↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
84/177

第83話:ジャイアンから業務命令が届きました(※私はお前の部下じゃねえ)

暴走洗車にブレーキはないようん。

───話は少し戻る。


長男の若アンリがパリへ飛び出して行ってから、数日が過ぎた。

南仏ポワティエの宮殿には、春の気配が少しずつ近づいている。


庭の木々には若芽が見え始め、テラスを吹き抜ける風も、

真冬の頃に比べればずいぶん柔らかくなった。


そんな穏やかな午後。

私は執務机に向かい、手元に届いたばかりの羊皮紙を睨みつけていた。


封蝋には、見慣れた印章。

夫、ヘンリー二世からの書状である。


「……ふぅ」


私は一度深呼吸した。


落ち着け、私。

感情的になるな。


前回のやり取りでは、息子たちにもっと裁量を与えるべきだと訴えた私に対し、

あの男は「まだ早い」「私が決める」の一点張りだった。


おかげで私は盛大にキレた。

だが、今回は事情が違う。

若アンリが家を飛び出し、よりによって元夫ルイ七世のところへ

転がり込んでしまったのだ。


家庭内の人事トラブルが、隣の会社を巻き込んだ騒動になりつつある。

ここは夫婦で協力して、どうにか事態を収拾するべきだろう。


そう。

まだ完全に決裂したわけじゃない。

話し合う余地はあるはずだ。


私はそう自分に言い聞かせながら、封を切った。

書かれていたのは、若アンリの行動に対する厳しい非難と、

今後の対応についてだった。


息子が父親のもとを離れ、フランス王の庇護を求めたことは、

単なる家庭内の不和では済まされない。

王家の秩序を揺るがし、周辺諸侯にまで動揺を広げかねない重大な問題である。


それゆえ、残る息子たちが同調することは断じて防がねばならない。


リチャードとジェフリーを父王の意向に従わせ、アキテーヌの諸侯たちにも

軽率な行動を取らせぬよう、女公として力を尽くすこと。


夫は、私の協力を当然のものとして求めていた。


「…………」


私は書状を机に置いた。

もう一度読んだ。


……うん。

言っていることは分かる。

分かるのだ。


若アンリは、ただの十八歳の青年ではない。

すでに戴冠した王であり、将来の後継者でもある。


その青年が父親に反発し、フランス王のもとへ走った。

しかも、そのフランス王はヘンリーにとって、

長年警戒しなければならなかった相手だ。


こんな事態を放置すれば、ほかの息子たちや諸侯まで動き始める可能性がある。

巨大な所領群を維持する立場からすれば、早急に対処したいのは当然だろう。


政治的な判断としては、十分に理解できる。


だが。


「……いや、待て」


私はもう一度、書状へ目を落とした。


リチャードを従わせろ

ジェフリーにも勝手な行動をさせるな

アキテーヌの諸侯を抑えろ


そして、お前も協力しろ


「…………」


いやいやいや。


「なんで全部、私が従う前提で話が進んでんのよ!!」


私は思わず机を叩いた。


あのね、ヘンリーさん?

分かるよ?

国王としての立場も分かる。

これ以上騒ぎを大きくしたくない気持ちも分かる。


でもさ。


「私の意見は!? 息子たちの意見は!? そこ全部すっ飛ばして業務命令かよ!!」


前回も言った。

何度も言った。

若アンリが不満を抱いている理由も、リチャードが父親の干渉を嫌がっていることも。


それなのに、この男ときたら…


息子たちに不満があることは承知している。

そのうえで、自分の方針に従わせることが最善だと信じているのだ。


「だから、それで揉めてんだろうが!!」


私は頭を抱えた。


ヘンリー二世

我が夫

アンジューの暴走戦車

家庭内メガコーポの創業者兼CEO兼最終決裁者


有能なのは認める

ものすごく有能だ

政治も軍事も、並の人間では到底真似できないほどの能力がある

判断も早い

行動力もある

しかも、自分が正しいと考える理由を、きちんと説明できる


ただし。

”人の話を聞かない”

いや、正確には違う。

”聞いて理解した上で自分の結論を変えない”



「……あんたの部下じゃないんだけど、私」


私は椅子に深く座り直した。


そもそも、アキテーヌは私が父から受け継いだ土地だ。

ヘンリーと結婚したからといって、何もかも夫の都合で決められていいわけではない。

リチャードだって、今ではこの土地にすっかり馴染んでいる。

本人もアキテーヌを自分の将来の基盤として意識し始めていた。


そこへ父親が、


「私の言う通りにしろ」


と命じれば、ますます反発するに決まっている。


……もっとも。


私にも、多少の自覚はあった。

私はリチャードをアキテーヌへ連れてきて以来、あの子がこの土地に馴染むことを喜んできた。

将来、私の故郷を託せる存在になってくれればいいとも思っている。

そして今、息子と夫の意見が対立したとき、どうしても息子の側に立って考えてしまう。

完全に公平な立場かと聞かれれば、そうではない。


それは分かっている。

けれど。


「だからって、何もかもあいつの言いなりになる理由にはならないのよね……」


私は書状を指先で叩いた。


アキテーヌは、私の故郷だ。

父が残してくれた土地であり、私が長い年月をかけて守ってきたものでもある。

その統治について、夫が私に相談することもなく当然のように方針を決める。

息子たちの将来まで、自分一人の判断で押し通そうとする。


その姿勢が、どうしても許せなかった。


おまけに

最近は、夫の女性関係についても、あまり愉快ではない噂が耳に入っていた。


「……あのクソ野郎」


私は小さく呟いた。

別に、女がいるならいるで構わない。

今さら夫婦で恋愛ごっこをするつもりもないし、

もともとそういう理由で結婚した相手でもない。


ただね?

こっちは息子たちの揉め事と領地の問題で頭を抱えているというのに。

あんたはよそで女まで作ってんのかい。


「……まず自分の家族を何とかしろよ、このクソボケが」


まあ、その話はいずれ改めて問い詰めるとして。


今は、それどころではない。


私はもう一度、夫の書状を読み返した。


読み返すほどに、気になることがあった。


これは、協力を求める手紙なのだろうか。

それとも、従うよう命じる手紙なのだろうか。


少なくとも、こちらの意見を尋ねるつもりはなさそうだった。


「…………」


私はしばらく考え込んだ。


ヘンリーにも守るべきものがある。


王権

広大な所領

長年かけて築き上げた支配の仕組み


息子たちの反発を放置すれば、それらが揺らぐこともあるだろう。


そして私は、アキテーヌと息子たちを守りたい。

互いに守ろうとしているものが違う。

いや、違うというより、優先順位が違うのだ。


だが、その違いを認め合わなければ、いつまでも平行線のままだ。


「……今度こそ、ちゃんと話をしないとね」


私は羽ペンを手に取った。


ここで黙って従えば、ヘンリーは自分の方針が了承されたものと考えるだろう。

そうなれば、息子たちの不満も、アキテーヌの問題も、結局何も変わらない。


だから、もう一度伝える。

ただし、前回のように感情的な言葉を並べるつもりはない。


あくまで冷静に、

理路整然と、

大人として、

私は新しい羊皮紙を広げ、ゆっくりと書き始めた。


若アンリの行動が王家にとって重大な問題であることは理解している。

しかし、彼の不満そのものを無視しては、根本的な解決にはならない。

リチャードやジェフリーについても、ただ父親の命令に従わせようとすれば、

かえって反発を強める恐れがある。

アキテーヌの諸侯たちに対しても、女公として秩序を保つ努力はする。


けれど、それは彼らの権利や慣習を無視して、

夫の意向を一方的に押しつけるという意味ではない。

まずは、息子たちの声に耳を傾けるべきではないか。


そうした内容を、できる限り丁寧に書き連ねた。


もちろん、私自身の考えも明確にした。

リチャードの意思を無視して父親の方針を押しつけることには賛成できない。

アキテーヌの統治については、私とこの土地の諸侯たちの立場も尊重してほしい。


そして何より。

これ以上、家族の対立を深めるような対応は避けるべきだ。


「…………」


書き終えた私は、最初から読み直した。


うん。


我ながら冷静だ。

実に建設的。

前世の職場なら、上司への改善提案書として提出してもおかしくない内容である。


……もっとも、あの男が相手では、改善提案書というより再審査請求書かもしれないが。


私は書状を巻き、封をするよう命じた。


これで少しは考え直してくれればいい。


少なくとも、私の言いたいことは伝わるはずだ。


あいつは理解力のない男ではない。

むしろ、人並み以上に頭が切れる。

こちらが何を言いたいのかも、どうしてそう考えるのかも、きっと理解できる。


問題は

”理解したうえで、どうするか”

そこなのだ。


私は窓の外へ目を向けた。

庭には、まだ春になりきらない柔らかな陽射しが降り注いでいた。

今はまだ、いつもと変わらないポワティエの宮殿である。


人々は働き、騎士たちは訓練し、遠くからは鳥の声も聞こえてくる。


できれば、この穏やかな日々を失いたくない。

息子たちとも、夫とも、もう少しまともに話し合えれば…


「きっと、まだ間に合う。」


私はそう思っていた。


けれど。

私が書いたのは、単なる夫への苦情ではなかった。


息子たちへの対応をめぐって、夫の方針に明確な異議を唱え、

アキテーヌ女公として譲れない立場を示した書状でもあった。


ヘンリーがそれをどう受け取るか。


そこまで、私が決められるわけではない。

そして、すでに若アンリはフランス王のもとにいる。

父親と息子の対立は、私たち夫婦の話し合いだけで解決できる段階を過ぎつつあった。


そんなことを、頭では分かっていたはずなのに。


「……今度こそ、話を聞きなさいよ。ジャイアン」


私は小さく呟いた。


少なくともこの時の私は、まだ夫を説得できると思っていた。

あの暴走戦車にも、どこかにブレーキくらいはついているはずだと。


……ついてるよね?


さすがに、それくらいは。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。