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君の背中に恋をした 前編

 今思えば、あれは運命の出会いだったのかもしれない。

 そんなことを伝えたら、奏介はどんな顔をするだろう。

 恥ずかしそうに頬を染めるか。

『バーカ』と言って、笑いながら僕の髪を搔き乱すか。

 どちらであっても変わらないことがある。

 僕が幸せだということだ。




(な、なんでこんな大事な日に! こんなことが!)

 僕、物部碧斗もののべあおとにとって、今日は大事な模試の日だった。

 高校三年の夏休みが明けて、すぐに行われる全国統一模試。

 今回の模試では夏期講習の成果を発揮して、合格圏内判定をもらわなければ、ランクを下げるしかなくなる。

 なので僕はこの模試で、なんとしてでも結果を残さなければならなかったのだ。

(それなのに!)

 僕は人生最大のピンチに襲われていた。

(ああっ! 来ない! なんでバスが来ないんだ!)

 目覚ましをかけたはずのスマホは、電源プラグがうまく刺さっていなかった結果、充電されずに電池切れ。

 ふと、目を覚ましたときには、すでに出発予定時刻。

 慌てて制服に着替え、腕時計をつけて最寄りのバス停留所になんとか到着するも、予定のバスには間に合わず。

(た、たしか次のバスに乗っても、ギリギリ間に合う計算だったはず。大丈夫、大丈夫だ)

 自分を落ち着かせるように言い聞かせて、バス停に置かれたベンチで参考書を開きながら、僕は次のバスを座って待っていた。

 だが、二十分に一本のペースで来るはずの駅に向かうバスが、到着予定時刻を過ぎても来なかった。

「な、なんでだ!」

 状況を確認しようと調べたくても、スマホの電源が切れてしまっているので、確認できるのは腕時計の現在時刻のみ。

 他に待っている人もおらず、聞くこともできない。

(どうしよう、どうしよう……)

 僕がソワソワしながら腕時計と睨めっこをしていると、後ろを通り過ぎるカップルの会話が聞こえてきた。

「すぐ近くで交通事故だってさ」

「だから交通止めになってたのね。こわーい」

(う、嘘だろ……。だからバスが来ないのか……)

 僕は膝から力が抜けそうになり、すぐ近くにあった、時刻表が貼り付けてあるポールを掴んだ。

(お、終わった……。いや、諦めるわけには……。そうだ! 駅まで走れば間に合うんじゃないか?)

 駅までは、ここから走って二十分。

 そこからうまく乗り継いで電車に乗り、会場まで走っても、総合で五十分はかかる。

 腕時計を見つめて到着時刻を逆算するが、どう頑張っても試験開始時刻には間に合わなかった。

(だめか……。くそっ! 直線距離なら、それほど時間のかからない場所なのに……そうだ! なら、タクシーは?)

 僕は慌てて辺りを見渡す。

(って、こんな駅から離れた郊外の住宅街に、タクシーが通りかかることもないし、考えてみたら持ち合わせの余裕もない!)

「あーもうっ! どうしたら!」

 頭がパニックで、僕は思わず声に出して叫んでしまう。

(うう……)

 声に出したら感情が溢れて、なんだか惨めな気持ちになり、涙で視界がぼやけた。

(泣いたことなんて幼稚園以来一度もないのに……でも、どうしたら……)

 そのとき、一台の大型バイクが僕の前を、大きなエンジン音をさせながら通り過ぎていった。

(バイク……。そうだ!)

 引っ込み思案ないつもの僕だったら、決して思いつかないことが頭に浮かび、僕は慌てて走り出した。

「待って! 助けてください!」

 どんどん遠ざかっていくバイクを、僕は必死に大きく手を振って追いかけた。

「待って! お願いします! 僕を……!」

(お願いだ! 気づいてくれ!)

 エンジン音で掻き消され、僕の声なんて相手に届くはずもなかった。

 だか、それでも僕は気づいて欲しいと、必死に叫んで追いかけ続けた。

「う、嘘……」

 僕の存在に気づいたのか、バイクは突然歩道側に寄って止まった。

(や、やった!)

 止まってくれたことに安堵し、僕は足を止めて膝に手をつくと、肩で息をした。

「はぁ……はぁ……」

 おそらく、こんなに必死で走ったことは人生で一度もない。

「……くっ」

 息が乱れたままで足が震えているが、僕は奥歯を噛み締めて力を振り絞り、急いでバイクへと走り寄った。

「はぁ……はぁ……す、すみません! あ、あの……! バイクに乗せてくれませんか?」

 フルフェイスのヘルメットにライダスーツを着ていて、性別、年齢ともに不明。

 しかも初対面の人に、僕は突然何をお願いしているんだろうと思いながらも、なりふり構っている場合じゃなかった。

「お前……」

「えっ……?」

(あれ? 結構若い……?)

 昨今、若者のバイク離れが深刻で高齢化、なんてニュースを見たような気もするが、ヘルメット越しの声は若い男性だった。

 だが、フルフェイスのヘルメットは反射して僕の顔を映すだけで、相手の顔まではよく見えなかった。

 彼はバイクのエンジンを切ると、バイクから降りた。

 そして、僕の前に立った彼は、百七五センチある僕よりも少しばかり背が高かった。

「バイク、乗りたいのか?」

「は、はい! 実は、どうしても遅れるわけにはいかない模試があるんですけど、バスが来なくて……」

「それは、俺に送ってっけってことか?」

「うっ……」

(言われてみれば、すごいことを頼んでいるよな……)

 聞き返されて、どれだけ無茶で自分勝手なお願いをしているのか痛感する。

(でも、背に腹は変えられない!)

 僕は慌てて、深々と頭を下げた。

「お願いです! どうか、どうか……僕を助けてください!」

 目を瞑って頭を下げたまま彼の反応を待っていると、ガサゴソと何かを漁る音がしてきた。

(ああ、ダメか……)

 立ち去る準備を始めたのだと僕は判断して、肩を落としながら顔を上げる。

「ほらよっ」

「えっ……」

 顔を上げた僕に、彼は頭だけを隠す小さなヘルメットを差し出してくれていた。

「眼鏡は落としたら危ねーから、外してカバンに突っ込んどけよ」

「えっ? えっ? メガネ?」

 状況が理解できず、僕は手渡されたヘルメットと彼を交互に見比べてしまう。

「どうすんだ? 乗るのか? 乗らないのか?」

「の、乗ります! あ、ありがとうございます!」

(助かった!)

 あまりに嬉しくて、僕は思いっきり顔を緩めて安堵の笑みを溢してしまう。

「……! ほ、ほら。乗るならさっさと準備しろよ。置いてくぞ」

「は、はい!」

 ヘルメットを僕は慌てて頭に乗せて、顎の下でベルトを止めた。

 そして、言われた通りにメガネを外すと、カバンからメガネケースを取り出して仕舞い、カバンの奥へと押し込んだ。

「バイク乗るの、初めてか?」

「は、はい!」

「それじゃあ、そこに足かけて跨ったら俺に掴まれ。すぐ出発するぞ」

「はい!」

 彼に言われた場所へ、メガネがなくてぼやける視界のまま足をかけると、僕はバイクの後ろに跨った。

(うわー、結構高いんだ)

 思っていたよりも座る位置が高く、なんだかドキドキしてしまう。

 それに、見慣れた近所の景色が、ぼやける視界でさらに少し違う世界に思えた。

 そんなことを考えていると、彼もバイクに跨り、ハンドルを握った。

「乗ったんだったら、さっさと俺に掴まれ。振り落とされるぞ」

「は、はい!」

(掴まるってどこを? いや、なにかで見たことあるような……。たしか、自転車の後ろに乗るときは、こんな感じだったような……)

 僕は迷った結果、遠慮がちに彼のライダースーツの両脇腹辺りを、指先でつまむように握った。

「ばーか! そんなんじゃ落ちるぞ。しっかり俺に掴まれ」

「えっ、ええっ!」

 急に腕を掴まれて引っ張られると、僕は彼を後ろから抱き締めるような形にさせられた。

 誰かに抱きついたことなんて子どものとき以来の僕は、途端に心臓の鼓動が跳ね上がってしまう。

(う、うわ! ど、ど、ど、どうしたら!)

「あ、あの……!」

「どこにいけばいいんだ?」

「えっ……?」

「会場はどこなんだ?」

「え、えっと……栄登大学で!」

「よし。飛ばせば三十分ってとこだな。落ちるのだけは勘弁しろよ」

 彼は鍵を捻ってエンジンをかけると、エンジンの低い音が耳と体に響く。

(う、うわぁ)

 慣れない感覚から不安に襲われ、僕は彼を後ろから抱きしめる腕に力を込めてしまう。

「行くぞ」

 彼がハンドルを握って捻ると、バイクは一段と大きな音を出して、そのまま勢いよく走り出した。

(こ、怖い……)

 バイクに乗るのは初めてで、風を切る感覚と、全身で感じるスピードに僕は身震いしてしまう。

 感覚としては、子どものときに連れて行ってもらった、遊園地の子ども用ジェットコースターに近かった。

(考えてみたら僕ってあれ以来、絶叫系とか乗ってない。あ、あれ? 実はこういう乗り物向いてないんじゃ……)

「うう……」

 恐怖からか、貫通するように感じる風のせいなのか、僕は腕に鳥肌が立つのを感じた。

 そのとき、信号待ちでバイクにブレーキがかかったため、僕は反動で彼の背中に顔をぶつけてしまう。

(あっ……)

 すると、彼の背中から微かに心音を感じた。

 バイクのエンジン音が一番大きく聞こえるはずなのに、彼の心音は服越しでもはっきりと聞こえた。

(僕と同じだ……)

 少しだけ速い心臓の音。

(落ち着く……)

 僕は彼の背中に耳を押し付けるようにして、彼の心音に耳を傾けた。

 その心音に耳を傾けるうちに、僕の恐怖心は自然と和らいでいった。



 

「着いたぞ」

「えっ……?」

 彼に声をかけられて、僕はやっと模試会場である大学の入口へ到着したことに気が付いた。

 道路脇にバイクを停めてくれたため、僕はバイクから降りると、慌ててヘルメットを外して彼に返した。

「あ、ありがとうございます! この御恩は……!」

『模試受験者は速やかに会場入りしてくださーい。まもなく受付終了時刻でーす』

 大学の門前に立っていた係員の人が、拡声器を使って呼びかけると、会場に向かっていた人たちが一斉に駆け足となった。

「あっ……」

(僕も行かないと……けど……)

 受付の時刻が迫っていることはわかっていたが、ここまでしてもらって何もお礼ができないのも申し訳なかった。

(な、なにかお礼できるもの……。そうだ、たしかポケットに……あ、あった!)

 僕は制服のポケットを漁ると、未開封の眠気覚まし用タブレットを取り出して、彼に差し出した。

(いや、こんなもの貰っても困るだけだろ!)

 まだ気が動転していて冷静な判断が出来ていないことに気付いた僕は、差し出した手を慌てて引っ込めようとする。

「す、すみません。こんなもの、もらっても困るだけ……」

(えっ……)

 だが、引っ込めようとした手は彼に掴まれてしまった。

「くれよ。そーれ」

「えっ? あ、はい……」

 彼は僕を掴んでいた手を離すと、僕に手のひらを広げてみせた。

「ほんとにごめんなさい。いつか必ず……」

 広げられた手のひらに、僕は眠気覚まし用タブレットを置いた。

 すると、彼はタブレットをライダースーツのポケットにしまうと、フルフェイスのヘルメットのシールドを開けた。

(あっ……)

 初めて目と目が合った。

 目元と鼻の一部しか見えなかったが、それだけでも顔が整っているのがよくわかった。

(なんて……)

 僕は彼から目が離せなくなった。

 彼の目は僕には眩しいほど輝いて見えた。

 そして、引き込まれそうなほど優しく笑っていた。

「明日、会いに行くから」

「えっ……」

 いつのまにか肩を掴まれながら顔を近づけらると、耳元でそっと囁かれた。

(明日……? それって……)

『そこのキミ! 受付時間終了しちゃうよ! 早く中に入りなさい』

 係りの人が親切に僕へと呼びかけてくれて、僕はハッと我に返った。

「じゃあな」

 すると、彼はヘルメットのシールドを閉じてエンジンをかけると、あっという間に走り去ってしまった。

「一体……。って、ぼーっとしてる場合じゃない!」

 慌てて僕は、大学の模試会場へと走って向かった。

 

 

 

(なんて、いい人だったんだろう)

 僕はいつも通りバスを使って駅へと向かい、そこから電車に乗って学校に到着した。

 誰もいない教室に一番乗りするのが昔から日課の僕は、窓際の自分の席に座って、校庭を見つめながら昨日のことを考えた。

『明日会いに行くから』

 彼に耳元で囁かれた言葉が、昨日から何度頭の中で繰り返されただろうか。

 模試の最中は必死に集中することで忘れることができたが、終わってからは彼のことで頭がいっぱいだった。

(いつ、どこで会いに来てくれるんだろう)

 僕は朝、家を出てから、ずっと周りをキョロキョロ見渡してしまっている。

 必需品の参考書も手に持ってはいるが、開くことさえないほどに。

(はぁー……。おかげで僕は、周りから不審者に見られたような気がするよ)

 だが、そんなことはどうでもいいと思うほど、僕は胸を高鳴らせながら、いつ声をかけられるのだろうと心待ちにしていた。

 しかし、僕が学校に到着するまでの間、彼が現れることは残念ながらなかった。

「あーあ……もう一度会いたかったな……」

 僕は誰もいない教室で独り言を呟くと、机に腕を伸ばして突っ伏し、顔を埋めた。

(社交辞令……いや、いくら社交辞令っといっても、会いに行くとは言わないだろ……)

 ピンチを救ってくれたヒーローに、もう一度会いたい。

 こんなふうに胸がソワソワするのは、まるで映画のヒロインになったような気分だった。

(やっぱり、もう会えないのか……。いや、朝とは言われてないんだし、もしかしたら帰りに! でも……)

 僕は深い溜め息をつくと、教室のドアを勢いよく開ける音がした。

「おっと……」

 誰かが登校してきたと、僕は突っ伏していた身体を慌てて起き上がらせると、いつものように机の中から参考書を取り出した。

 そして、机の上に広げて俯き気味に見つめた。

 これがいつもの僕のスタイルだ。

 話しかけるなオーラを全開にして、挨拶なんてさせない。

(そう。されないじゃなくて、させないんだ)

 誰に言い訳するわけでもないのに、ずっとこんなことを僕は続けている。

(自分で言っていて情けないと思うが、仕方ない。これこそが、自分が傷つかないための処世術だ)

 高校三年の秋にも関わらず、僕には友だちと言える存在は一人もいない。

 だって、作る必要性を感じなかったから。

 この県内屈指の進学校に入学したのは、良い大学に行くためだ。

 勉強以外、何も必要ない。

 そうやって僕は今まで過ごしてきた。

(両親は好きなところにいけば良いと言ってくれるが、選択肢は多いに越したことはない。僕みたいに、夢も決まっていない人間は特に)

「……あっ!」

(えっ……!)

 何かを見つけたような声が聞こえ、僕は思わず参考書から顔を上げて、声のした方に顔を向けてしまう。

 すると、入口に立っていた人物とバッチリ目が合ってしまった。

 入口の扉を開けて立っていた声の主は、クラスメイトではなく、隣のクラスの有名人だった。

(あれは……たしか丹野たんのだったか? 一体うちのクラスに何の用事だ? しかも、こんな朝早く……。ヤンキーは遅刻ギリギリがお決まりじゃないのか?)

 見た目で勝手なイメージを作り、先入観を持つのはよくないと分かっている。

 だが、隣のクラスの丹野は、僕とは真逆の世界を生きるヤツだ。

 校則を無視した金髪にピアス。

 ネクタイはせずにワイシャツのボタンは全開で、いつも派手なTシャツを中に着ている。

 一匹狼のような風貌だが、慕う友人が多いようで、いつも誰かが一緒にいる。

 苦手意識を持っているだけなので申し訳ないのだが、関わりたくない人物であるのは変わりなかった。

(誰か探しに来たのか? 生憎こんな早くに登校しているのなんて僕くらいだぞ。ったく)

 僕には関係ないと呆れるように肩を竦めて、視線を参考書に戻した。

「おい……」

「えっ……!」

(ぼ、僕?)

 慌ててもう一度顔を上げると、丹野はいつのまにか僕の横に立っていた。

(えっ、えっ、僕に用? 一体何かしたか? まさか学校でカツアゲ?)

 間近で見る丹野は長身でガタイも良く、どう頑張っても僕が戦って勝てそうにはなかった。

 だが、負けてはいられないと、僕は丹野を見上げるように睨みつけた。

「お、お金ならないぞ! 校則に金銭の持参は最低限と書かれているだろ?」

「は? 何言ってんだよ。変なヤツだなー」

 丹野は笑いながら僕の前の席に、後ろ向きで跨って座った。

(ん……? なんだかこの声、聞き覚えがあるような……)

 すると、丹野はワイシャツの胸ポケットから何かを取り出した。

 咄嗟に僕はタバコかと思ったが、取り出したのは眠気覚まし用のダブレットだった。

「これのおかげでここまで辿りつけたわー。マジ助かった」

 そう言って、丹野はタブレットケースから粒を二つほど取り出すと口に放り込んだ。

「ん……?」

 僕は丹野が手にしているタブレットに見覚えがあり、ある可能性に気が付いた。

「も、もしかして……」

「会いに行くって、言っただろ?」

 楽しそうに、でも優しく笑うその目元は、まさに昨日見た彼と同一人物だった。




「模試の結果はどうだったんだ?」

「模試って……えっ! えっ? う、嘘だろ! 昨日助けてくれたのは、丹野だったのか?」

 僕は驚きのあまり、座っていた椅子を倒す勢いで立ち上がった。

「なんだ、俺の名前知ってたのか」

 すると、丹野は嬉しそうに顔全体で満面の笑みを浮かべた。

「……!」

 その笑顔があまりに嬉しそうで、僕の胸は高鳴ってしまう。

 だが、昨日僕を助けてくれたヒーローが、まさか丹野だったという事実に、僕は驚きを隠せなかった。

 驚きというよりも、ショックのほうが大きかった気もするが、僕は力が抜けたようにストンと椅子へ座り直した。

「前にオール明けで朝一学校来たとき、どっかでお前のこと見たような気がしたんだよなー。まさか隣のクラスだったなんて、手間が早々に省けてよかったわ」

 僕の机に頬杖をついて、丹野は僕の顔をじっと見つめてきた。

「寝たらぜってー間に合わねーと思って、徹夜したんだぜ。コレがあったおかげで助かったわ」

 丹野は手に持っていたタブレットケースを振って、僕へ見せつけるように音を立てると、またワイシャツの胸ポケットに仕舞った。

「へ、へぇー……」

(本当に昨日助けてくれたのは丹野だったんだ……そっか……)

 あんなに会いたかったはずなのに、彼が丹野だったという事実は、やっぱり僕をなんともいえない気持ちにさせた。

(ん……?)

 ふと、丹野が今話していたことが気になって、僕は首を傾げた。

「徹夜って……僕に会うため……その、探すために寝てないのか?」

「そうだ」

「それで、僕を探すために校内を回ろうとしてたのか? 全クラスをか?」

「ああ。でも考えてみたら、模試なんて三年しか受けないんだから、三年だけ見ればよかったんだなー。あっぶねー、危うく一年から探すとこだったわ」

(僕を探すために、わざわざ寝てなくて……しかもこの広い校内を探そうとしてたのか?)

 うちの学校は今どき珍しい男子校で、それも人気の理由なのか、一学年六クラスまである。

 それなのに、全学年の全クラスを見て回って、丹野がわざわざ僕を探そうとしていたなんて驚きだった。

(そこまでして僕のことを……)

 僕の存在を探そうとしてくれていたことに嬉しくなり、僕は心臓の鼓動が速まって頬が熱くなってしまう。

「い、いや。模試は一年も二年も受ける奴は受けるぞ」

 僕は平常心を装うが、思わず声が上擦ってしまった。

「ふーん。そういうもんか。俺には無縁だからなー。それで、名前はなんて言うんだ?」

「えっ……?」

「名前だよ名前」

「あ、ああ……」

 そういえば、お互い名前も名乗っていなかったことに、丹野から言われてやっと気が付いた。

「僕は物部碧斗もののべあおとだ。物置の物に部屋の部、紺碧の碧に北斗七星の斗だ」

「碧斗かー。綺麗な名前だな」

「えっ……あ、ありがとう……」

 丹野は純粋に褒めてくれたため、僕は思わず照れ臭くなってしまう。

「俺は丹野奏介たんのそうすけ。えーっと……丹波の丹に、野原の野。演奏の奏に、介は……紹介の介な」

「演奏の奏に、紹介の……ああ、なるほど」

 僕は頭の中で、奏介という漢字を思い浮かべた。

「なあ? 碧斗は俺のこと怖い?」

「えっ……?」

「いや、緊張しているみたいだからさ。やっぱ、この見た目だと怖いか?」

 俺に手を伸ばし、目に少しだけかかる僕の前髪を、丹野は指先に絡めてそっとどかした。

「べ、別に……。キミのことは怖くはないが……」

 あまり関わったことがない、というより、友だちがいない僕には、どう接したらいいのかわからないというのが本音だった。

 だが、そんなことを正直に言うわけにはいかず、僕は口を閉ざしてしまう。

「なあなあ、その武士みたいな喋り方が標準なのか? 俺、キミとか人生で初めて言われたわ」

「えっ……変か?」

「変と言うより……カッコいい? 俺は好きだぞ」

(好き……好き? えっ……!)

 僕は驚いて身体を慌てて後ろに逸らし、丹野から距離を取ってしまう。

「なんだよ。その反応……」

「えっ! いや、だって……」

「昨日は碧斗の焦って必死な顔しか見てなかったけど、こうやって見ると、お前って随分整った顔してんだな」

 丹野は僕に手を伸ばしてきて、僕の眼鏡をそっと奪った。

「お、おい。それがないとなにも……」

(えっ……)

 言いかけて止めたのは、丹野の顔が近づいてきたからだった。

 だが、目の前に丹野の顔があるとはっきり認識したときには、唇が重ねられていた。

(う、嘘だ……これって……)

 これがキスだと気付いたときには、もう丹野の唇は離れていた。

「目、閉じないのか?」

(あっ……)

 僕の目を覗き込むように見つめてくる丹野の目が、昨日と同じだと気付いた僕は、目が離せなくなってしまう。

「閉じるものなのか……?」

 世間一般の普通が分からなかったため、僕は真面目に質問をすると、丹野はフッと息を吐き出すように笑った。

「確かめてみたら? なんか違うかもしんないぞ」

 そう言って、丹野は嬉しそうに顔をまた近づけてきた。

 だが、僕は慌てて丹野の口に手を当てて押し返した。

「な、なんで僕にキスなんてするんだ!」

「ん? したかったから」

 答えになっているような、いないような返事をされ、僕は呆れて深い溜め息をついた。

「僕を揶揄って楽しいか? それともこれは嫌がらせか?」

「違う。好きだからだ」

「はっ……?」

「一目惚れなんだ。だから……」

「ふ、ふざけるのも……!」

 僕は揶揄われてると思い、両手で机を拳で叩いた。

「ん……?」

 だが、片方の手に当たった感触は机ではなかったことに気付き、僕は恐る恐る手元を確認した。

「う、嘘だろ……」

 いつのまにか、丹野によって外されていた僕の眼鏡が机に置かれていて、僕は気付かずに眼鏡のツルを折ってしまった。

「あらら……」

「ど、どうしよう……これじゃあ授業が……」

「メガネなしじゃ色々大変だよなー。まぁ、安心しろって。俺がしっかり、サポートしてやるからさ」

 僕の焦る姿なんか、まるで視界に入っていないかのように、丹野は嬉しそうな笑みを浮かべて、僕の肩を叩いた。




「おーい、碧斗」

 授業が終わり、移動教室の準備をしようと、机の中から教科書やノートを出そうとしていたとき、急に背中を叩かれた。

「う、うわ!」

 僕は驚いて、思わず大きな声を出してしまった。

 そのせいで、クラス中の視線を集めてしまう。

「なんだよ。そんなに驚くことか? 俺、来るって言っておいたよな?」

「い、言ってたが、もう少し静かに近づいてきてくれ!」

「えー、いいじゃん。会いたかったんだし」

(あ、会いたかった……って、えっ?)

 丹野の言葉に僕は動揺して、どうしていいかわからずに顔を俯かせる。

 すると、近くの席のクラスメイトが、丹野の肩に腕を回した。

「おいおい、奏介! あんまりうちの真面目クンを苛めんなよ」

「苛めてねーよ! だいたい俺は大事な任務があってきたんだよ。邪魔すんな」

 肩に回された腕を外させると、丹野はクラスメイトにあっちへいけと手で合図した。

「へいへい。じゃあなー物部、先行ってるぞー」

(えっ? 僕の名前知ってたのか……)

 僕はほとんど話したことのないクラスメイトが、僕の名前を知っていたことに、思わず驚いてしまう。

(彼はたしか、林くんだったような……あとで座席表を見て確認しよう)

 僕の名前を覚えてくれているのに、彼の名前を把握していないの失礼だと思い、あとできちんと把握しようと思った。

「碧斗ー。そろそろ急がないと、まずいんじゃないのかー」

「ハッ! そうだった! って、誰もいないじゃないか! 本当に急がないと予鈴が鳴ってしまう!」

 周りを見渡すと教室には誰も残っていない状態だったため、僕は慌てて荷物をまとめた。

「本鈴なるまでセーフだろ」

「いや、事前に準備を済ませるための予鈴だろ。本鈴は授業を始める合図なのだから」

「頭固いなー。教師だって、本鈴と同時になんて授業始めないだろ?」

「そうかもしれないが……って、こうしてはいられない」

 丹野に構っていたら本当に遅れてしまうと、僕は慌てて教科書とノート、そしてペンケースを手に持って立ち上がった。

 だが、ペンケースのチャックがしまっていなかったことに気付かず、中に入っていたシャープペンシルが数本床に転がってしまう。

「ああっ!」

「ったく。何してんだよ。急いでるんじゃなかったのか?」

 肩を竦めた丹野がしゃがみ、僕のシャープペンシルに手を伸ばす。

 だが、僕も同時にしゃがんで手を伸ばしていたため、丹野と顔が途端に近くなってしまう。

「……!」

 ふと、朝にキスをされたことを思い出し、僕は思わず身体を引いてしまった。

「えー……ちょっと傷つくんだけどなー……」

 丹野は眉を下げて、悲しそうな顔をしながら、拾ってくれたシャープペンシルを僕に差し出してきた。

「す、すまない! 今のは……ちょ、ちょっと驚いただけで……」

 なぜか声が震えてしまいながら、僕は差し出されたシャープペンシルを受け取って、ペンケースに戻した。

「なんだ。碧斗はビビりなんだな」

「び、ビビリではない!」

「ふーん。ほら、急ぐぞ」

 丹野は僕の腕を掴むと、先行して誘導するように引っ張り始めた。

「だ! 大丈夫だ! 僕は一人で歩ける!」

 まるで小さい子を連れて歩くときのようで、僕は恥ずかしくなり、腕を離してもらおうと必死に左右に振る。

 だが、丹野は掴んだ腕を離してくれなかった。

「丹野!」

「ほらほら。足元危ねーから、気を付けてついてこいよ」

「うう……」

 僕は何を言っても無駄だと諦めて、丹野に腕を引かれながら、移動教室先の化学実験室へと向かった。

「そういえば、林と仲良いのか?」

「えっ……? 林? あ、ああ。やっぱり彼は林くんという名前だったか」

「えっ! なに? クラスメイトの名前も覚えてないのか?」

「うっ……」

 痛いところを突かれ、僕は足を止めて丹野から顔を思わず逸らしてしまう。

「使うことがあまりなくてだな……」

「名前を使うことないってお前なー。まあ、碧斗らしいっちゃ、碧斗らしいか。じゃあ、俺の名前は?」

「えっ……」

 丹野は僕に向かって振り返ると、目を輝かせていた。

「丹野」

「違う。下の名前」

「……奏介」

「正解!」

 僕が名前を呼ぶと、奏介は満面の笑みを浮かべた。

 すると、僕の胸の奥で何か熱いものが湧き上がるような感覚を覚えた。

(奏介……)

「よし。走るぞ!」

「えっ! わっ! ええ!」

 丹野、いや奏介は、僕の腕をまた引っ張って走り始めた。

 掴まれた腕は教室を出た時よりも、強くしっかりと掴まれていた気がした。

「なあ。もう一回、俺の名前呼んで!」

「えっ! どうして?」

「いいから! ほら!」

 僕は仕方なく名前を呼んだ。

「奏介!」




「碧斗ー。一緒にメシ食おうぜー」

「……」

 午前の授業が終わった、昼休み。

 僕はいつもの通り一人でお昼を食べようと、スクールバッグからお弁当を取り出したとき、奏介が僕の席までやってきた。

「そ、奏介……ッ」

 誰かのファーストネームを呼ぶことなんてなかった僕は、奏介の名前を呼ぶだけで恥かしさを感じてしまう。

「あ、あのさ……。僕、裸眼が全く見えないってわけじゃないから、そこまで心配しなくても大丈夫なんだが……」

「なんだよ。そんな淋しーこと言うなよ。まあ、俺が一緒に食いたいだけだから気にすんなって」

(気にするって!)

 奏介は僕の気持ちなんてお構いなしに、空いていた僕の前の席に座った。

 手にはラップに包まれた、拳サイズよりも一回り大きいおむすびを二つ持っていた。

「誰かと食う約束してんの?」

「別に、そんなことはないが……」

「だったらいいじゃん」

 強引に押し切られた気がしたが、抵抗してもしょうがないと僕は心の中で溜め息をついて、お弁当箱の蓋を開けた。

「しかし……でかいな、そのおむすび。そして実にシンプルだ」

 ふりかけで混ぜご飯になっているわけでも、のりで巻いてもいない、本当にシンプルな白飯のおむすびだった。

「だろ? 俺が幾多の試練を乗り越えて辿り着いた、究極の節約飯だ。こんぐらいねーと、夜まで持たねーしさ。あー腹減った。いただきまーす」

 奏介は大きな口を開けて、僕の前でおむすびを食べ始めた。

「幾多の試練ってなんだよ」

 僕は少しだけ笑いながら、箸入れから箸を取り出して手を合わせた。

「いただきます」

 食べ始めると、奏介が僕の顔をじっと見つめていることに気が付いた。

「なんだよ」

「いや、笑うとまた綺麗だなーって」

「ば、バーカ。一体どこを見てるんだ。ほら、唐揚げやるからこっちを見るな」

「マジ? ラッキー! あーん……」

 奏介は僕に向かって口を開けてきたが、僕は箸で掴んでいた唐揚げを、奏介の大きなおむすびの上へ器用に置いた。

「ほらよ」

「あーあ、残念。でも、いただきまーす」

 残念そうに肩を竦めた奏介は、僕がおむすびの上に置いた唐揚げを、一口で口の中に頬張った。

「そういえば、さっき節約って言ってたか?」

「ああ。俺、金貯めてんの。昔から、どうしても欲しいバイクあっからさー」

「へぇー。あのバイクだって、かっこいいのに。ん?」

 僕はふと思い出した記憶を確かめるため、胸ポケットに仕舞ってある生徒手帳を取り出した。

「すげぇ……生徒手帳なんて持ち歩いてるヤツ初めて見た……」

「いや、普通……って、やっぱりうちの学校って免許……」

 生徒手帳の中に書かれている校則を捲って探すと、やはり、免許取得は禁止としっかり書かれていた。

「あー、固いこと言うなって」

 奏介はバツが悪そうに、僕から生徒手帳を奪い取った。

「お金を貯めていると言っていたが、まさかアルバイトも……」

「うーん。まあ、単発をちょいちょいなー。バレない程度に。って、すげー。これって意外と色々書いてあるんだな。カレンダーまであるのかー」

 まるで内容を初めて見るかのように、奏介は興味津々で生徒手帳のページを捲っていった。

(僕とは全然違う……)

「奏介はすごいな……」

「えっ……? あ、おととっ」

 僕は素直な気持ちを吐露すると、奏介は驚いたのか、手から僕の生徒手帳を落としそうになる。

「あ、アブねー。一体、どうしたんだよ?」

「いや。奏介は自分でお昼を作って、バイトして、免許もとって……。僕には到底なしえないことを、やってのけているんだなって尊敬したんだ」

 奏介を尊敬の眼差しで見つめると、奏介は顔を赤らめて頭を掻いた。

「尊敬って、まさかそんな風に言われると思ってなかったから照れるな。てっきり碧斗に怒られると思ったけど」

「僕が怒る必要性はないだろ。だが、くれぐれも見つからないようにな。書いてある通り、どちらも停学処分ものだ。まあ、無論。僕は口外するつもりはないが」

「ッツ……! アハハッ! ほんと、碧斗っておもしれーヤツ」

 奏介が笑い出したため、僕はなぜ奏介が笑っているのかわからず、首を傾げてしまう。

「おもしろい……? 変じゃなくてか?」

「変? 変っていうなら、俺のほうが勝ってるだろ?」

 悪戯した子どものように笑う奏介の姿に、僕は心を弾ませていることに気が付いた。

「初めてそんなこと言われた……」

「そうなのか? みんな見る目ねーな」

「……!」

(僕はずっと、人と違う……自分が変だと思っていた。でも、奏介は……)

 奏介は、きっと何かを意識して言ったわけじゃない。

 だからこそ、僕の心にずっと乗っかっていたものを、そっと吹き飛ばしてくれた気がした。

(どうしよう、すごく……)

 嬉しくて、でも恥ずかしくて、僕は慌ててお弁当のおかずをいくつも口の中に頬張った。

「ん? どうしたんだ? 急に食べる速度が速くなってないか?」

「な、なんでもない! なんでもない!」

 僕は誤魔化すように、首を横に何度も振った。

「まあ、いいや。そういや、授業はどうしてたんだ? ここの席でホワイトボード見えるのか?」

 奏介は教室の前に設置されているホワイトボードと、僕の席を交互に見比べた。

「いや、さすがに見えなかった。だから事情を話して、放課後、各教科の先生に今日の分のノートを写させてもらうつもりだ」

 後ろから二番目の席だった僕は、一番前のホワイトボードまでは、眼鏡なしで見ることはできなかった。

 普通なら隣の席のクラスメイトや、友人にノートを写させて欲しいと頼むと思うが、生憎僕にはそんなことを頼める友人はいなかった。

「あちゃー……。俺がさっさと気付けば良かったなー。失敗した。ごめんな気付かなくて」

「奏介は悪くないだろ。元々は僕が眼鏡を壊したのがいけないんだ」

「いや、眼鏡は俺の責任だろ。うーん、放課後は眼鏡屋に連れていきたいんだけどなー……そうだ! んー……あ、林ー」

 奏介は思いついたように手を叩くと、近くの席で何人かと固まってお昼を食べていた林くんに声をかけた。

「んー、なんだー?」

 奏介に呼ばれた林くんは、食べかけの弁当を手に持ったまま、僕たちのところへやってきた。

「悪いんだけどさー。今日の分のノート、放課後コイツに貸してやってくんね?」

「えっ! あっ!」

 奏介が急に言い出したことに、僕は箸を落としそうになるほど焦ってしまう。

「そ、そんな悪いって」

(急にそんなこと頼んだら、ずうずうしいって思われるだろ!)

「別にいいけど」

(えっ!)

 僕の心配を他所に、林くんは迷うことなく頷いてくれた。

「サンキュー。俺が碧斗の眼鏡壊しちまったからさー。放課後、眼鏡屋連れていかなきゃなんねーの」

「なにやってんだよ、奏介。ああ、それで今日は眼鏡してなかったのか。物部も可哀そうになー」

「えっ、あっ……僕は別に……」

 こんなに長くクラスメイトと話したことがなかった僕は、どうしていいか分からず、顔を俯かせてしまう。

「おいおい、林。碧斗を苛めんなよ」

「苛めてねーよ。じゃあ、放課後に今日の分を全部貸してやるよ。物部なら、家帰って勉強するんだろ? 俺は使わないから明日返してくれよ」

「あっ、ありがとう……」

「んー。じゃあなー」

 林くんは嫌な顔一つせず、そのまま席に戻っていった。

「よし。これで放課後は空いたな」

 奏介は食べ終わったおにぎりのラップを手で丸めると、僕に満面の笑みを浮かべた。

 その無邪気な笑顔にドキッとしたのか、それとも慣れないクラスメイトと会話のせいか。

 僕の心臓の鼓動は、大きな音をさせたままだった。




「たしか、うちで許されているのは自転車通学のはずだが……」

「そりゃそうだろ。免許とることも許されてねーんだから」

 奏介の知り合いの眼鏡屋さんに行くと聞いて放課後に連れてこられたのは、学校から少し歩いた場所にある、バイク専用の駐車場だった。

 そこには昨日乗せてもらった、奏介のバイクが置いてあった。

「本当はもっと学校の近くに停めたかったんだけどなー。さすがに教師に見つかったら面倒だろうし」

「そうだ! 停学!」

 僕は自分で口にした停学という言葉に緊張が走り、思わず背筋を伸ばしてしまう。

「大丈夫だって。教師はまだ学校だし、見つかるはずがねーよ。ほら、気にすんな。よッ!」

 バイクの座席下から、奏介は昨日僕に貸してくれたヘルメットを取り出すと、僕に向かって放り投げた。

「わっ!」

 放り投げられたヘルメットを慌てて反射的に受け取るが、僕はさすがに乗るか躊躇してしまう。

(停学はまずいよな。けど……)

 一昨日までの僕なら、まず乗ることは選ばなかっただろう。

 だが、奏介の後ろに乗せてもらったあの感覚。

 風を切る感覚と、奏介の背中から伝わってくる心音。

 僕はもう一度感じたいと、思ってしまっている自分がいた。

「まあ、なんかあったら俺に脅されたって言えばいいさ。教師も信じるだろ、きっと」

「えっ……」

(どうして、そんなこと言うんだよ……)

 奏介は特に気にする様子もなく言ったが、僕の胸は淋しさからキュッと締め付けられた。

「やだ……」

 俯きながら、僕は首を大きく横に何度も振った。

「奏介にだけ、罪を背負わせるなんて絶対ヤダからな!」

 なんでこんなにも必死になるのか、僕自身にさえもわからなかった。

 だが、奏介に突き放されたような気がしたのか、淋しさを覚えたのは確かだ。

「碧斗……」

 一瞬驚いたように目を丸くした奏介だったが、すぐに笑った。

(あっ……)

 嬉しそうに。

 幸せそうに。

 僕にはそう見えて、さらに胸が高鳴ったのを感じた。

「まあー大丈夫だって。ったく、俺がどんだけ今までバレてないと思ってんだよ。でも……サンキューな。ちょっと嬉しかった」

 照れたように笑う奏介に、僕の胸はまた締め付けられた。

 淋しさとは違い、何か温かいものが胸に広がっていくのを感じる。

 そして、さっきよりも強い力で締め付けられた。

「ほら、さっさとメット被れ。置いてくぞ」

 僕は手に持っていたヘルメットを奏介に奪われると、頭の上に無理矢理被らされてしまう。

「痛いって! わ、わかった! わかったって!」

「今日は特別だからな! デートだぞ、デート」

「デート……デート……」

 聞きなれない言葉を、僕は意味を理解するように何度も口に出して繰り返してしまう。

(友だち同士でも、二人で出掛けることを最近はデートっていうのか。そうか……って、友だち……)

 友だちという言葉の響きに、僕は胸をさらに高鳴らせてしまう。

「そうそう、デート。昨日後ろ乗せたときに、碧斗あんま怖がってなかったからさー。今日はどこかへ連れていこうかと思ってたんだ」

「僕を……?」

「他に誰を乗せるってんだよ」

(僕を……そっか……)

「そ、そうだよな。あ、ありがとう……」

 あまりの嬉しさに、僕は感情を表に出さないよう必死になり、つい、ぶっきらぼうになってしまう。

「なんだよ。俺とのデートは嬉しくないのか? ざーんねん」

(えっ……)

 奏介は僕に背を向けるとフルフェイスのヘルメットを被り始めたため、僕は慌てて奏介の制服のジャケットの裾を掴んだ。

「嬉しくないはずないだろ。奏介が僕のために考えて、してくれたんだから……」

 僕は裾を掴んでいた手に、さらに力を込めた。

 すると、奏介は急に僕へ向かって振り向くと、肩を掴んできた。

「無自覚か? それは無自覚なのか?」

「えっ、無自覚? 一体何言って……」

 奏介の言っている意味が分からず、僕は首を傾げてしまう。

 すると、奏介は深い溜め息をついた。

「はぁー……。うん。ほら、置いてくぞ。あの眼鏡屋は、じいさん一人でやってるから閉店が早いんだ」

「あ、ああ……」

 奏介の溜め息の意味はわからなかったが、奏介はそれ以上なにも言わずにバイクへ跨ってしまったため、僕も昨日のように後ろへ乗った。

「しっかり掴まってろよ」

「うん……」

 僕は昨日のことを思い出しながら、奏介に後ろから抱きつく形で掴まった。

「あっ……」

 すると、僕はあることに気付き、思わず声を漏らしてしまう。

「ん? なんだ? なんかあったか?」

「な、なんでもない! なんでもないんだ!」

(僕は一体、なにを考えてるんだ!)

 昨日のライダースーツと違って薄い制服の背中に抱きつくと、直で抱きついている気分になったなんて、僕は絶対に言えるはずもなかった。




「着いたぞ」

 バイクで到着したのは、商店街の一角にある小さな眼鏡屋さんだった。

「あ、ありがとう」

「どういたしまして。ほら、メット寄越せ」

「あ、ああ」

 僕は留め具を外してヘルメットを脱ぐと、奏介に返した。

「おお。やっぱり奏介か。うっさいバイクの音ですぐにわかったぞ」

 お店の中から、おそらく八十歳を越えているおじいさんがエプロン姿で出てきた。

「まだ生きてたか、じいさん」

「うるさいわ! バイク止めんなら、表じゃなくて脇にしとけよ」

「へいへい、すみませんでした。よっと」

 奏介はおじいさんに言われた通り、お店の脇へ移動させるためにバイクを押し始めた。

 だが、バイクは僕の予想より遥かに重たいようで、奏介が思いっきり力を込めて押している姿を見て、僕は居ても立ってもいられなくなった。

「僕も手伝うよ」

 バイクのハンドルを握って奏介は押していたため、僕はバイクを後ろから押した。

「サンキューな」

「これくらい、かまわない」

 嬉しそうに顔だけを振り向かせた奏介に、僕は一瞬胸が高鳴ったのを感じた。

「お前たち、仲が良いんだな。さっさと中に入ってこい。せっかくだ、茶を淹れてやる」

 僕と奏介の姿を見て、安心したように表情を綻ばせたおじいさんは、お店の中に戻っていった。

「よし、完了。手伝ってくれてサンキューな」

 なんとかバイクをお店の脇に移動させると、僕は奏介に背中を叩かれた。

「口のうっさいじいさんだけど、腕はたしかだから安心しろよ」

「あ、ああ」

 自分で気付いていないだろうが、奏介はさっきのおじいさんと同じように、どこか嬉しそうな顔をしているように僕には見えた。

「ほら、いくぞ」

 奏介に先導されてお店の中へ入ると、手前は眼鏡屋さんらしく、市販の眼鏡がいくつも並べられていた。

 だが、奏介が一直線に向かっていったのはお店の奥だった。

 そのまま奏介の後ろについていくと、パーテーションで区切られて見えなかったお店の奥は、アンティーク風の丸いテーブルと椅子が三つ、それに作業台が置かれていた。

「とりあえず、碧斗はここで座って待ってろよ」

「あ、ああ」

 奏介に促され、僕は丸いテーブルを囲むように置かれた椅子に、座って待つことにした。

「じいさーん、俺も手伝うよ」

 姿の見えないおじいさんに向かって叫んだ奏介は、椅子にスクールバッグを置くと、暖簾で隠されていた階段を上がっていった。

 どうやら二階は住居になっているようだ。

(古いお付き合いなのか? 本当のおじいさんでは……ないんだよな? 一体どんな関係なんだ?)

 疑問ばかりが頭に浮かんでいると、階段の上から騒がしいやりとりが聞こえてきた。

「じいさん。ちゃんと手すりに掴まって階段下りろよ。何かあってからじゃ、遅いんだからな」

「うちの娘みたいなこと言うな! 何十年も毎日使っている階段から、落ちるはずがないだろ」

「そういうこと言っているヤツが落ちるんだって。ほら、お盆は俺に貸せって」

「じじい扱いをするな!」

「諦めろ! もう、じじいなんだよ!」

「フッ……」

 テンポの良い漫才のようなやりとりが階段を下りる音と一緒に聞こえてきて、僕はつい笑みが零れてしまう。

「なに笑ってんだ?」

 湯呑を載せたお盆を持って階段を下りてきた奏介は、僕のことを不思議そうに見つめてきた。

「いや。あまりに仲が良くて、羨ましいと思っただけだよ」

「なんだよそれ。ったく、勝手に言ってろ」

「ほら、奏介もさっさと座れ」

「へいへい」

 おじいさんは僕の向かい側に座ると、奏介は湯呑をそれぞれの前に置き、僕とおじいさんの間の席に腰掛けた。

「それで、今日はなにしにきたんだ? わざわざ友だちを見せびらかしにきたのか?」

「するか! そんな小学生みたいなこと! 実は、コイツの眼鏡を俺が壊しちまったから、じいさんに直してもらおうと思って来たんだよ。ほら、碧斗。じいさんに眼鏡渡してやって」

「あ、ああ……」

 僕はスクールバッグの中から、眼鏡ケースを取り出した。

「これなんですが……」

 差し出した眼鏡ケースを受け取ったおじいさんは蓋を開けると、折れたツルの部分を取り出して、顔の近くに持っていった。

「ああ。これなら数時間で直せるぞ」

(あ、そんなに早いんだ……ん?)

 僕は心の中でありがたいという気持ちよりも、残念だと思う気持ちが勝っていることに首を傾げた。

「本当か? そんなに早く直せるもんなのか?」

「嘘ついてどうする。支払いも出世払いでいいぞ」

「マジで! ラッキー」

 奏介は素直に喜んでいたが、僕はそういうわけにはいかないと首を横に振った。

「いえ。お金はきちんとお支払いさせてください。こういうことはちゃんと……」

 だが、おじいさんは嬉しそうに僕へ笑いかけた。

「若いのにしっかりしている。奏介にも見習ってもらいたいもんだ。でも、本当にいいんだ。奏介にはいつも助けられてるからな」

「いつも、助けられてる……?」

 僕は奏介の顔を見ると、奏介は急に席から立ち上がって慌てふためき始めた。

「わあ、じいさん! ストップ! ストップ! 俺、トイレ行ってくっから! 碧斗には何も話すなよ!」

 奏介は逃げるように、先程下りてきた階段を駆け上がっていった。

「まったく……騒がしいやつだ」

 呆れたように肩を竦めたおじいさんは、テーブルに置かれていた湯呑を手に取って口を付けた。

「あの……もしよろしければ、お話詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 僕は少し前のめり気味に、おじいさんへ話を伺った。

「ん? ああ、奏介な。アイツはこの寂れた商店街のために、ボランティアで色々してくれているんだ。縁もゆかりもないのに変なヤツだろ。バイト代出すって何度言っても受け取らんから、正直お前さんのコレ、助かったよ」

(奏介がボランティア……)

 正直、昨日までの僕が知っている丹野奏介であれば、そんな話とても信じられなかった。

 だが、今日一日を通して知った本当の丹野奏介なら、容易に想像できた。

「最初は通りかかっただけなのにな。今じゃあ、クリスマスの時期になれば通りの飾りつけを手伝って、夏祭りやイベントのときは裏方として一日中走り回って……。この商店街は年寄りばかりだから、みんな奏介に助けられているんだよ」

「そうなんですね」

(やっぱり……本当にイイやつなんだな……)

 言葉はもちろん、まともに顔を合わせたこともなかった僕は、奏介の見た目から勝手に近づいてはいけないヤツだと思っていた。

 そんな自分の浅はかな考えが急に恥ずかしくなったのと同時に、やっぱり奏介はスゴイと思った。

「知ってるかい? アイツのあの派手な髪色。自分の姉さんが美容師見習いで練習台になってるだけなんだぞ」

「そ、そうなんですか?」

「ああ。それにあのうるさいバイク。あれは、この商店街のヤツが昔乗っていたのを貰っただけだしな。どうやらくれてやったヤツが、ツーリング仲間欲しさに奏介へやったみたいなんだが……。ふっ、毎回ツーリングに誘っても嫌な顔一つしないそうだ」

(じゃあ、奏介はヤンキーというわけじゃなくて、どちらかというと……)

「やっぱり、奏介はヒーローなんですね」

 僕が笑った顔を見て、おじいさんも笑顔を浮かべた。

「ああ、あんたも助けられたクチかい。それなのに眼鏡壊されちゃ、たまったもんじゃないな」

「そんなことないですよ。それに、壊したのは僕自身なので」

(それなのに……)

 眼鏡が壊れてしまったのは、たしかに困ったし不自由だった。

 だが、おかげでたった一日だったが、奏介が僕のことを気遣って優しくしてくれたことが、どうしようもなく嬉しくてしかたがなかった。

(あれ……)

 胸の奥で今まで感じたことのない、温かいものが広がっていく感覚に、僕は動揺してしまう。

「お、お茶いただきますね」

 僕は気持ちを落ち着かせようと、奏介が置いてくれた湯呑を手に持つと、慌てて口をつけた。

「熱いから気を……」

「アチッ」

 おじいさんの忠告よりも先にお茶へ口をつけてしまった僕は、舌を軽くやけどしてしまった。

「だ、大丈夫かね?」

「だ、大丈夫です! お、おいしいお茶をありがとうございます」

 慌てて立ち上がり、前のめりになって心配をしてくれるおじいさんを安心させるように、僕はもう一度ゆっくりとお茶に口をつけた。



 

『さぁさぁ、作業の邪魔だ。こんな何もないところで待っていても、若者は暇で仕方がないだろ。外で遊んできなさい』

 おじいさんに言われて、まるで追い出されるように僕と奏介は店を出ると、顔を見合わせた。

「外で遊んできなさいって、小学生か! ったく、気を遣うところが間違ってんだよ。けど、どうっすかなー……」

「時間を潰す……喫茶店でコーヒーでも飲んで待つとするか?」

「うーん。俺、ああいう静かなところ苦手なんだよな……。って、碧斗は行ってみたいとこないのか? 眼鏡壊した俺が言うのもなんだけど、元々その予定だったんだしさー」

「行って、みたいところ……行って……」

 奏介に聞かれ、僕は一か所だけパッと頭に浮かんだ。

「どこでもいいのか?」

「ああ。碧斗が行きたいなら、どこへでも連れてってやるよ」

 任せろというように、胸を張って叩く奏介。

 僕にはその姿がとても逞しく、そして微笑ましく思えた。

「それじゃあ……」




「すごい。本当に海だ……」

「なんだよ、その感想ー。海見るのが初めてみたいに聞こえるぞー」

「初めてではないんだが……子どものとき以来だから新鮮で」

 奏介の後ろに乗せてもらいながら、左手に見えた海を僕はじっと見つめた。

 微かに感じる潮の香りと、絶え間なく打ち寄せる波。

 そして、一直線に伸びる水平線。

 テレビでよく見る海の風景そのもので、僕は黙って見つめ続けてしまう。

(そういえば、僕はなんで海に行きたいって思ったんだろう……あっ、そっか)

 考え始めてすぐに、僕は理由が分かって納得する。

(どこに行きたいかって聞かれたとき、奏介の顔が頭に浮かんだんだ。そのとき、海が似合うなーって思ったからか……)

 我ながら安易な考えだと思ったが、海を見つめていると、奏介の顔が頭に浮かんできた。

 怒った顔や、無邪気に笑う顔。

 全て今日見るのが初めてだったはずなのに、はっきりと鮮明に思い出せ、まるで思い出し笑いのように、笑みがこぼれてしまう。

「そういやー碧斗のクラスは学園祭でなにやるんだー?」

「えっ! な、なに? 学園祭?」

 突然、頭の中が奏介でいっぱいなときに話しかけられ、僕は動揺して声が上擦ってしまった。

「ぼーっとしてると危ないぞ! そう、学園祭! クラス何やるんだー?」

「あ、ああ!」

 やっと質問を正確に聞き取ることができた僕は、そっと息を吐きだして、乱れた心を落ちつかせてから答えた。

「う、うちは縁日だ。奏介のクラスはお化け屋敷だろ?」

「そうそう。でも、本当は遊園地作りたかったんだよなー」

「遊園地?」

 学園祭の出し物で遊園地というのは聞いたことがなく、どういったものか想像がつかなかった僕は、首を傾げてしまう。

「ジェットコースターを自分たちで作れるらしくてさー。手作りならではのスリルがあるみたいで、乗ってみたかったんだよなー」

「ジェットコースターを手作り? そんなの高校生で、しかも普通科の生徒が作るなんて絶対に無理だろ」

「できるんだって、それが。作り方とかもネットにー……っと、あそこに停めるぞー」

 浜辺の近くにあったバイク専用の駐車場に到着して、僕はバイクから降りてヘルメットを外すと、大きく息を吸い込んだ。

「へぇー、すごい……! 潮の香って、本当にするんだな!」

「碧斗。バイク乗って話していたせいか、興奮してか知んねーけど、声デカくなってるぞ」

「えっ! う、嘘ッ」

 僕は慌てて口元を隠すように手で押さえて、辺りを見渡した。

 だが、駐車場には奏介のバイク以外にもバイクや車が何台か停めてあったが、近くに誰もいなかったため、僕は安堵の溜め息を漏らした。

「くくッ……」

 僕の慌てふためいた姿がおもしろかったのか、奏介は喉の奥を鳴らして笑っていた。

「な、なんだよ……」

「いや、そんなに興奮するほど喜んでくれているなら、連れてきた甲斐があるなーって」

 フルフェイスのヘルメットを脱いだ奏介は、僕と同じように息を大きく吸い込んだ。

「んー、この匂い懐かしいなー。っと言っても先月ぶりだけどな」

「先月……夏休み中にここへ来たのか?」

「ん? ああ。やっぱ、夏休みっていったら海が定番だろ。俺なんて泳ぎにも来たし、海の家で単発のバイトもしたぞ」

「へー。僕は今年も塾の夏期講習ばかりだったからなー……」

 考えてみれば海はもちろん、花火や縁日などの夏らしい行事からも、ここ数年疎遠だったことに気が付いた。

(みんなが当たり前のことを僕は……)

 友人もいなければ、アルバイトもしたことがない。

 勉強しか取り柄のない僕は、なんだか自分自身が空っぽの存在に思えた。

「なんだか僕の人生って、つまらな……」

 思ったことを素直に言いかけたてしまった僕は、思わず顔を俯かせてしまう。

 すると、奏介は僕の頭の上にそっと手を置いた。

(奏介……)

「ばーか。碧斗は今、頑張ってるんだろ? いっぱい勉強して偉いじゃん」

「……!」

 頭の上に置かれた手は、まるで僕を慰めてくれているみたいだった。

 胸に温かいものが広がっていき、涙が不思議と込み上げそうになる。

 僕は慌てて顔を上げると、奏介と目が合った。

 奏介はそんなこと気にする必要ないと、まるで僕に言い聞かせているかのように、優しい笑みを浮かべていた。

「終わっちまったもんはしょうがない。けど、夏ならまた来年あるだろ? それなら来年……」

 奏介はさっきの僕のように突然言いかけ、不安そうな表情を浮かべたため、僕は首を傾げる。

「来年……? そうか! そうだよな。奏介、良かったら来年またここに連れてきてくれないか?」

「あ、当たり前だろ!」

(あっ……)

 僕は考えなく口にしたが、奏介が不安そうな表情を浮かべていた理由に気が付いた。

(そっか……。来年は高校を卒業してしまっているから、奏介と接点がなくなってしまうのか……)

 僕は波の音が聞こえる海を、改めてそっと見つめた。

(来年も奏介と一緒に来たいな……)

 昨日初めて言葉を交わしたばかりなのに、僕の中で奏介の存在が、とてつもなく大きくなっていることに気付かされる。

(僕は……)

「そ……」

「せっかくだから、もう少し波の近くまで行ってみようぜ。ほら、メット寄越せ。邪魔になるだろ」

「あ、ああ……」

 借りていたヘルメットを奏介に渡すと、僕はもう一度、少し離れた場所に見える海を見つめた。

(来年もまた、ここに……。奏介と……)




「砂浜に下りるなら、靴も靴下も脱いで裸足になっておいたほうがいいぞ。めっちゃくちゃ砂が入るから」

「ああ。それもそうか」

 奏介に言われた通り、ローファーと靴下を脱いで手に持つと、僕と奏介は砂浜に裸足で下りたった。

「うわぁ……なんともいえない感触……」

(足の裏に砂を感じるなんて、それこそ海へ最後に来た、子どものとき以来な気がする)

「なんか、悪いことしているよーな気分にならないか?」

「ああ、たしかに。罪悪感に近いような……」

「嫌か?」

 奏介の質問に、僕は大きく首を横に振った。

「いや、楽しい。奏介、連れてきてくれてありがとうな」

 僕は満面の笑みを向けると、奏介は照れたように僕から顔を逸らした。

「べ、別に……またいつだって連れてきてやるよ」

「本当か?」

「ああ」

「約束だぞ!」

「子どもかよっ! ほら、せっかくなら海にも足だけ入ってこうぜ」

 奏介が波打ち際を指差したため、僕は大きく頷いた。

 僕と奏介は制服のズボンの裾を何度も折り曲げて、スネの辺りまで持ち上げた。

 そして、砂浜に靴を置き、押しては引いていく波に近づいていった。

「いくぞ!」

「せーの!」

 奏介と僕は互いに合図して、波に向かって一歩踏み出した。

「冷たっ」

「うわっ! 思ってた以上に冷たいな」

 足首まで浸かってみたが、水温は思っていた以上に冷たく、僕と奏介はすぐに砂浜に引き返した。

 気付けば日は傾いて、空がオレンジ色に染まってきていたが、こんなにも海が冷たいと僕は思わなかった。

「ここで奏介は泳いだのか?」

「ああ。でも、あんときは死ぬほど暑かったけどなー。海も温水プールみたいだったぞ」

「へぇー。そういえば、だ……」

(僕は一体何を言おうとして……)

 思わず誰と来たのかと聞きそうになり、僕は口を瞑んで口元を手で覆い隠した。

(奏介はカッコいいし、イイやつだ。きっと友だちも多いし、もしかしたら他校に彼女も……。いや、それならどうして僕にキスなんて……。それともキスなんて奏介にとって、挨拶なのか?)

 僕は急に、胸に穴がぽっかりと空いたような気持ちになった。

(ああ……)

 ふと、自分だけが特別なんだと思い上がっていたと、僕は現実を突きつけられたような気がした。

「ん? どうしたんだ碧斗?」

「いや、なんでもない! なんでもないんだ!」

 首を横へ何度も必死に振ってから、僕は少し冷静になりたくなり、もう一度海へ入ろうと大きく一歩踏み出した。

「あっ! バカ! 近づきすぎだ!」

「えっ……?」

 奏介の制止する声に驚いて、僕は振り向く。

 だがそのとき、ちょうど大きめの波が後ろから来て、せっかくスネの辺りまでたくし上げていたズボンが、少し濡れてしまった。

「あーあ……」

 呆れたような奏介の声に、僕は急に自分が情けない存在に思えてしまう。

「……ッ」

 なぜか胸が潰されそうなほど痛い。

(こんなの初めてだ)

 どうしていいかわからず、僕は俯いてその場に立ち尽くしてしまった。

「えっ……! ちょ、ちょっとたんま!」

 奏介は慌てて僕に駆け寄って海に入ると、僕の背中に腕を回した。

「と、とりあえず上がろう。な?」

(ああ、奏介まで濡れて……)

 僕のせいで奏介まで濡れてしまったことに気付いた僕は、心配して顔を覗き込んでくる奏介の顔を、まともに見ることができなかった。

 奏介を困らせると分かっていながら、まるで駄々っ子のように僕は首を横に振った。

「ほら。大丈夫だから」

 奏介は僕に優しく声をかけながら手を取ると、僕を引っ張るようにして波から離れさせた。

「一体どうしたんだ? 制服濡らしたのを、親に怒られるのが怖いのか? だったらうちで乾かしてから……」

 俯く僕の顔を、また心配そうに覗き込んでくる奏介。

 僕は奏介の顔を見られないまま、また胸が痛いほど締め付けられた。

(僕は何を期待して……勘違いしていたんだ。奏介の特別になんて、初めからなれるはずもないのに……)

「ちがう……。なんでもないんだ……」

「なんでもないはずないだろ。ちゃんと顔を……」

 奏介が僕の頬に触れようと手を伸ばしてきたため、僕は咄嗟に奏介の手を叩いてしまう。

 すると、叩いた手は勢い余って、近くにあった奏介の顔に当たってしまった。

「いって……」

「あ、ごめっ……」

 僕は慌てて謝ろうとすると、奏介は乱暴に僕の腕を掴んで自分へと引き寄せた。

「やだ! 離してくれ……!」

 奏介の胸に抱き留められると、そのまま逃がさないと言われているかのように、強く抱き締められてしまう。

「落ち着けって……な?」

「やだ、離してくれ!」

「……! 離すわけないだろ! 離さないからな絶対に!」

 奏介は僕を抱き締める腕に、もっと力を込めた。

「離せってこれ以上言うなら、俺は今から海にダイブしてくるぞ」

「……!」

 奏介なら本当にやりかねないと、僕は抱き締められながら、必死に奏介の制服の背中を掴んで止めた。

「言わない! わかった、言わないからやめてくれ!」

「ついでに、なんで泣きそうなのかも言わないとダイブしてくるぞ」

「そ、そんなのずるいじゃないか! これは脅迫だ!」

 抱き締められながら僕は顔を上げると、至近距離で奏介と目が合った。

「……!」 

 奏介は眉間に皺を寄せて、明らかに怒った顔をしていた。

「奏介……」

「脅迫? なんとでも言え! 俺はお前のこと心配してんだ! わかってんのか?」

「心配……?」

(僕のことを……?)

 こんなときに不謹慎だと思いながら、僕は奏介が心配してくれたのが嬉しくて、胸が高鳴ったのを感じた。

「だー! もう、わけわかんねー!」

 奏介は叫び、僕の髪を両手で掻き乱すと、僕の頬を両手で包み込むようにして挟みこんだ。

「なに、惚けて嬉しそうな顔してんだよ! 意味分かんねーよ!」

「し、してない! そんな顔、断じてしてないぞ!」

 僕は恥ずかしくて必死に首を横に振ろうとするが、顔を押さえられているため、無理矢理奏介を見つめ続けることになってしまう。

「ほら、言え! 何でさっき、泣きそうになったんだ?」

「……」

 言いたくないと、無言で首を横に振ろうとする。

 だが、顔を手で固定されているため、首を振るができなかった僕はついに観念した。

「誰と……来たんだろうって思ったんだ……」

「どこにだよ?」

「ここにだよ! 夏に来たって言ってただろ!」

「誰って……甥っ子だよ」

「えっ……」

「俺、姉ちゃんが二人いるんだ。一番上はちょっと年離れて。で、その子供。夏休みにこっち遊びに来たから、連れてきてやったんだ」

「お、甥っ子……」

 僕は拍子抜けして足の力が入らなくなり、その場で膝をついてしまった。

「あっ! おいっ!」

 心配そうな顔で僕と同じように膝をつく奏介に、僕は思わず安堵の笑みを零した。

「よかった。彼女じゃなかったんだな」

「……!」

 奏介は驚いた顔をした途端に、真剣な表情になった。

「俺が彼女と来てたらヤダって思ったのか……?」

「あ、ああ……」

「俺に……彼女はいないって言ったら、安心するか?」

「あ、ああ……ん?」

 まるで誘導尋問のような質問をされて、僕は戸惑いながらも答えてしまう。

「俺に……キスされたら、嬉しいか?」

「……!」

(そんなの……)

 質問には答えなかったものの、僕の頭の中で答えは瞬時に浮かんでいた。

(嬉しい……)

 答えは簡単だったが、僕は答えられなかった。

 もし素直に答えてしまったら、僕の世界が全て変わってしまうような気がしたから。

「ああ、クソ……」

 奏介はなにか苛立ったように僕の肩を掴むと、勢いよく唇を重ねてきた。

 いつの間にか日が落ちて辺りは暗い中、僕たちは波の音を聞きながら何度も唇を重ねた。



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