第93話:潜入ゲーム、敵AIの性能が高すぎる件
まぁ、でしょうねとしか。
ポワティエを夜陰に紛れて抜け出してから、二日目。
私たちは主要街道を大きく外れ、森沿いのぬかるんだ間道を北へ進んでいた。
地味な毛織の外套をまとい、フードを深く被りながら、私は内心で小さく拳を握る。
(……いける。これ、意外といけてるわ!)
今のところ検問には一度も引っかかっていない。
道ですれ違う木こりや農民たちも、こちらをちらりと見るだけで、そのまま通り過ぎていく。
誰も私を”アリエノール・ダキテーヌ”だとは思っていない。
たぶん。
おそらく。
きっと。
(男装、案外成功してるんじゃないの!?)
私は密かに自信を深めていた。
前世では会社と家の往復しかしていなかったが、
考えてみれば私は昔から目立つタイプではなかった。
休憩時間になれば静かに席を立ち、定時になれば気配を消して帰宅する。
いわば、歩くステルス社員。
その隠密性能が、まさか十二世紀になって役立つ日が来るとは思わなかった。
もっとも
私の護衛たちは、まったく同じ評価をしていなかったらしい。
むしろ出発初日から、全員が私の挙動に肝を冷やしていた。
原因は簡単。
四十年以上染みついた、貴族としての習慣である。
初日の夜。
私たちは街道から少し外れた、小さな旅籠へ立ち寄った。
馬を下りた私は、そのまま宿の主人の前へ進み、いつもの調子で声をかけた。
「部屋はあるかしら?」
背後で、護衛三人が同時に息を呑んだ。
「……?」
何。
どうしたの。
私が振り返るより先に、一人がものすごい勢いで前へ割り込んできた。
「お、おい主人! この旦那は少々喉を痛めておられてな!
酒を飲みすぎて声がおかしくなっているのだ! ハハハ!」
笑顔が引き攣っている。
宿の主人も困惑している。
私はさらに困惑した。
そこで初めて。
男装中なのに、普通に女性の声で喋ったことに気づいた。
(あっ)
危ない。
非常に危ない。
もっと早く言ってほしい。
いや、自分で気づけという話なのだが。
食事中も散々だった。
固いパンと塩漬け肉を前にしていると、護衛の一人が普段の癖で私の杯に手を伸ばした。
「女公殿、水をお注ぎいたし――」
空気が凍った。
本人も途中で気づいたらしい。
私も気づいた。
残りの護衛も気づいた。
全員が食器を持ったまま、見事な彫像になった。
宿の主人がこちらを見る。
「……女?」
「い、いや!」
護衛が慌てて声を張った。
「女、こう……女のように整った顔立ちの旦那、と申したのだ!」
「…………」
無理がある。
あまりにも無理がある。
私は無言でパンをかじった。
宿の主人も、それ以上は何も聞かなかった。
たぶん。
聞かない方がいい客だと思われただけだ。
それ以外にも、失敗は続いた。
長年、身分相応の乗馬や立ち居振る舞いが染みついているせいで、
どうしても旅慣れた庶民の男には見えないらしい。
護衛からは、
「もう少し肩の力を抜いてください」
「馬を下りる時に、そんなに優雅に裾を払わないでください」
「店の主人に頭を下げられても、当然のように受けないでください」
などと、次々に注意を受けた。
しまいには、フードを深く被りすぎて前が見えなくなり、
頭上の枝に真正面からぶつかった。
「ぐえっ!」
馬上で大きく仰け反った私を、護衛が慌てて支える。
「女公殿!」
「名前呼ぶなぁぁぁ!!」
森の中に、私の叫び声が響いた。
もう嫌だ。
この潜入ゲーム、操作性が悪すぎる。
さらに翌朝。
道端の小さな店で飲み物を買った時には、いつもの癖で銀貨を差し出し、
「釣りは取っておいて」
とやってしまった。
店主は目を丸くした。
「……旦那、どこぞの若君か?」
「…………」
私は黙って護衛を見た。
護衛も黙って私を見た。
その後、店を出てからものすごく怒られた。
「もっと普通にしてください!」
「普通って何よ!」
「普通の旅人です!」
「こっちは四十年以上、普通の旅人やったことないのよ!!」
無茶を言わないでほしい。
王妃歴二回。
女公歴、ほぼ人生全部。
庶民ロールプレイ初心者である。
それでもまだ捕まってはいない。
つまり。
結果だけ見れば、順調なのだ。
「ふふふ」
私は馬上で小さく笑った。
「この調子なら、案外簡単に北まで抜けられるんじゃない?」
護衛たちが一斉に嫌そうな顔をした。
「女公殿。そういうことを口に出すのは、おやめになった方が」
「なんでよ」
「嫌な予感がいたします」
「迷信でしょ」
私は鼻で笑った。
その瞬間。
どこか遠くで鳥が一斉に飛び立った。
「…………」
嫌な演出を入れるな。
一方同じ頃。
北では、王側の役人たちが静かに動いていた。
ポワティエから、王妃アリエノールの姿が見えなくなった。
その報告が届いた時点で、関係する街道や渡し場には注意が回されていた。
「王妃殿下が北へ向かわれた可能性がある」
そう告げられた騎士たちは、地図を囲みながら淡々と経路を確認していく。
「主要街道は?」
「すでに監視が置かれています」
「ならば、そちらは避けるだろう」
「少人数で移動される可能性も考えるべきでしょう」
「目立つ旗や随行団を伴うとは思えん。身分を隠している可能性もある」
「渡し場にも知らせろ。港も確認させる」
声に怒りはない。
誰かが机を叩くこともない。
ただ、必要な場所へ必要な指示が飛んでいく。
そして最後に。
「見つけても、決して手荒な真似はするな」
そう念を押された。
「王妃殿下であることを忘れるな。丁重にお迎えし、安全を確保せよ」
言葉だけ聞けば、実に穏やかである。
王妃を保護する。
安全を確保する。
大変結構。
ただし。
その意味するところは、だいたい一つだった。
『――逃がすな』
悪役の高笑いもなければ、復讐の雄叫びもない。
ただの事務処理。
しかし、こちらがどの道を選んでも、先回りするように警戒網が広がっていく。
潜入ゲームの敵AIとしては、あまりにも優秀すぎた。
そして夕暮れ。
私たちは森を抜け、ようやく大きな川へ向かう道が見えるところまで進んでいた。
「ほら!」
私は少し得意げに振り返った。
「見なさい。ちゃんとここまで来られたじゃない。やっぱり街道を避ければ――」
そこで言葉が止まった。
前方。
薄暗くなった道の先に、灯りが見える。
最初は一つだけだった。
それが、少しずつ増えていく。
道の向こうに、松明を持った人影が並び始めた。
「……あれ?」
私は目を細めた。
次の瞬間。
背後から、規則正しい馬蹄の音が聞こえた。
ドッ、ドッ、ドッ、と地面を叩く重い音。
ゆっくり振り返る。
先ほど抜けてきた林道から、騎馬の一団が姿を現していた。
さらに左右の茂みからも、武装した兵士たちが静かに出てくる。
誰も叫ばない。
矢も飛んでこない。
剣を振り上げる者もいない。
ただ少しずつ確実に。
こちらの進める方向だけが消えていく。
私は馬上で固まった。
隣にいる護衛も青ざめている。
「……ねえ」
「……はい」
「これ」
私は前を見た。
後ろを見た。
左右を見た。
全部いる。
「……完全に包囲されてない?」
護衛は答えなかった。
答えなくても分かる。
世界史八点ちゃんの脳内に、存在しないはずのゲームオーバー画面が静かに表示された。
潜入ミッション。
失敗
原因。
敵AIの性能が高すぎました
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




