愛縁機縁
「あー、やっば……」
「降ってきちゃったねぇ……」
時刻は午後五時半を回ったところ。
この日も定時に退社しようとした柚葉は、玄関まで連れ立ってやってきた同僚で親友でもある美沙と顔を見合わせた。
出社する時には晴れ渡っていた空が、今は黒い雲をまとって雨を降らせている。
昨夜の居間のテレビは、天気が崩れ始めるのは明日の午後からだと言っていたはずだが、予報は外れたらしい。
「ミサちゃん、雨具持ってきた?」
「ううん……ユズちゃんも?」
柚葉は自転車、営業の美沙は外回りにも使うマイバイクでの通勤。
二人とも、この日は傘もレインコートも持参していなかった。
お互い自転車やバイクを会社に置いて、バスで帰る他なさそうだ。少し離れたバス停までは、濡れて行くしか仕方がない。
そう無言のまま決意を交わし合い、柚葉と美沙はコートのボタンを全て留める。
そうして彼女達は、会社の玄関の軒下から飛び出そうとした。
その時だった。
「――柚葉、お疲れ様」
ふいに、前から声がかかった。低く艶やかな男性の声である。
柚葉と美沙は、同時にぱっと顔を上げた。
いつの間にか正面から歩いてきていたらしいその男性の顔は、さした傘で隠れて見えなかった。しかし、柚葉は自分の名を紡いだ声に聞き覚えがあった。
まさか、と呟きかけた彼女の前で傘が傾き、相手の顔が露になる。
柚葉は今度こそ、あっと声を上げた。
傘の下から現れたのは、透けるような白い肌。
黒いニット帽を深く被り黒ぶちの眼鏡をかけている。
黒いダウンコートを羽織って、下はジーンズとスニーカー。
ほんの一瞬、その風体に戸惑ったものの――柚葉はすぐさま叫んだ。
「――だ、大五郎!?」
“大五郎”
日本人離れした彫りの深い顔立ちにはいささか不釣り合いだが、正真正銘、それが彼の名前であった。
柚葉が、かつて飼っていた愛犬からとってつけたものだ。
大五郎は、柚葉が産んだ卵から孵った、異世界ミッドガルドの次期皇帝である。そのミッドガルドは、白蛇の化身が皇帝を務める、国民全てがマングースの国。
大五郎も白い蛇の姿で卵から孵り、脱皮と変態を繰り返し、すったもんだあった末に、今の姿――柚葉より幾つか年上にも見える青年の姿へと変貌を遂げたのだった。
「ねぇねぇ、ユズちゃん! もしかして、彼氏!?」
「え? いや、えっと……」
隣で目を輝かせる美沙の問いに、柚葉は答えに窮す。
すかさず、大五郎が口を挟んだ。
「これ、よかったらどうぞ。お友達も困っているようなら渡すようにって、柚葉の母に言われてきました」
そう言って大五郎が差し出したのは、レインコートだった。
彼は自分がさしてきた傘と、柚葉の傘の他に、そのレインコートを携えてきていたのだ。
濡れて帰る覚悟だった美沙は、もちろん喜んだ。
「うっわー! ありがとうございます! 助かります!!」
彼女はそう言ってレインコートを受け取ると、柚葉に向かってはぐっと親指を突き上げた。
「これがあれば、バイクで帰れるよ~。さすが、ユズちゃんママ! 気が利くぅ!」
「う、うん……」
雨足は少し強まってきた。
慌ててレインコートを羽織った美沙が、会社の玄関の脇にとめていたバイクに跨がる。
フードを被り、その上にヘルメットを装着すると、彼女は柚葉に向かってにこりと笑った。
「じゃあね、ユズちゃん。お先!」
「うん、運転気を付けてね」
美沙は柚葉に手を振り、大五郎に会釈をしてバイクのエンジンキーを回した。
大五郎について疑問もあるだろうが、彼女は本人を前にして根掘り葉掘り尋ねるような無神経な人間ではない。
ただし明日、柚葉は改めて、美沙に質問攻めにされることだろう。
その予感にため息をつきつつ、柚葉はバイクで去っていく美沙から大五郎へと視線を移す。
そうして、彼が持ってきてくれた自分の傘を受け取り、それを開いて軒下から出た。
自転車は、やはり今夜は会社に置いていく。
「大五郎、一人できてくれたの?」
「うん。哲太は寝てるから」
こういう不測の事態に車で迎えにきてくれるのは、いつもは柚葉の大学生の弟、哲太だった。
だが彼は風邪をひいて、昨夜から熱を出して寝込んでいた。
そんな哲太は雨が降っているのに気づき、やはり柚葉を迎えに行くと言い出したらしい。それをベッドに押し止め、大五郎が一人で傘を持ってきてくれたのだと言う。
「バスじゃなくて、歩いてきたの!? と、遠かったでしょ?」
「平気だよ」
「会社までの道、よく分かったね」
「何度か哲太の車に一緒に乗ってきたから、道は覚えてた」
車で十分、柚葉の爆走自転車で十五分の道のりは、歩けば猶に三十分はかかる。
そんな慣れない遠い道のりを、大五郎が一人きりでとぼとぼと歩いてきたのかと思うと、柚葉はひどく申し訳ない気持ちになった。
柚葉よりも手足が長くなって歩幅もずっと大きいが、中身は幼い子供――大五郎は、生まれてまだ一年と少ししか経っていないのだ。
「ありがとうね、大五郎! 迎えにきてくれて、嬉しい!」
「うん」
柚葉が思わず瞳を潤ませて礼を言うと、大五郎は満足そうに、そして少し誇らしげな様子で微笑んだ。
そんな彼の緩く波打っていた長い髪は、少し前に本人に強請られて柚葉の母が短く切った。
新雪のようにまっ白なそれは、今はニット帽に押し込められている。
黒ぶちの伊達眼鏡も、白蛇特有の赤い瞳を目立たなくさせるために母がかけさせたらしい。
ダウンコートとジーンズは、哲太のクローゼットから拝借してきたのだと言う。
柚葉はそんな彼を連れて、バス停に向かおうとした。
しかし、続く大五郎の言葉を聞いて、その予定を変更することになる。
「ママさんに買い物も頼まれたんだ。柚葉と一緒に“スーパー”ってのに寄ってきてねって、お金も預かってきた」
「そうなの? スーパーに寄るなら、バスには乗らない方がいいね。それで、おかーさんに何を買ってくるように言われたの?」
「イチゴとでんぶ。――でんぶって、何?」
「魚のすり身を甘くピンク色にしたやつだよ。ちらし寿司の上とかに載せるの」
柚葉の答えに、魚――というか魚肉ソーセージがいまだに好物である大五郎は、興味深そうな顔をする。
対して柚葉は、そうか、と心の中で呟いた。
本日は三月三日、桃の節句――雛祭り。
毎年この日には、母は夕食にはちらし寿司を作り、ケーキを焼いてイチゴをたっぷり載せてくれる。
佐倉家の一姫である柚葉の健やかな成長と幸せを願い、雛人形の段飾りの前で家族だけの雛祭りが開催されるのだ。柚葉も哲太も大きくなり、誕生日パーティを開かれることはなくなっても、この桃の節句と端午の節句を盛大に祝う習慣は今もまだ続いていた。
さらには今年、佐倉家にめでたく二の姫が誕生した。
ミッドガルドの隣国ハプスブルクの皇帝候補を巡る陰謀に巻き込まれ、大五郎同様卵の状態で柚葉の子宮を経由してこの世界にやってきた、鷲の化身トメである。
こちらも急激な成長を経て、鷲のヒナから人間の幼女の姿になったばかり。
そんなトメに、母はせっせと柚葉のお下がりの洋服を着せ、我が子のように可愛がっている。
トメにとっては初節句とも言える今日、母が張り切るのも想像に難くなかった。
「今夜はちらし寿司とケーキかぁ。ハマグリのお吸い物、あるかなぁ」
「貝なら、台所に置いてあったよ。ママさんの料理は何でもおいしいから、好き」
雨に濡れた道を柚葉と並んで歩きながら、大五郎は母が聞いたら大喜びしそうな台詞を告げる。
声は低く艶やかな大人の男性のそれなのに、口調はまだどこかあどけない。
柚葉はそれを、とても可愛らしいと思った。
目的のスーパーは、柚葉の職場と佐倉家との中間くらいの位置にあった。
柚葉は大五郎を先に軒下に入れてから、それぞれの傘を畳んでビニールを被せる。
大五郎は初めてのスーパーに興味津々ながらも、いくらか不安もあるのか柚葉にぴたりとくっついた。
しかし、柚葉がカゴを手にすると、彼はすかさずそれを取り上げる。
「女の人に大きいものは持たせちゃだめだって」
「え~、平気なのに」
大五郎の突然の紳士っぷりに、柚葉は苦笑する。
しかし、空いた片手を握られて、今度は少しだけ頬を赤らめた。
今日の大五郎は帽子で白い髪を隠しているし、眼鏡もかけていて知らない男性のよう。だから、きっと照れてしまうのだ、と誰に対してか分からない言い訳をしながら、柚葉はスーパーの中へと足を進めた。
イチゴは、入り口近くの特設スペースに陳列されていた。赤くて大きい実が詰められたのを一パック選び、大五郎が持つカゴに入れる。
でんぶは、ちくわや蒲鉾などと一緒の練り物コーナーにあった。その鮮やかなピンク色に、大五郎は目を丸くしている。
続いて、せっかくスーパーに寄ったのだからと、柚葉はお菓子コーナーを物色に向かう。
大五郎もカゴを持っておとなしくそれに付いてきたが、ふとある棚の前で立ち止まった。
「大五郎、どうしたの?」
「ん……」
その棚には、掌大の箱がずらりと並んでいた。
パッケージには、人気のアニメキャラクターなどが描かれている。
小さなフィギュアなどの玩具に、申しわけ程度のガムやアメなどが添えられた、食玩と呼ばれる商品達だ。
その中で、大五郎の赤い瞳が熱心に見つめているものに気づき、柚葉は小さく笑みを浮かべた。
「大五郎、それほしいの?」
「ん……」
大五郎の視線を釘付けにしているのは、男子に人気の特撮ヒーローの食玩だった。
父と哲太とともに、大五郎が毎週日曜日の早朝の放映を楽しみにしているものだ。
せいぜい三百円程度の代物。柚葉がカゴに入れればと告げると、大五郎は頷きかけ――しかしすぐに首を横に振った。
「だめだよ……ママさんから頼まれたものじゃない……」
大五郎はそう言って、件の食玩から必死に目を逸らそうとする。
その健気な姿にきゅんとした柚葉は、彼の広い背中をぽんと叩いて提案した。
「じゃあ、私が買ってあげる。おかーさんから預かったお金を使わないならいいでしょ?」
「え、でも……」
「私は大五郎のママなんだから。そのくらい、買ってあげる」
「……いいの?」
普段、柚葉を「お嫁さんにする」と豪語している大五郎は、彼女が母親ぶろうとするとひどく嫌がるようになっていた。
しかしこの時ばかりは、思わずといった様子で顔を輝かせる。さらに……
「ねえ、僕だけ?」
「ん?」
「トメにもお土産買うんじゃなくて、僕だけ特別?」
「えーと……」
大人の姿になった当初、幼いトメに妬くようなことはもうないと告げた大五郎だが、実際は今でもまだ彼女に対してライバル心を抱いているらしい。
舌足らずな幼女相手に大人げなく見えるかもしれないが、大五郎だって中身はまだ子供なのだ。
柚葉はとたんに微笑ましい気持ちになり、トメには申し訳ないと思いつつも、内緒話のように声を潜めて返した。
「うん、大五郎だけの特別。雨の中、わざわざ迎えに来てくれたお礼ね」
「……やった!」
大五郎はそう声を弾ませると、黒ぶち眼鏡の下で赤い瞳を輝かせて食玩の棚の前にしゃがみ込む。
それを目にした柚葉は、ますます愛おしい気持ちになった。
そんな中、ふと大五郎は何か考えるような仕草をする。
かと思ったら、棚の前にしゃがんだまま、今度はおずおずといった様子で柚葉を見上げてきた。
「柚葉、あのさ。お願いがあるんだけど……」
「なーに? 他にもほしいものあるの?」
「うん、あの……これ、箱、二つほしい」
「同じのでいいの?」
首を傾げる柚葉に、大五郎は見た目に反したいとけない様子でうんと頷いた。
「一つは僕の。もう一つは、哲太の分」
「大五郎……」
大学生にもなった哲太は、おそらく食玩をほしがりはしないだろう。
だが、彼に対する大五郎の思いやりに柚葉は感動した。
もともと大五郎と哲太は、柚葉のことがなければ兄弟のように仲が良いのだ。
「大五郎は優しいなぁ……私、嬉しいよ」
ニット帽に包まれた大五郎の頭を、柚葉はよしよしと撫でてやる。
「柚葉が嬉しいと……僕も嬉しい」
大五郎はほんのりと目元を赤らめて、そう答えた。
柚葉の年齢に追いつきたいがために、様々な成長行程をすっ飛ばして大人になってしまった大五郎。
彼の心と身体が釣り合っていないことを、ミッドガルドの現皇帝であるナーガや、侍従長であるマングース人間ヘレットなどは憂う。
だが柚葉は、そんなこと少しも問題じゃないと思っているし、柚葉の両親も哲太も彼を静かに見守っている。
確かに大五郎の心と身体はアンバランスだが、情緒豊かで思いやりのある存在に成長していっている。
彼がミッドガルドの玉座に就くまではまだ百年ほどもあるというから、その頃にはきっと本当の意味での立派な大人に成長しているだろう。憂うことなどなにもない。
異世界人よりずっと寿命の短い柚葉は、そんな大五郎の晴れ姿を見届けることは、おそらくできないだろうけれど……。
「……」
そんなことを考えて、柚葉は少しだけ感傷的な気持ちになった。
しかし、それを振り払うように一つ息をつくと、特撮ヒーローの食玩の箱を二つ、買い物カゴに入れる。
そして、大五郎の肩をぽんと叩いて言った。
「大五郎、帰ろっか」
「うん、早く帰ろう。ママさんが待ってる」
レジで清算を済ませてスーパーを出ると、雨はすっかり止んでいた。
畳んだ傘を、柚葉は左手に、大五郎はスーパーの袋と一緒に右手に持った。
空いたお互いの手は、仲良く繋がれている。
柚葉としては、可愛い息子と手を繋いでいるだけのつもりだが、周囲の目にはそうは見えないだろう。
仲の良いカップル――にでも見えるだろうか。
そう思うと恥ずかしいような気もしたが、上機嫌な様子の隣の大五郎を見れば、柚葉は今更手を離すことはできなかった。
スーパーから佐倉家までは、歩いて十五分ほど。
雨が上がった空の下、濡れた道路を並んで歩く。
すっかり暗くなった帰り道に、隣の大五郎の存在が柚葉にはとても心強く思えた。
「大五郎、迎えにきてくれてありがとうね」
「うん。それ、柚葉さっきも言ったよ?」
「だって、嬉しいんだもん。何度でも言いたいんだよ」
「ふぅん。じゃあ、何度でも言っていいよ」
***********
柚葉と大五郎が帰宅すると、居間に組まれた雛壇の前にテーブルが置かれ、その上には夕食の用意が整っていた。
その前に陣取っていた哲太の額にはまだ冷却シートが貼られていたが、顔色は朝よりずっと良くなっていて柚葉はほっとする。
そんな彼女の足もとに、小さな塊がぴょんと飛びついてきた。
「ママ、おかえりっ!」
「ただいま~、トメちゃん!」
柚葉の帰りを今か今かと待ち構えていたトメである。
トメはひとしきり柚葉の足に擦り寄って甘えると、その後ろに立っていた大五郎をひょいと見上げて叫んだ。
「ダイゴロー、おかえりぃ!!」
「……ただいま」
大五郎の態度は相変わらず素っ気ないが、返事をしただけましである。
自分だけ柚葉に玩具を買ってもらって機嫌がよいのか、はたまたトメに対して抜け駆けしたような罪悪感でも感じているのか。
彼は柚葉に抱き上げられたトメの視線から逃れるように、哲太の方へと歩いていく。
そうして例の食玩の箱をスーパーの袋から取り出して、ぶっきらぼうに渡した。
哲太は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐさま照れくさそうに礼を言う。どうやら、大学生の彼も食玩が嬉しくないわけではなかったらしい。
形だけ大きくなった男子達の姿に、柚葉はトメの白く柔らかい髪に頬を寄せながらくすりと笑った。
柚葉と大五郎が買ってきたでんぶを載せて、本日のメインであるちらし寿司が完成する。
柚葉が期待した通り、ちゃんとハマグリのお吸い物も添えられた。
イチゴも綺麗に洗って皿に載せられる。
ただしイチゴはケーキ用ではなく、純粋にフルーツとして食すらしい。それを希望したのが実はトメだったと聞き、大五郎は少しばかりムッとした様子だった。
その後すぐに父も帰宅。一家が全員揃ったことで、雛祭りパーティが開始される。
四人家族だった佐倉家は、大五郎とトメ、そしてトメの世話係として居候している黒ウサギのジョンジョワールを加えて七人家族になった。
その上、夕食を食べ終わった頃には、佐倉家の人口密度はさらに増した。
柚葉と哲太それぞれの部屋のそれぞれのクローゼットを通って、ミッドガルドの皇帝ナーガと侍従長ヘレット、その隣国ハプスブルクの皇帝ラングラーがやってきたからだ。
大柄な皇帝二人と中型犬ほどの大きさのマングース人間を加え、総勢十名。
こぢんまりとした佐倉家の居間は、今にもパンクしそうだ。
そんな彼らが揃って見上げるのは、壁際に高く組まれた段飾り。
一段目に親王、二段目に三人官女、三段目五人囃子、四段目随身、五段目仕打、六段目と七段目には箪笥や長持などのお雛道具が並んでいる。魔除けを意味する緋色の布――緋毛氈が鮮やかで、その上に並べられた人形達の雅な着物もまた美しい。
十日前、柚葉の母はこれらを箱から出して飾り付けをした。
その時彼女が呟いていた言葉が聞き捨てならないものであったため、異世界大国の両皇帝陛下も今夜こうして佐倉家に集まってきたのだ。
「雛人形を片付けるのが遅れると、その家の女の子は嫁に行き遅れる……だっけ?」
この頃にはすっかり熱も下がっていた哲太が、雛壇を睨みつけてそう呟く。
それを耳にした男達は、様々な表情をした。
「行き遅れるも何も……そもそもユズは、現在私の伴侶となっているのだが」
と、中性的な美しい顔を不満げに歪めたのはナーガ。確かにミッドガルドにおける契約上、現在柚葉は彼と夫婦である。
「その契約が一刻も早く解除され、ユズハ殿に改めて求愛できるよう願いを込めて……僭越ながら、片付けを手伝わせていただく」
とはラングラー。大きな図体に似合わず純情一途な童貞皇帝は、雛壇の前にちんまりと正座した。
「嫁になら、俺が来年もらうから! 大学卒業したら、改めてプロポーズしてやるから!」
そんな人外皇帝陛下達を牽制するように、少し掠れた声で哲太も息巻く。既に就職先の決定している彼の言葉に冗談はない。
喧々囂々、とにもかくにも男達はせっせと雛人形の片付け始めた。
てきぱきとした彼らの様子に、自分が手を出す余地はなさそうだと判断した柚葉は、イチゴを頬張るトメを膝に抱いて傍観する。
母もその隣に腰を下ろし、ふふと愉快そうに笑った。
「ユズってば、モテモテねぇ~」
「うーん……」
「それで、誰にするか決められそう?」
「おかーさん……」
面白がっている様子の母に、柚葉は眉をしかめる。
哲太は弟としてとても大切に思っているし、一年余りの付き合いになったナーガも人間としては好きだ。不器用だが生真面目で人の良いラングラーにもそれなりに好感を抱いている。
しかし、彼らのうちから誰か一人を選ぶだなんて――しかもその一人と恋愛をするだなんて、今はまだ柚葉は考えることもできない。
そもそも二十歳を過ぎて突然やってモテ期に、彼女はろくに対処もできないままだ。
そんな柚葉の戸惑いを察している様子の母は、ただただ穏やかに告げた。
「あのねぇ、ユズ。ユズがお嫁に行き遅れたって、おかーさん全然かまわないから」
「ちょっ……おかーさん。なにそれ……」
唇を尖らせる柚葉にくすりと笑い、母は続ける。
「慌てて決めなくてもいいってことよ。じっくり吟味して……自分が後悔しない選択をしてちょうだい」
「え……?」
「ユズが決めた相手なら、それが誰であっても、おかーさんは全力で応援するから」
「おかーさん……」
いつもは飄々としている母だが、その言葉には重みがあった。
母は柚葉の父と死別し、その後哲太の父と出会って再婚した。
子連れ同士の再婚に迷いや不安もあっただろうが、それでも彼らは正しい選択をし、今確かに幸せな家庭を築いている。お互いの前の伴侶に対する想いは、胸の奥に大切にしまったまま……。
そんな父の方は、雛人形の片付けには参加せずに、部屋の隅でビールの缶を傾けていた。
「嫁になんていかなくていいのに! ずーっと、お父さんの子でいればいいのに!!」
「父上殿、お気持ち分かりますぞ」
「はい、飲んで飲んで。ぐっと飲んで」
酔って本音を口走る父を、黒いウサギとマングースが無責任に煽っている。
それに、母と顔を見合わせて苦笑した柚葉は、膝の上で円やかなほっぺをもぐもぐさせているトメを見下ろした。
「トメちゃん、イチゴおいしい?」
「おいしい! あまーい! ちゅっぱい!」
「ふふ、どっちだろ~」
「あまぢゅっぱい!」
舌足らずなトメの言葉に微笑み、柚葉もイチゴを一つ手に取った。
するとその時、突然目の前が陰った。
はっとして顔を上げようとした瞬間、柚葉の耳元に囁かれたのは……
「柚葉をお嫁さんにするのは、僕だよ。ナーガにもラングラーにも哲太にも、パパさんにだって邪魔させないんだから」
それは、低く艶やかな大人の男性の声だった。
母とは反対側の柚葉の隣に腰を下ろした、大五郎のものだ。
相変わらず口調はあどけないというのに、不覚にも柚葉の胸はドキンと高鳴ってしまう。
「もちろん、人形にだって邪魔させない」
大五郎はそう続けると、思わずまじまじとその顔を見つめる柚葉に向かい、いつもの無邪気な笑顔ではなく艶やかな大人の笑みを浮かべた。
「……!」
それを目にしたとたん、柚葉は両の頬が尋常ではなく熱くなるのを感じた。
慌てて大五郎から顔を背け、手に持っていたイチゴにかぶりつく。
イチゴは思ったよりも酸っぱくて、蕩けそうになっていた表情筋を見事に硬直させた。
「ママー、イチゴ、ちゅっぱいの?」
「うー……ちゅっぱい!」
膝の上のトメが首を傾げる。柚葉はきゅっと肩を竦めて、酸っぱい顔をした。
するとその口元に、新たなイチゴが押し付けられる。
「ふふ、こっちを食べなよ、柚葉。魔法をかけたから、きっと甘いよ」
そう言って大五郎が差し出したイチゴを、柚葉は反射的に口の中に迎え入れてしまう。
とたんに、彼女は悩ましげな表情をした。
(どうしよう、甘いよぉ……)
イチゴは確かに蕩けるように甘く、ついつい見上げてしまった大五郎の顔も、またたまらなく甘かった。
三月三日は雛祭り。
一年後も必ず巡ってくるこの日に、柚葉が三人の男達――いや、大五郎を加えた四人の男達から一人を選んでいるのか、いないのか。
あるいは、まったく別の人物の手を取っているのか。
それは、まだ誰にも分からない。




