第88話:話し合いに来たはずの次男が一番戦う気満々な件
まぁリチャードだしね・・・
花の都パリ、シテ島のフランス王宮。
重厚な大広間に、革靴の音が響いた。
旅の埃をまとった少年が、長い脚で堂々と歩いてくる。
十五歳
アキテーヌ公リチャード。
のちに獅子心王と呼ばれることになる男は、この時点ですでに、
やたらと態度だけはでかかった。
「リチャード!」
駆け寄ったのは、長兄の若ヘンリーだった。
「来てくれたか!」
豪奢な衣装を揺らし、弟の肩を抱く。
「よく来てくれた! お前も父上の仕打ちには我慢ならなかったのだな!」
「兄上」
「私には王冠だけを与えて、実際には何も任せない!
諸侯の前では王扱いされるというのに、金も城も自由にならん!
あれでは、ただの飾りではないか!」
「兄上」
「私はただ、自分にふさわしい扱いを――」
「兄上」
「……なんだ?」
リチャードは、少しうんざりした顔で言った。
「長いです」
「…………」
若ヘンリーの顔が固まった。
「父上が話を聞かないなら、こちらにも力があると示せばいいでしょう」
「……力?」
「兄上にはフランス王がいる。俺にはアキテーヌがある。
ジェフリーにも、いずれ自分の立場がある」
リチャードは当然のように言った。
「俺たちが別々に文句を言うから、父上に軽く扱われるのです。
兄弟でまとまれば、父上も無視できません」
「おお……!」
若ヘンリーの顔が輝いた。
「そうだ! まさにその通りだ!」
「まずは要求をまとめましょう。それでも父上が聞かないなら――」
リチャードは、腰の剣へちらりと目を落とした。
「その時は、その時です」
「……なるほど!」
言い方を柔らかくしても、結論はだいたい腕力だった。
母親の教育。
惜しくも敗北。
そんな兄弟のやり取りを少し離れた場所から眺めていたフランス国王ルイ七世は、
静かに右手をみぞおちへ当てた。
(……神よ)
また一人増えた。
若アンリ一人だけでも感情の起伏が激しく、
何かあるたびに父親への不満を訴えてくるというのに。
そこへ今度は、南からもっと体格がよく、
もっと即物的な解決方法を好みそうな弟がやってきた。
(どうして私は、元妻の息子たちの進路相談までしているのだろう……)
もちろん。
政治的には好都合である。
ヘンリー二世の息子たちが次々と父親へ反発し、自分の宮廷へ集まってくる。
フランス王として見れば、これほど利用価値の高い状況も珍しい。
だが。
それと胃の平穏は別問題だった。
「父上」
裾を引かれた。
見ると、七歳のフィリップが菓子の皿を抱えて立っている。
「どうしたんだい?」
「あの方も、アンリ殿の弟なのですか?」
「ああ。リチャード殿だよ」
フィリップは、しばらく兄弟を眺めた。
「……また来たんですね」
「…………」
「アンリ殿のお家の人たち、みんな父上のところに来ますね」
「……そうだね」
痛い。
非常に痛い。
まるで、自分がアンジュー家専門の家出少年保護施設でも運営しているようではないか。
「父上」
「なんだい?」
「お父上と仲が悪いと、ここに来るのですか?」
「……必ずしもそういうわけではないよ」
ルイは遠い目をした。
七歳児にフランスとアンジュー家の封建関係を説明する気力は、今はなかった。
ルイは咳払いをして、国王らしい表情へ戻った。
「リチャード殿」
「フランス王陛下」
リチャードは姿勢を正した。
「よく参られた。道中は無事であったかな」
「はい」
「アキテーヌの様子はどうだろう」
ルイは少し間を置いた。
「……母君も、お変わりなく?」
「母上は元気です」
リチャードは即答した。
そして、胸を張る。
「母上も、俺たちの立場を理解してくださっています」
「……アリエノール殿が?」
「はい」
ルイの目が少し細くなった。
「俺が兄上のもとへ来ることも、母上は認めてくださいました」
「…………」
「アキテーヌの諸侯も、父上のやり方には不満を持っています」
リチャードは嘘を言っていない。
本当に、一つも嘘ではない。
母親は息子たちの立場を理解している。
リチャードを送り出した。
アキテーヌの諸侯がヘンリー二世の介入に不満を抱いているのも事実。
ただし。
『戦争は絶対にダメだからね』
『勝手に兵を動かすな』
『まずは話し合いだからね』
という母親からの重要事項については。
なぜか報告書から綺麗さっぱり抜け落ちていた。
都合の悪い箇所を削除したわけではない。
本人にとって、重要度が低かったのである。
十五歳男子の脳内議事録。
要点だけまとめた結果、母親が一番伝えたかった部分が消失した。
「……そうか」
ルイは考え込んだ。
アリエノールが、リチャードの出発を止めなかった。
しかも、アキテーヌでは諸侯たちの不満が高まっている。
これは軽い情報ではない。
元妻がどこまで息子たちに協力するつもりなのかは分からない。
だが、少なくともヘンリー二世の側に立って息子たちを押さえ込む気はないらしい。
「アリエノール殿も……腹を決めたということか」
ルイが小さく呟いた。
「はい?」
「いや、なんでもない」
リチャードは不思議そうな顔をした。
その横では、若ヘンリーがすっかり勢いづいている。
「陛下! これで我ら兄弟が揃えば、父上も考えを改めざるを得ないでしょう!」
「兄上、ジェフリーがまだです」
「……細かいことを言うな!」
「細かくありません」
兄弟喧嘩が始まりそうになった。
ルイは額を押さえた。
父親に反抗する前に、兄弟で揉めないでほしい。
本当に。
「ともかく」
ルイは二人を制した。
「今は、それぞれが何を望んでいるのかを整理することが先だ。
兵を動かすにしても、交渉するにしても、目的が定まらなければ話にならない」
「はい!」
若ヘンリーが勢いよく答えた。
「分かりました」
リチャードも頷いた。
ルイは二人を見比べる。
長男。
王冠はあるが実権がなく、そのことへの不満で爆発寸前。
次男。
アキテーヌを自分の土地だと考え始め、父親に介入されることを嫌っている。
そして南には、その二人の母親であるアリエノール。
さらに周囲には、ヘンリー二世の力が弱まるなら利益を得たい諸侯たち。
……なるほど。
胃は痛い。
だが、悪い状況ではない。
むしろ、フランス王として見れば絶好の機会だった。
「分かった」
ルイは静かに頷いた。
「まずは話を聞こう。そなたたちが父王に何を求めているのか」
若ヘンリーの表情が明るくなった。
リチャードも、満足そうに頷く。
その様子を見ていたフィリップは、菓子を一つ口へ放り込んだ。
(父上、さっきまでお腹を押さえていたのに)
もぐもぐ。
(急に元気になった)
大人というものは、よく分からない。
七歳児には、それくらいの感想しかなかった。
その頃。
遥か南、ポワティエ。
「…………」
私はテラスで白ワインを飲んでいた。
ぽかぽかと暖かい春の日差し。
穏やかな風。
実に平和である。
「……平和っていいわねえ」
最近、家族関係が地獄なので、余計にそう思う。
リチャードも、そろそろパリへ着いただろうか。
兄ときちんと話し合って。
ルイにも間に入ってもらって。
それから、父親との交渉の方法を考える。
うん。完璧。
今度こそ平和的解決へのルートに乗ったはずだ。
私はワインを一口飲んだ。
その瞬間。
「……ハッ!?」
背筋に悪寒が走った。
なに今の?すごく嫌な感じ。
まるで、自分の知らないところで何か重大なチェックボックスに
勝手に同意を入れられたような。
「……まさか」
私はグラスを置いた。
「余計なこと言ってないでしょうね……?」
ちゃんと言った。
私はちゃんと言ったのだ。
戦争するな
勝手に兵を動かすな
まず話し合え
あれだけ念を押した。
だから大丈夫。
大丈夫なはず。
「……ちゃんと全部伝えたわよね?」
返事はない。
「都合のいいところだけ切り取ってないよね?」
当然、返事はない。
私は遠い北の空を見た。
「……リチャード?」
同じ頃パリでは。
「母上も俺たちの立場を理解してくださっています!」
十五歳男子による脳内要約が、絶賛拡散中だった。
「…………」
世界史八点ちゃん、君はまだ何も知らない。
ただし。
嫌な予感だけは、恐ろしくよく当たるようになっていたのである。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




