第97話:家族会議と言い張る妻と、それを一ミリも信用できない夫
どっちもどっちな気がしなくもない
ノルマンディー公領、ルアン。
国王の作戦本部として使われている石造りの執務室には、
張り詰めた空気が満ちていた。
「――王妃殿下の身柄、無事に確保されました。お怪我もなく、
現在は王側の城にてお過ごしです」
報告を終えた騎士に対し、執務机の向こうにいたヘンリー二世は、短く頷いた。
「そうか」
それだけだった。
安堵を露わにするでもなく、怒りを見せるでもない。
ただ、頭の中に並べていた危険要素の一つに、
静かに線を引いたような顔をしている。
「アリエノール自身が南で動くことは、これでひとまず防げる」
その声には迷いがなかった。
「次は息子どもだ」
机の上には各地から届いた報告書と地図が広げられている。
若ヘンリー
リチャード
ジェフリー
フランス王ルイ
それぞれがどこにいるのか。
誰が誰と結びついているのか。
どの地域が不穏なのか。
ヘンリーは素早く視線を走らせ、次々と指示を出した。
「国境の動きをさらに見張れ。ルイと息子たちの連携を自由にさせるな。
味方につく諸侯と、様子見をしている者を分けて洗い出せ」
「はっ」
「兵站を崩す。正面から全部相手にする必要はない。動きの鈍いところから切れ」
「御意」
迅速
的確
迷いなし
家庭内の意思疎通は壊滅的なくせに、
国家規模の危機管理だけは腹立たしいほど有能である。
側近たちが次々に命令を書き留めていく中。
報告を終えたはずの騎士だけが、なぜかその場を動かなかった。
「……まだ何かあるのか」
ヘンリーが顔を上げる。
騎士は、ひどく言いにくそうな表情を浮かべた。
「は。その……王妃殿下が確保された際の、ご主張についてでございます」
「主張?」
ヘンリーの眉がわずかに動いた。
「何を言った。アキテーヌへ戻せとでも?」
「いえ」
騎士は一瞬ためらった。
「王妃殿下は、ご自身は反乱側へ合流するつもりではなかったと」
「…………」
「息子方を説得し、
全員を席につかせて家族で話し合うために北上していたのだ、と」
沈黙。
部屋の中の空気が、ほんの少しだけ変わった。
ヘンリーは騎士をじっと見た。
「……家族で話し合うために?」
「はい」
「身分を隠して?」
「はい」
「夜間に移動し?」
「はい」
「主要な道を避け?」
「……はい」
「行き先は、息子三人とルイのいる方角で?」
「はい」
長い沈黙。
そして、ヘンリーは深く息を吐いた。
「それを、私に信じろと?」
「い、いえ! 決してそのような――」
騎士は慌てて頭を下げた。
側近の一人が、堪えきれない様子で口を挟む。
「見え透いた言い訳でございましょう。身分を隠して
北へ向かっていたところを押さえられておきながら、家族会議などと」
「……いや」
ヘンリーが低く遮った。
側近たちが黙る。
「陛下?」
ヘンリーは片手で額を押さえた。
先ほどまでの冷徹な司令官の顔から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「……あいつなら、本気でそう思っていた可能性がある」
「は……?」
側近たちが揃って間の抜けた顔をした。
ヘンリーは、心底腹立たしそうに続けた。
「あいつは政治が分からんわけではない」
むしろ逆だ。
自分が動けばどう見られるか。
誰がどう受け取るか。
それくらいは分かっている。
「分かっていて、それでも自分なら止められると思うのだ」
ヘンリーは机の端を指で叩いた。
「息子どものところへ自分で行き、叱りつけ、
私まで席につかせれば話が収まる。各々の言い分を聞けば、
どこかで折り合える。……本気でそう考えていたのだろう」
「しかし、それでは……」
「ああ」
ヘンリーは苦々しく笑った。
「自分がそこへ向かうこと自体、
どれほど大きな意味を持つかも承知の上でだ」
長年。
あの女とぶつかってきた。
喧嘩もした。
取引もした。
意地を張り合い、領地を巡って揉め、子どもたちのことで何度も言い争った。
だから分かる。
アリエノールは、何も考えずに突っ走る女ではない。
むしろ。
考えて、考えた上で最後の最後に、
『でも私が直接行けば何とかなるでしょう』
と結論を出す。
そこが一番厄介なのだ。
「悪意があるなら、まだ分かりやすい」
ヘンリーは吐き捨てるように言った。
「陰謀なら潰せばいい。軍事行動なら止めればいい。
だが、あいつは本気で『争いを止めるため』に動いて、
その結果として周囲を動かす」
側近たちは何も言えなかった。
「本人が戦を望んでいなくても、
あいつが息子たちの側へ行けば、それだけで意味が生まれる」
アキテーヌ女公。
王妃。
息子たちの母。
広大な領地と、長年築いてきた人脈。
そんな人物が反抗する息子たちのそばに立てば、周囲が勝手に意味を見出す。
「だから止める」
ヘンリーは、はっきりと言った。
「本人の意図がどうであれ、今は自由にさせられん」
妻の言い分を理解していないわけではない。
理解した上で、それでも、切る。
そこに迷いはなかった。
「滞在先では、必要なものを不足なく用意しろ」
ヘンリーは再び王の顔に戻っていた。
「食事も衣服も粗末に扱うな。王妃としての体面は保て」
「はっ」
「ただし」
灰色の瞳が冷たく細められる。
「勝手に外へ出すな。手紙も自由には通すな」
「御意」
「……まったく」
ヘンリーは小さく息を吐いた。
「家族会議などと」
呆れている。
だが、完全に嘘だとは思っていない。
そこが余計に腹立たしい。
「さて」
ヘンリーは立ち上がり、地図の前へ進んだ。
「母親が捕らえられたと知れば、あの馬鹿どもは余計に騒ぐだろう」
若ヘンリー
リチャード
ジェフリー
それぞれの名が置かれた場所へ、視線を走らせる。
「ならば」
ヘンリーは地図上の駒を一つ動かした。
「目を覚まさせるしかあるまい」
妻の言い分を、誰よりも理解している。
息子たちがなぜ反発しているのかも、分からないわけではない。
その上で、全部まとめて力で黙らせようとする。
家庭内コミュニケーション能力、壊滅。
危機管理能力、化け物級。
こうして。
プランタジネット家の暴走戦車ことヘンリー二世は、
今日も家族問題を国家規模の実務能力で処理し始めたのだった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




