(58)狂想について オシアンいわく
――おや、また寝ぼけていたみたいだ。それにしても、やけに眠くて仕方がない。
あの運命の日、あるいはわたしも感染していたのかもしれない。この森のキテレツな万事が、ユグドラシルが眺める狂想の夢なのではないのか。
深い森の中、その木は美しい娘の姿を形づくっていた。つぐんだ口元に笑みをたたえながら、虚ろな瞳がじっとわたしを見つめていた。その夢見るようなまなざしは、大切な彼女を思い起こさせ、わたしも目を離せなかった。
彼女は一糸もまとわずに、さらされた肌はおぼろげな灰白色をしていた。豊かな髪はまばゆい金緑色の輝きを放ち、大地にまで溢れて「天使」が絡まっていた。
天使は若葉色の髪をしていた。その背中には羽の代わりに枝葉が生えており、それは手のひらのような形をしたイチジクの葉っぱだった。
天使が金緑髪からほどけ、でんぐり返りで出てきた。
「ころりん……ぼて」
たどたどしく立ち上がり、金緑髪に頭ごと手を突っこんだ。一生懸命な様子で、埋もれていた天使たちを引っぱりだす。
「うんとこしょ、どっこいしょ」
天使たちは手に手を取り、足を取り、お尻を取り、短い手足を振り回し、よちよち歩きでたわむれている。三角形のポプラの葉、チクチクしたクヌギの葉、もっさりしたモミの葉、厚いカシの葉、扇形のイチョウの葉、細っこいイチイの葉、ハート形のカツラの葉、ナミナミのブナの葉、ギザギザしたカバの葉――たくさんの天使たちが、多種多様な羽を伸ばしていた。
葉っぱ羽の天使たちは、その身に金緑髪を絡めながら彼女を取り巻いた。地に遊び、宙にたわむれ、輪をなして、そこには聖母子と天使の絵図があった。
彼女の耳元へ、イチジク羽の天使がナイショ話のそぶりを見せる。
「コショ……コショ……」
微笑が広がり、彼女は満面の笑顔になって歩みを始めた。その足どりは雲の上で遊ぶようで、ゆったりとしてたおやかだった。
彼女の向かう先には、枯れた倒木があった。いや違う、あれは――あぁ、そうだ。アトロゥか。枯れ木が服を着ているのかと思ったぞ。まったく紛らわしいヤツだ。うつぶせで草むらにホオを寄せ、薄目のまま眠っているのだろうか。
アトロゥの手がもたげられた。枯れ枝のような腕が、力なく進んでいく。
「ゆらり……ゆら……」
その手が向かっていく先には、木彫りの短剣が無造作に突き立っている。そんなアトロゥへ、天使たちが群がってきた。気づかわしげに撫でたり、ふざけてつついたり、カワイらしくまとわりつく。だが、すぐに興味を失くしてしまった。
今度は木彫りの短剣を引き抜き、天使たちは遊び始めた。短剣を目指していたアトロゥの手が、虚空をつかむ。
「……スカ」
寝そべるアトロゥの横顔に、灰白色の生足が触れる。足はとどまることなく頭へ沈み、めり込んでいく。
「あぅ……ぅ――」
かぼそいうめき声が、一瞬だけ響いて途切れた。取って代わったのは、朽ち木が砕けるような貧相な破壊音。
「ぱくぁん……ッ」
割れたズガイコツが粘液を吹き、しぼんだ目玉が線維を引き、砕けたアゴが歯をばらまき、舌が裂け、鼻がちぎれ、耳が潰れ、肉片とも木片とも知れないカケラが散らばる。
「……がちゃらん」
彼女の足跡に、シカバネが残された。むごたらしい命の痕跡へ、それをとむらうように天使が幼木を植えた。
やがて彼女は、わたしの目の前で歩みを止めた。ヒザを抱えてうずくまると、両腕を伸ばしてわたしに触れる。まぶたに、鼻に、クチビルに、無数に刻まれたホオのシワに、両手の十指が這わされる。慈しむように、嘆くように、ねっとりとした指使いがわたしを撫でた。
ふたたび彼女は立ち上がった。けれどわたしはどうしようもなく眠くて、もう自分の力では立ち上がれそうにない。そんなわたしを、彼女は支えながら起こしてくれて、わたしたちは鼻先で向かいあった。
彼女がわずかに顔をかしげる。それは幸福な時間が始まる合図だった。うん。分かっているよ、ニアヴ。わたしは瞳を閉じた。
真っ暗な世界で、彼女がわたしのクチビルに触れた。愛情とまどろみが混ざりあった、至福の心地が訪れる。優しく緩んで、むさぼるように重ねられた。
……――……
積年の塵芥が払われるようだった。まるで干ばつの荒野に水が引かれ、肥沃な土壌へと回帰するようで――季節が一巡し、わたしは温かな春に包まれた。
若草がそよぐ森の中で、青葉のようなあの日の青年が、大切な彼女の姿を見つけた。
……ん……君で……
物語が聞こえる。彼女がぼくを呼んでいる。
……に触れて……あなたに森の……なら……
ニアヴ。今、そこへ行くからね。




