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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第86話:父上、皆さん仲間なのに仲良くないんですか?(※解体業者、組織の構造的欠陥を学習中)

フィリップ側も時々挟んでいきます(`・ω・´)

1173年、春。

パリ、シテ島のフランス王宮。


重厚な執務机の上には、各地から届いた羊皮紙の書状が、

地層のように積み上がっていた。


その山を前に、両手で顔を覆っている男が一人。

フランス国王、ルイ七世である。


「……神よ」


深いため息が漏れた。


「どうして皆、自分の要求ばかりするのだ……」


若きアンリが父親のもとを飛び出し、フランス王宮へ駆け込んできてからと

いうもの、ルイの仕事は目に見えて増えていた。


ヘンリー二世に不満を抱く諸侯。

勢力拡大の好機と見る周辺の有力者たち。

そして、父親への反抗心を隠そうともしない若アンリ本人。


要するに。


アンジュー家の家庭内トラブルが、周辺諸国を巻き込む国際問題へと

発展しつつあるのである。


しかも、みんな目的が違う。


「……まったく」


ルイは書状を一枚取り上げた。


若アンリは、父親から実権を取り戻したい。

そのために、味方を増やさなければならない。

そこで彼が始めたのが、各地の有力者への約束だった。


フランドル伯には、ケント伯領やドーヴァー、ロチェスターの城など。

スコットランド王には、ノーサンバーランドをはじめとする北方の土地など。

支援を得るため、若アンリは実に気前よく条件を提示していた。


……ただし。

問題が一つある。


「……まだ自分のものでもない土地を、よくもまあ次々と」


ルイは額を押さえた。


そう。

約束された土地の多くは、現在も父ヘンリー二世の支配下にある。


つまり……

勝ったらあげます。

勝てなかったら知りません。


支払い能力が確定していない超大型後払い契約である。

しかも支払う予定の財産は、現在絶賛喧嘩中の父親のもの。


「……アンリ殿」


ルイは遠い目をした。


若い。実に若い。


いや、彼が不満を抱く理由は分かる。

王冠を与えられながら、実際の統治に関わる権限は乏しい。

それでは反発したくもなるだろう。

だからこそ、ルイも彼を受け入れた。


ヘンリー二世の巨大な勢力を抑える、絶好の機会でもあったからだ。

だが、それはそれとして。


「……もう少し、約束する前に相談してほしいものだが」


当然、支援する側にも思惑がある。


フランドル伯にはフランドル伯の利益があり、

スコットランド王にはスコットランド王の狙いがある。


誰もが純粋に若アンリの境遇を哀れんでいるわけではない。

その条件が食い違えば、調整しなければならない。


交渉

確認

譲歩

また交渉

そして、別の相手から新しい要求が届く。


……終わらない。


しかも、これほど苦労して調整しているというのに、

当の若アンリは相変わらず父親への怒りを募らせている。


「……神よ」


ルイは再び天を仰いだ。


自分が引き受けたことだとは分かっている。

分かっているのだが。


どうして私は、元妻の現夫とその息子の親子喧嘩を、

国家規模の交渉案件として処理しているのだろうか。


いや。

政治的な好機だと判断して受け入れたのは、ほかでもない自分なのだが。


「父上?」


そんなところへ、小さな声がした。

顔を上げると、七歳のフィリップが立っていた。


小さな手には、焼きリンゴの皿。

どうやら、おやつの時間らしい。


「……ああ、フィリップ」


ルイは慌てて背筋を伸ばした。


「どうしたんだい?」


「父上が難しいお顔をなさっていたので」


「……少し仕事が立て込んでいてね」


「また、アンリ殿のことですか?」


「…………」


ルイは黙った。


……この子。


最近、父親が難しい顔をしていると、

だいたいアンリという名前が関係していると覚えてしまったらしい。


間違ってはいない。

間違ってはいないのだが。

父親としては、少々複雑である。


「……そうだね。今はいろいろと調整しなければならないことがあるのだよ」


「調整?」


「皆が納得できるように、話をまとめることだね」


フィリップは、机に積み上がった羊皮紙を見た。


「皆さんは、あの若いアンリ殿のお味方なのですよね?」


「ああ。力を貸そうとしている者たちだよ」


「では、どうしてそんなにたくさんお手紙が来るのですか?」


「……それぞれ、望んでいるものが違うからだよ」


「望んでいるもの?」


ルイは一枚の書状を手に取った。


「戦に協力する者たちは、兵を出し、金を使い、危険を負うことになる。

その代わりに、土地や権利などを求めることもあるのだ」


「……贈り物ですか?」


「いや、贈り物とは少し違うね」


フィリップは首を傾げた。


「でも、お手伝いをしてくれた人に、何かあげるのでしょう?」


「……まあ、そういう面もあるかな」


「では、父上は皆さんに何を差し上げるのですか?」


「…………」


ルイは、静かに書状を置いた。


……困った。

非常に困った。


七歳児に封建社会の政治交渉を説明するのは、思った以上に難しい。


しかも、相手は自分の息子である。

適当なことを教えるわけにもいかない。


「……フィリップ」


「はい」


「皆が求めるものを、すべて与えられるわけではないのだよ」


「そうなのですか?」


「ああ。土地にも権利にも限りがある。それに、同じものを欲しがる者たちもいる」


「……同じものを?」


「そうだね」


フィリップは、しばらく考え込んだ。


それから焼きリンゴを一口食べ、もぐもぐと口を動かした。


「……じゃあ、もらえなかった人は怒るのですか?」


「怒ることもあるだろうね」


「お手伝いをやめちゃうのですか?」


「……そういうことも、あるかもしれない」


「…………」


フィリップは難しい顔になった。

どうやら、少し混乱しているらしい。


仲間なのに、欲しいものが違う。

手伝ってもらうためには、何かを約束しなければならない。

でも、約束したものを全部あげられるとは限らない。


「……大変ですね」


ぽつりと呟いた。


「本当にね……」


ルイは心の底から同意した。


七歳児にも心配される国家運営。

なかなか悲しいものがある。

だが、いつまでも胃を押さえているわけにもいかなかった。


ルイは姿勢を正し、息子に向き直った。


「フィリップ。よくお聞き」


「はい、父上」


「王というものは、自分の望みだけで人を動かせるわけではないのだよ」


ルイは静かに語り始めた。


「信仰も、忠義も、人を動かす大切なものだ。

だが、それだけですべてが決まるわけではない。

諸侯には守るべき土地があり、家臣がおり、それぞれの事情がある」


フィリップは真面目に聞いていた。


「だから、相手が何を望んでいるのかを知らねばならない。

何を守りたいのか、何を恐れているのか。

それを理解したうえで、できることとできないことを考えるのだよ」


「……欲しいものを、知るのですね」


「そうだね」


「それを、全部あげるのではないのですね?」


「ああ。全部はあげられないからね」


「……難しいです」


「そうだろうね」


ルイは微笑んだ。


実際、難しい。

自分だって、いつも思い通りにできているわけではない。


長年ヘンリー二世と渡り合ってきたが、

望んだ結果が得られなかったことなど、数えきれないほどある。


それでも王である以上、判断し続けなければならない。


祈っているだけでは済まないこともある。

もちろん、祈りを捨てるつもりなどないが。


「父上」


「なんだい?」


フィリップは、壁に掛けられた地図を見た。

以前、父親と一緒に眺めた地図である。


イングランド

ノルマンディー

アンジュー

アキテーヌ

あの、やたらとたくさん土地を持っている王様。


「アンリ殿のお父上も、皆さんが何を欲しいのか考えているのですか?」


「……そうだろうね」


「でも、息子さんたちは怒っているのですよね?」


「……そうだね」


「じゃあ、考えていても、うまくいかないことがあるのですね」


「…………」


ルイは、少しだけ驚いた顔になった。

それから、静かに頷いた。


「ああ。その通りだよ」


フィリップは納得したようだった。


父親が何を考えているのか

若アンリがどうして怒っているのか

諸侯たちが何を求めているのか


まだ、ほとんど分からない。

ただ、ひとつだけ覚えた。


『王様だからといって、何でも思い通りになるわけではないらしい』


……大変な仕事である。


「父上」


「今度はなんだい?」


「僕が王様になったら、皆さんのお話をよく聞くようにします」


「……そうだね。それがいい」


ルイは微笑んだ。

実に素直な息子である。


分からないことがあれば尋ね、教えれば一生懸命に覚えようとする。

今はまだ、政治の難しさなど理解できなくていい。

少しずつ学んでくれれば、それで十分だ。


そう考えたところで、フィリップが再び口を開いた。


「……でも、父上」


「なんだい?」


「若いアンリ殿は、皆さんにたくさん約束をなさったのですよね?」


「……そうだね」


「全部あげられるのですか?」


「…………」


ルイは、机の上を見た。


フランドル

スコットランド

その他、各地の諸侯たち


そこには、さまざまな思惑と条件が並んでいる。

もちろん、それらすべてが実現するとは限らない。


というより。

まず、ヘンリー二世に勝たなければ話が始まらない。


「……それは、これから考えなければならないね」


「そうなのですね」


フィリップは頷いた。

そして、もう一度焼きリンゴを食べた。


「……父上」


「…………」


ルイは、少し身構えた。


今度は何だ。

また答えにくい質問か。


「……おかわりをいただいてもいいですか?」


「…………」


ルイは息子を見つめた。

焼きリンゴの皿は、すっかり空になっている。


「ああ、もちろんだよ」


「ありがとうございます!」


フィリップは嬉しそうに笑い、皿を抱えて部屋を出ていった。


その小さな背中を見送りながら、ルイはようやく肩の力を抜いた。


……七歳。

まだ七歳なのである。


あの子には、これから覚えなければならないことが山ほどある。

今は、焼きリンゴのおかわりを気にしているくらいでちょうどいい。


いずれフランス王となる日まで、少しずつ教えていけばいいのだ。


もっとも。

その父親の教えが、将来どのような形で役立つことになるのか。


今はまだ、誰にも分からない。

後にアンジュー勢力と長く渡り合うことになる少年は、

今日もまた一つ、大人の世界について学んだ。


人は、それぞれ望むものが違う。

そして、王はその違いを考えなければならない。


それだけだった。


一方

息子が去ったあとも、ルイの仕事は終わらない。


「……陛下」


側近が、新たな書状を差し出してきた。


「こちらも、ご確認いただきたいのですが……」


「…………」


ルイは受け取った。


読んだ。

ため息をついた。

そして、静かに天を仰いだ。


「……神よ」


若アンリは父親への不満を訴え

諸侯たちは見返りを求め

周辺諸国は、それぞれの利益を計算する


そして、フランス王である自分は、そのすべてを調整しなければならない。


いや。

別に義務だったわけではない。

ヘンリー二世の勢力を弱める好機と見て、自分で引き受けたのだ。


それは分かっている。

分かっているのだが。


(……どうして私は、元妻の現夫の家庭内トラブルで、

これほど忙しくなっているのだろうか)


現場猫、痛恨の自爆案件である。


もっとも、今さら引き返すつもりなどなかった。

ルイは書状を机に置き、側近へ静かに指示を出し始めた。

先ほどまで胃を押さえていた男とは思えない、落ち着いた声だった。


信仰に篤く、真面目で、穏やかな王。

だが、政治的な好機まで祈って見送るほど、お人好しではない。


フランス王ルイ七世。

元妻の現夫が抱えた問題を利用して、

その巨大な勢力に揺さぶりをかけようとしている男である。


そして、その息子フィリップは。

そんな父親の背中を見ながら、少しずつ育っていた。


……なお。


本人はこのとき、焼きリンゴのおかわりを無事にもらえるかどうかの方が、

よほど重大な問題だったのである。


アンジュー帝国絶対解体マン。

現在七歳。

研修内容、政治交渉の基礎。


本日の最優先事項、おやつのおかわり。

まだまだ平和な研修期間中であった。


※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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