名前
二日後、俺は自分の周りに立ち込める強烈な悪臭で目を覚ました。
バチバチと火を焚く音と共に、立ち込める煙。
野生の勘が働いたのか、二日間の昏睡状態の後にしては、我ながら素早い身のこなしでガバッと立ち上がる。
寝起きで記憶が混乱していたので、その音と悪臭で山火事だと勘違いしてしまったのだ。
「あ、悪い。起こしてしまったか?」
立ち上がった俺の背中に聞き覚えのある声が聞こえて、びっくりした俺は一瞬、飛び上がった。
振り向くと、全身、煤に塗れて真っ黒になったルアナが立っていた。
真っ黒い顔に口が大きく開き、真っ白な歯だけが異常に目立っている。
「ルアナ?こ、ここはどこだ!?この煙はなんだ!?」
「どこって・・・私の家だ。お前はここに辿り着くなり、床に倒れて二日間眠り続けてたんだぞ。邪魔だから隅まで引き摺っていったけど、お前デカイから重いのなんの・・・」
そう言って、ルアナはハハハ・・・と白い歯を見せて笑った。
そんな事より、俺はこの狭い木の小屋に立ち込めた白い煙と悪臭が気になって、周りをキョロキョロ見回す。
彼女が「家」と呼んだこの場所は、見る限り木でできた大きな箱のようなものだった。
俺が寝ていた隅と対極の場所に、炉があり、墨が真っ赤に燃えている。
その上にぶら下って燻されているのは、見るも無残に切り刻まれた動物の死体だった。
毛や羽はきれいに毟り取られて、頭部はついていない。
「動物の死体を焼いているのか?」
「煙で燻しておくと日持ちが良いんだ。半分がお前が寝ている間に商人が持っていった。後の半分はこうやって燻製にしておいて、蓄えがなくなった頃また売るんだ」
「・・・それは分かった。あんたは、ここで俺が寝ていたら一緒に燻されてしまうとは思わなかったのか?」
「外に出そうにも重くて動かせなかったんだよ。良く寝てたから、起こすの可哀想だったし・・・。でも、煙たくなったら起きるかなって思って、そのままにしておいた」
恐ろしい女だ。
あのまま眠っていたら本当に燻製になっていたかもしれない。
悪気はないのか、ルアナは機嫌良くニヤニヤ笑っている。
呆れてモノを言う気力もなくなった俺は、煙にむせ返りながら、ヨロヨロと外に出た。
空は満点の星空だった。
真っ黒なベールで覆われたような暗い空には月が出ていなかった。
外から見たルアナの家は、家と呼べるような代物ではなかった。
半分崩れかかった木造の燻し小屋だったのだ。
小屋の傍らには大きな広葉樹が一本立っていて、夜風に煽られてザワザワと音を立てている。
外の冷たい空気が、煙で火照った顔をサッと冷やしてくれた。
俺はその木の根元に座り込んで、背中を凭せ掛けた。
ヒンヤリした固い幹の感触が背中に心地良い。
その隣に、ルアナがチョコンと腰を下ろした。
「・・・なあ、怒るなよ。動かそうとは思ったんだ。でも、お前、ホントに重かったからさ。一緒にここまで荷車引っ張ってくれた恩人を燻り殺そうなんて思っちゃいないって」
ルアナは上目遣いに俺を見て、言い訳がましく小さく言った。
それを横目で睨んで、俺は溜息をつく。
短い付き合いだが、この女の性格が大体察しがついた。
悪気はないが気にする事もしない、動物みたいな雑把な人間だ。
「もういい。怒ってはいない。それより、あんたはどこで寝るんだ?あの状態じゃ、自分の寝床もないだろう」
「私はこの木の枝に網をかけて寝るんだ。一緒に寝るか?」
「・・・いや、いい」
云われたとおりに木の上を見ると、大きな網が枝に縛り付けてある。
木に登る習慣がない人狼一族には、高い所で眠る習慣はなかった。
猫じゃあるまいし、そんな所で狼の俺が落ち着く訳が無い。
俺達は木にもたれて並んで座ったまま、しばし無言で夜空の星を眺めていた。
「なあ、お前、本当は何て名前だ?」
突然、ルアナが空を眺めたまま、口を開いた。
「国境を越えたら名前をつけてくれる」約束だった事を、俺も唐突に思い出す。
「嘘言ってる訳じゃない。本当にないんだ。あんたがつけてくれるんじゃないのか?」
「本当にないのかよ・・・。ないと呼ぶ時に不便でしょうがない」
「ほら見ろ。名前がなくて困るのは、あんたの方だろ?」
「・・・そうだな。ないと呼びにくいのは私の方だ」
しばらく考えるように、ルアナは木にもたれたまま、夜空を仰いだ。
チラリと見たその横顔は、子供みたいにあどけなくて、少し綺麗だと思った。
「じゃ、アスラン!それだ、そうしよう!」
「アスラン?」
意味は良く分からないが、何となく響きが気に入って、俺も口の中で繰り返してみる。
「いいだろう。東の国じゃ、獅子のことらしい。強いお前にピッタリだな!」
「そ、そうか?獅子の意味か・・・」
狼が獅子の意味の名を付けられるとは、皮肉な事だ。
だが、初めて『処刑人』とか『クロ』とか以外の名前で呼ばれる事に、俺は嬉しくなった。
すっかりその名を気に入った俺は、それからアスランと名乗るようになったのだ。
尤もそれが、この国では代表的な飼い猫につける名前であり、ルアナが最近まで飼育していた猫の名前だったと知ったのは大分後になってからだった。




