第90話:息子が三人とも元妻の元夫のところにいるんだが(※夫、ついに妻を黒幕認定する)
だからリチャードを行かせるなと。
ノルマンディー公領ルアン、国王の作戦本部。
重苦しい沈黙が広間を支配する中、伝令の騎士が膝をつき、
絞り出すような声で報告を終えた。
「――以上です。ジェフリー殿もブルターニュを離れ、
フランス王宮へ入られました」
「…………」
執務机の上で組まれた、ヘンリー二世の太い両手。
その指先は、微動だにしない。
「若き王アンリ殿、リチャード殿、ジェフリー殿。三名とも、
現在ルイ王のもとにございます」
側近たちも、書記官たちも、騎士たちも息を止めて主君の顔色をうかがった。
この暴走戦車が激昂し、机を叩き割るか、
あるいは怒鳴り声を響かせるのではないかと身構えていたのだ。
だが、ヘンリー二世は怒鳴らなかった。
しばらく黙って報告を反芻したあと、冷え切った灰色の瞳をゆっくりと上げた。
「……アリエノールだな」
側近の一人が、思わず目を瞬かせた。
「……は?」
「三人が、ここまで都合よく同じ方向へ動くとは考えにくい」
ヘンリーは椅子にもたれ、低い声で続けた。
「若アンリがルイのもとへ逃げ込んだ。アキテーヌでは諸侯が私の統制に反発している。
アリエノールには領内を落ち着かせろと伝えたが、あいつは従うどころか、
こちらのやり方を批判する書状を送り返してきた」
そこで一度言葉を切り、机の上に広げられた地図へ目を落とす。
「その後、リチャードがパリへ向かうことを、あいつは止めなかった。
むしろ、出立を認めた。そして今度はジェフリーまで同じ場所へ向かった」
側近たちは黙って聞いていた。
ひとつひとつ取り出せば、それぞれに事情のある出来事である。
だが、並べてみると話が変わる。
長男がフランス王のもとへ逃げ、次男が合流し、さらに三男まで同じ場所へ向かった。
その母親は夫の方針に反対し、自らの領地では諸侯たちの不満を受け止めている。
しかも、その息子たちが集まった先は、アリエノールの元夫であるルイ七世の宮廷だった。
「筋が通りすぎている」
ヘンリーはそう呟き、地図の上のポワティエを指先で軽く叩いた。
「あいつがすべてを指揮しているとまでは言わん。
だが、息子たちの動きを止める気がないのは確かだ。
むしろ、この混乱を利用して、私に圧力をかけようとしている可能性がある」
「……王妃殿下が、そこまで?」
側近が恐る恐る尋ねた。
ヘンリーは鼻で笑った。
「アリエノールを誰だと思っている」
その言葉には、妙な確信があった。
アキテーヌの女公として育ち、フランス王妃となり、
十字軍へ赴き、離婚した直後に自分と再婚した女。
気位が高く、自分の領地への介入を何より嫌い、
息子たちのこととなれば一歩も引かない。
ヘンリーにとって、それはよく知っている妻の姿だった。
だからこそ。
「自分の領地と息子たちを守るためなら、元夫だろうが何だろうが使う。あいつならやりかねん」
側近たちは顔を見合わせた。
「なるほど……」
「確かに、若君方がこうも続けて動かれたとなれば……」
「王妃殿下が、少なくとも背後で支援しておられる可能性は……」
ヘンリーの眉間に深い皺が刻まれた。
「だから言ったのだ。南を落ち着かせろと」
家庭内の認識齟齬が、国際政治の重大案件へ昇格した瞬間だった。
そしてもちろん
本人は、そんなつもりではない。
その頃
遥か南、ポワティエ。
「違う違う違う違う!!!!!!」
私は頭を抱え、執務室の中を猛然と歩き回っていた。
「ジェフリーは勝手に行ったの!! 私、あの子の背中なんか一ミリも押してないから!!
そこは完全に無実!! 冤罪オブ冤罪!!」
机の上に置かれていた冷めた飲み物を、一気に喉へ流し込む。
胃が痛い。
頭も痛い。
最近、家族の報告を聞くたびにどこかしらが痛くなる。
「若ヘンリーは勝手に家出した! リチャードは『兄と話し合ってきなさい』って送り出したら、
なんか途中から戦う気満々になってる! ジェフリーなんて相談すらなしに自主参加!
なんでこの家の息子たちは、報連相の概念が全員まとめてログアウトしてんのよ!?」
前世の職場で、勝手に客先へ乗り込み、トラブルを火ダルマにして帰ってきた新人の顔が
一瞬だけ脳裏をよぎった。
あれが今、三人いる。
しかも、全員が王族。
前世よりタチが悪い。
私はただ、息子たちの待遇があまりに理不尽だから抗議したかっただけなのだ。
アキテーヌの権利を守りながら、夫をきちんと話し合いの席へ引きずり出したかっただけ。
平和的に、建設的に、できれば流血ゼロで解決したかった。
それなのに。
なぜか息子が三人とも、元夫のところに集まっている。
「……待って」
私は足を止めた。
急に、ものすごく嫌なことに気づいた。
「これ……向こうから見たら、どう見えてる?」
夫の命令には従わず、アキテーヌの諸侯たちの不満を聞き、
リチャードが兄のもとへ向かうことを認めた。
その後、ジェフリーまでパリへ合流し、結果として息子三人が全員、
私の元夫の宮廷へ集結している。
私はそこまで考えたところで、完全に固まった。
「…………」
やばい。
これは、かなりやばい。
「どう客観的に見ても、
私が全部裏で糸引いてるラスボスにしか見えないやつだこれぇぇぇぇぇぇ!!!!」
叫び声が執務室に響いた。
『家庭内労使交渉を求めていた苦労性のお母さん』という私の自己認識と、
外から見た現在地が、あまりにも違いすぎる。
私が認識している自分。
息子の待遇改善を求め、故郷の権利を守ろうとしている母親。
ヘンリー側から見えているかもしれない私。
息子三人を元夫のもとへ送り込み、南仏諸侯の不満を束ね、夫への包囲網を築きつつある陰謀家。
「いやいやいやいや!」
私は両手を振った。
誰も見ていないのに。
「若ヘンリーは自分で行ったの! ジェフリーも勝手に行ったの!
私が認めたの、実質リチャードだけだからね!? しかも戦争禁止って言ったからね!?」
当然、ルアンの夫には聞こえない。
非常に残念である。
私は机へ両手をつき、大きく息を吐いた。
「……これ、どうやって訂正すればいいのよ」
今さらヘンリーへ、
『誤解です。息子三人のうち二人は自主参加です』
などという手紙を送ったところで、
信じるだろうか。
……たぶん信じない。
むしろ、
『そういうことにしておきたいのだな』
などと深読みされる気がする。
「詰んでない?」
誰も答えない。
「ねえ、これ詰んでない?」
やはり返事はない。
十二世紀の執務室は、こういうとき非常に冷たい。
私は椅子へ沈み込み、両手で顔を覆った。
どうしてこうなった。
本当に、どうしてこうなった。
最初は、息子たちの待遇をどうにかしろという話だった。
アキテーヌに勝手な口出しをするなと抗議しただけだった。
それが今では、長男はパリへ逃げ、次男もそこへ向かい、
三男まで勝手に合流している。
そして、その三人を受け入れているのは私の元夫。
「……いや、待って」
私はゆっくり顔を上げた。
「これ、ヘンリーから見たら……私、完全に裏で全部回してる女じゃない?」
誰も答えない。
「息子三人を元夫のところに集めて、アキテーヌの諸侯まで抱え込んで、
夫に圧力かけてるように見えるよね?」
伝令が、非常に気まずそうに視線を逸らした。
「目を逸らすなぁぁぁぁ!!」
答えだった。
私は机へ突っ伏した。
違う。
私はそんな大それた作戦を立てた覚えはない。
むしろ今、自分でも状況についていけていない。
なのに外から見れば、着々と包囲網を組み上げる冷徹な女公。
「……私、いつの間にそんな有能な黒幕になったのよ」
誰も答えてくれない。
しかも、一番まずいのは…
その誤解を、今さらどう訂正すればいいのか分からないことだった。
「『違います、二人は勝手に行きました』って書いて……信じる?」
沈黙。
「……信じないよねえ」
私は深々とため息をついた。
世界史八点ちゃん。
本人の知らないところで、人生最大級に物騒な肩書が追加されつつあった。
『――反乱の黒幕候補』
なお、本人はその役職に応募した覚えすらない。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




