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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第85話:ワンマン社長の危機管理能力だけがカンストしている件

ヘンリーだしねぇ

1173年、春。

北フランス、ノルマンディー公領。

ヘンリー二世の滞在する城では、朝から側近たちが慌ただしく行き交っていた。


次々と届く報告。

机に積み上げられる書状。

そして、そのすべてに目を通しながら、恐ろしく不機嫌な顔をしている男が一人。


『イングランド王ヘンリー二世』


ノルマンディー公にしてアンジュー伯。

広大な所領を抱える、超絶有能なワンマン経営者。


通称、”暴走戦車”

もちろん、そう呼んでいるのは主に妻の脳内だけである。


「……で?」


執務机の向こうから、低い声が響いた。


側近たちは背筋を伸ばした。


「若き王アンリ殿は、引き続きフランス王ルイ陛下の庇護のもとにおられます。

周辺の諸侯にも、支援を求める動きがあるとのことです」


「それは聞いた」


「フランドル方面にも不穏な動きが見られます。

また、スコットランド王の動向についても、警戒が必要かと……」


「……まったく」


ヘンリーは深々とため息をついた。


「意味が分からん」


側近たちは黙った。


何が分からないのか。

聞かなくても、だいたい察しはついた。


「私は息子たちの将来を考えて、それぞれにふさわしい地位を用意している」


ヘンリーは指を折りながら言った。


「アンリには王冠を与えた。リチャードにはアキテーヌでの地位を、

ジェフリーにはブルターニュとの結びつきを用意した。

いずれ、それぞれがふさわしい立場を担うことになる」


「……はっ」


「それの何が不満なのだ?」


「…………」


来た。

本日の地雷原である。


長男には王冠。

次男にはアキテーヌ。

三男にはブルターニュ。

確かに、将来の配属先だけ見れば豪華絢爛だった。


王冠つき

領地つき

将来性抜群

親会社の社長が直々に用意した、超エリートコースである。


ただし……


決裁権は社長

財務管理も社長

現場の重要事項も社長が決める


息子たちは、立派な肩書をもらったものの、

実際に何をどこまで決められるのかとなると、途端に話が怪しくなる。


現代なら、役職だけ与えられて権限のない名ばかり管理職というやつである。


当然、若アンリは不満だった。

王冠まで被っているのに、父親の許可なしでは思うように動けない。


だが、ヘンリーからすれば話は違う。


広大な所領群を維持するには、強い統率が必要だった。

息子たちはまだ若く、それぞれの利害も一致していない。

ここで権限をばらばらに渡せば、諸侯たちまで勝手に動き始めかねない。


だから、今は自分が握る。


実に明快な理屈である。

そして、この男にとっては、その理屈がすべてだった。


「私が生きている間に、何もかも好き勝手にさせるわけにはいかんだろう」


「……ごもっともにございます」


「ましてや、弟たちの将来まで考えねばならんのだ」


そう言って、ヘンリーは机の上に置かれた別の書類を手に取った。


末息子ジョンの婚姻に関する取り決めである。

モーリエンヌ伯の娘との縁談。

その条件を整えるため、ヘンリーは幼いジョンに所領を与える構想を進めていた。


シノン

ルーダン

ミルボー


三つの城である。


これが、少々よろしくなかった。

というより、ものすごくよろしくなかった。


何しろ、若アンリはすでに自分の実権が乏しいことに不満を抱いていた。

そこへ父親が、まだ幼い末弟のために重要な城を三つ用意しようとしたのである。


若アンリからすれば、


『俺には自由にできる領地をろくに渡さないくせに、ジョンには城を三つ!?』


となる。


しかも、もともと父親のやり方に不満を募らせていたところへ、この話である。

親子関係に残っていたわずかな余裕を、見事に吹き飛ばした。


……のだが。


「末の子に将来の備えをしてやることの、何が悪い?」


ヘンリーは本気で不思議そうだった。


「アンリにはすでに王冠がある。兄として、弟の将来を考えるくらい当然ではないか」


「…………」


側近たちは一斉に視線を逸らした。


いや陛下。

その城の話で、若き王が激怒なさったのですが。


というか。

今回の家出騒動をこじらせた原因の一つ、それです。


誰かが言わなければならない。


誰が言う?

私は嫌だ。

私も嫌だ。

どうぞお先に。


……誰も言わなかった。


かくして、プランタジネット社の役員会議では、

本日も社長への忖度が満場一致で可決されたのである。


「まったく、アンリも少しは弟のことを考えればよいものを」


ヘンリーは不機嫌そうに書類を置いた。


本人としては、家族全員の将来を考えているつもりだった。

実際、考えてはいる。

ただし、本人たちの希望よりも、自分の構想が優先されるというだけで。


そこへ。


「陛下。王妃殿下より書状が届いております」


側近の一人が、封のされた羊皮紙を差し出した。


「アリエノールからか」


ヘンリーは顔を上げた。


「あいつなら、南の諸侯を抑える必要くらい理解しているだろう」


当然のようにそう言って、封を切る。


読み始めた。

数行進んだ。

眉間に皺が寄った。

さらに読んだ。


「…………」


そして。


「……あいつまで、何を言っているのだ?」


本気で理解に苦しんでいる顔だった。


書状には、息子たちの不満を無視すべきではないこと、

リチャードらを力ずくで従わせることには賛成できないこと、

そしてアキテーヌの統治については現地の立場も尊重してほしいことが、

丁寧に記されていた。


言葉遣いは穏やかだった。

内容も筋道立っている。

ただし、要するに。


『お前の言う通りにはしません』


ということである。


「…………」


ヘンリーはもう一度読んだ。

アリエノールの言いたいことは理解できる。


若アンリが不満を抱いている理由も、リチャードがアキテーヌで

自分の立場を確立したがっていることも、分からないわけではない。


だが、だからといって、彼らの要求を認めるのは別問題だった。


「……妻は、あの土地の諸侯を甘く見ている」


ヘンリーは低く呟いた。


「一度譲れば、次も求める。息子たちとて同じことだ。

今ここで秩序を崩せば、取り返しがつかなくなる」


側近たちは黙って聞いていた。


理屈は通っている。

問題は、その理屈を妻にも息子にも一方的に押しつけていることだった。


しかも。


「アリエノールも、最後には理解するだろう」


「……はっ」


理解はしているのである。

最初から。

ただ、賛成していないだけで。


しかし、この男の中では、相手が自分の説明を理解すれば、

いずれ同意するはずという妙な確信があった。


家庭内の意思疎通、絶望的。

夫婦間の合意形成、壊滅的。

部下の意見を取り入れる柔軟性、著しく不足。


現代企業なら、人事部とコンプライアンス部門が泣きながら退職届を書く案件である。


ところが


「……まあいい」


ヘンリーは書状を脇へ置いた。


「地図を出せ」


その一言で、部屋の空気が変わった。


側近たちが素早く動き、大きな地図を机へ広げる。


ヘンリーは身を乗り出した。


「フランス王がアンリを迎え入れた以上、こちらへの圧力に利用するつもりだろう。

周辺の諸侯も動くと考えておけ」


先ほどまでの不機嫌な父親は、もうそこにはいなかった。


地図を見つめる灰色の瞳は鋭く、声にも迷いがない。


「ノルマンディーの守りを確かめろ。国境に近い城の備蓄と守備兵を調べさせる。忠誠の怪しい諸侯については、動向を見落とすな」


「はっ!」


「イングランドにも知らせを送れ。北の情勢を警戒し、主要な港と城を確実に押さえさせよ」


「承知いたしました!」


「兵を動かすには金が要る。財務の状況を確認しろ。必要なら傭兵も用いる。

惜しむべきところと、惜しんではならんところを間違えるな」


次々と指示が飛ぶ。


無駄がない。

判断が早い。

報告を受けるたびに必要な情報を尋ね、地図を確かめ、命令を出す。


すでに敵が攻めてきた場所と、これから脅かされる可能性のある場所も、

きちんと分けて考えている。


まだ各地の動きが確定していない段階で、決めつけて兵をばらまくようなこともしなかった。


「すべての者がアンリに味方するわけではない。こちらにつく者もいる。そこを見誤るな」


「はっ!」


「ルイが何を約束したのか、誰がそれに応じたのか、確かな情報を集めろ。噂で軍は動かさん」


「承知いたしました!」


先ほどまで胃を押さえそうな顔をしていた側近たちも、今は必死で書き留めている。


この男は、政治と軍事に関しては恐ろしく有能だった。


二十年近くにわたり、海を挟んだ広大な所領を維持し、各地を巡り、

反抗する諸侯を抑え、時には交渉によって利害を調整してきた。


敵の主張も理解する。

敵が何を求め、何を恐れているかも考える。

譲ることで得られる利益と、譲らないことで生じる危険を比べることだってできる。


できるのである。


”他人”が相手なら。


ところが、これが自分の妻や息子になると。


『私が考えた方針なのだから従え』


に、なぜか変換される。


……何なのだ、この男。


軍事・危機管理能力はカンスト。

家庭内マネジメント能力は初期値未満。

ゲームだったら、明らかに能力値の振り分けを間違えたキャラクターである。


もっとも、本人にはそんな自覚などない。


「陛下」


一通りの指示が終わったところで、側近が恐る恐る口を開いた。


「……王妃殿下には、どのようにお返事を?」


ヘンリーは顔を上げた。


「アリエノールか」


「はい。アキテーヌにおける対応について、改めてお考えをお伝えになるのであれば……」


「必要ない」


即答だった。


「私の考えはすでに伝えた。あいつも、今がどういう状況か分かっているはずだ」


「……しかし、王妃殿下はリチャード殿のお立場を支持しておられるようで……」


「だからこそだ」


ヘンリーの声が低くなった。


「息子たちをこれ以上増長させるわけにはいかん。

アリエノールには、南を落ち着かせてもらわねば困る」


そこで、少し考える。


「……ポワトゥーの様子を詳しく調べさせろ」


「はっ」


「誰が王妃のもとに集まっているか。リチャードが何をしているか。

どの諸侯が不満を強めているか、報告を上げさせよ」


「承知いたしました」


それだけ言うと、ヘンリーは再び地図へ目を落とした。


妻が何を考えているのか。

息子たちがどうして父親を頼らなくなったのか。


本来なら、そこにも目を向けるべきだったのかもしれない。

だが、この男にとって今もっとも重要なのは、王権と所領の秩序を守ることだった。

家族もまた、その秩序の中にある。


少なくとも、本人はそう考えていた。


「……まったく」


ヘンリーは小さく呟いた。


「誰も彼も、勝手なことばかり考えおって」


「…………」


側近たちは黙った。

誰も何も言わない。

言えるはずがない。


だって。


(((陛下がそれをおっしゃいますか……!!)))


本日のプランタジネット社役員会議。


社長の危機管理方針、異議なし。

社長の家庭内マネジメント、改善の見込みなし。

なお、妻からの改善提案書は、事実上の回答保留となった。


こうしてヘンリー二世は、迫りくる政治的・軍事的危機への備えを着実に進めていった。


敵の動きには敏感だった。

諸侯の離反も、周辺諸国の思惑も、決して甘く見てはいない。


だが。

自分の妻が、次に何を選ぶのか。

そのことについては、まだ読み違えていた。


何しろ、アリエノールにとっての最優先事項は、夫の築いた巨大な所領群の維持ではない。


息子たち。

そして、アキテーヌ。


その二つを守るためなら、彼女がどこまで頑固になるか。

ヘンリーはまだ、十分に理解していなかった。


……まあ。


妻も妻で、夫をジャイアン呼ばわりしているあたり、

相手への評価はすでに相当ひどいことになっているのだが。


家庭内メガコーポ、経営危機への対応は万全。


ただし、経営陣の関係修復については、

もはや誰も責任者を引き受けたがらない状態だったのである。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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