフラの破壊を謀った売国奴どもを公式に逮捕する!!」


次の瞬間、泰六の逆探知によって地下の座標を指定されていた、検事正率いる抜刀隊の警官たちが暗渠へと電撃突入。泥塗れになった清国の工作員たちを、その場で公式に現行犯逮捕した。

国家の血液となるはずだった弾薬の物流インフラは、水際で完全に相殺(デバッグ)された。


翌朝、煤煙と朝霧の引いた新橋停車場のホームの端。

泰六は、新しい紙巻き煙草に火を点け、細く白い煙を朝空へと吐き出した。


その横には、泥に汚れながらも、どこか誇らしげな眼をした助手・和田進一が立っていた。


「奴らは鉄路の軍需物流(インフラ)をハッキングしにきたが、私の肉体に刻まれた漁師町の相撲の足腰(アナログな規律)までは計算できていなかったね、進一」


「全くです、小室さん。ですが……私の変装の出番がなかったのは、計算の端数(ノイズ)ですか?」


進一の軽口に、泰六はフッと冷たく笑い、紙巻き煙草を燻らせた。

この、日本の命運を分けた深夜便のハッキング事件の全容もまた、お上の都合によって公式の正史からは完全に消去される。


そして後日、和田進一の筆によって、ただの『新橋の深夜便 』という嘘の盾(カモフラージュ)をまとって、読者たちへと放流されていくが、新橋の夜明けのホームには、最強の二人のバディの知性が、足跡として刻まれているのであった。

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