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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第92話:潜入脱出ゲーム、装備が男装しかない件

行く前から結果がわかるやつ

深夜のポワティエ。


宮殿の奥にある衣装部屋で、私は蝋燭の控えめな明かりに照らされた姿見の前に立ち、

しばらく無言で自分の姿を見つめていた。


「……ねえ」


「はっ。何でございましょう」


背後には、真剣な顔で控える側近の騎士。


私は鏡を指差した。


「……無理ない?」


「大丈夫です」


「即答するな。もう一度よく見なさい」


鏡に映っているのは、長い髪を頭の上でまとめて布で覆い、男性用の毛織の外套を羽織り、

乗馬用の服とブーツを身につけた人物だった。


一応、旅装である。

一応、男性用である。


しかし。


「五十代女性が男物の外套を着ただけなんだけど?」


私は自分の胸元や肩を見下ろした。


「骨格も顔も別に変わってないよね? これ、誰がどう見ても

『男装しているアリエノール』じゃない?」


「いえ、遠目なら」


「今、『遠目なら』って言った!?」


即座にボロが出た。


遠目なら、ということは。

近くで見ればダメということである。


「だ、大丈夫です。夜のうちに移動いたしますし、フードを深く被っていただけば、

旅慣れた騎士か従者のように見えなくもございません」


「『見えなくもございません』って、二重否定で自信のなさを誤魔化すな!」


私は額を押さえた。

前世では、ハロウィンの仮装すらまともにした覚えがない。


会社と家を往復して、休みの日には適当に買い物をして、たまに友人とご飯を食べるくらいの、

ごく普通の地味な元OLだった。


それがなぜ。

五十を過ぎてから、中世の石造りの城で男装して夜逃げの準備をしているのか。


人生というものは、本当に先が読めない。

いや。

読めなさすぎる。


「違うのよ……」


私は自分の格好を見下ろし、小さく呟いた。


「私は別に、反乱軍の首謀者として逃げたいわけじゃないの」


目的は、ただ一つ。


パリに集まっている息子三人を捕まえること。


長男の若ヘンリー

次男のリチャード

三男のジェフリー


全員まとめて正座させて、


『お前ら、親父への当てつけで国家規模の戦争を始めるんじゃない』


と説教する。

それから、あの頑固な夫も含めて、ちゃんと話し合いの席につかせる。


家族会議。

兼、労使交渉。

兼、国家間調整。


……最後の一つだけ規模がおかしい気もするが、今さらである。


私としては、あくまで平和的な問題解決のために現場へ向かうだけなのだ。


ところが。

鏡の中の自分を見る。


男物の服

深く被ったフード

夜間移動

少数の護衛

監視を避けてパリへ向かう予定


「…………」


私は顔を覆った。


「客観的に見たら、完全に反乱側へ逃亡する王妃じゃないのよぉぉぉぉ!!」


弁明の余地が日に日に狭くなっている。


最初はただの夫婦喧嘩だった。

それが息子の待遇問題になり、アキテーヌの統治問題になり、

気づけば息子三人がフランス王のところへ集まり、

今度は自分まで男装してそこへ向かおうとしている。


誤解の積み重なりが、そろそろ建築物として世界遺産に登録されてもおかしくない高さへ達していた。


「女公殿」


側近が声を落とした。


「そろそろ出立の刻限です」


部屋の隅には、同行する護衛が数人だけ控えている。


私は人数を数え、眉を寄せた。


「……本当にこれだけ?」


「人数が多ければ目立ちます。主要な街道を避け、できるだけ人目につかぬ道を進まねばなりません」


「護衛を減らして安全になるって、発想がもうおかしいでしょうよ……」


「今回は、見つからないことが最優先です」


「分かってるけどさぁ……」


納得はできる。

納得はできるのだが。


護衛を増やせば目立つ。

減らせば危険。


どちらを選んでも安心できない。

実に嫌なゲームバランスである。


私は外套の前を合わせ、側近たちとともに衣装部屋を出た。

宮殿の裏手にある厩舎へ向かうと、そこには見慣れない地味な栗毛の馬が待っていた。


「……あれ?」


私は足を止めた。


「私の馬は?」


いつも使っている馬の姿がない。


代わりにいるのは、どう見ても目立たない旅用の馬だった。


「馬も変えていただきます」


馬丁が申し訳なさそうに頭を下げた。


「女公殿が普段お使いになる馬は、こちらではよく知られております。あまりに目立ちますので」


「…………」


私は栗毛の馬と馬丁を交互に見た。


「……私より馬の方が身バレするの?」


「少なくとも、あの馬は遠目でも目を引きます」


「馬に負けたぁぁぁぁぁぁ!!」


私の知名度、愛馬以下。


地味に傷つく。

ものすごく傷つく。


「女公殿、今はそこを気になさっている場合では」


「分かってるわよ!」


分かっているけれど、傷つくものは傷つくのだ。


私はぶつぶつ文句を言いながら、用意された栗毛の馬へ跨った。

乗り慣れていない馬の背は、いつもより少しだけ落ち着かない。

しかも今夜は、普通の旅ではない。


主要街道は避ける。

人目の少ない道を選ぶ。

できるだけ夜のうちに距離を稼ぐ。

王側の兵や役人に見つかったら、その時点で非常に面倒なことになる。


「……確認するけど」


私は小声で側近に尋ねた。


「捕まった場合、『息子を説教しに行く途中でした』って言って信じてもらえると思う?」


側近は少し考えた。


「……難しいかと」


「即答しないだけ、さっきより優しくなったわね」


優しくなっただけで、答えは変わっていない。


私は深々とため息をついた。


見つかれば、男装して密かに北へ向かうアリエノール・ダキテーヌ。

行き先は、夫に反抗する息子三人と元夫のいるフランス王宮。

どう考えても説明が難しい。


「私、ただ家族会議をしに行きたいだけなんだけどなぁ……」


本当に心の底から、”それだけ”なのに。

どうして家族会議へ行くのに、こんな軍事作戦みたいな準備が必要なのだろう。


「参りましょう」


護衛の一人が促した。

私はフードを深く被った。


夜の空気は冷たく、静かだった。

宮殿の裏手から、数頭の馬がゆっくりと外へ向かう。


大げさな見送りもない。

旗もない。

身分を示すものも極力外している。


まさに潜入ミッション。


「……頼むから」


私は馬上で小さく呟いた。


「今夜だけは、あのジャイアンの危機管理能力がポンコツになりますように」


きっとこんな時に限って、あの夫は、きっと仕事ができる。

家庭内では絶望的なくせに。

こういう時だけ恐ろしく有能なのである。


世界史八点ちゃん。


五十を過ぎて、まさかのステルス脱出ゲームへ強制参加。


装備は男装。

馬は代車。

護衛は最小限。

目的は家族会議。


そして失敗条件は――夫の部下に見つかること。


どう考えても。


「……クソゲーじゃない?」


誰も否定しなかった。


こうして

和平のために出発したはずの女公は、外から見ればどう見ても反乱側への逃亡者という、

最悪の見た目でポワティエを後にしたのだった。



※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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