第81話:父上、あの人たち、仲が悪いんですか?(※将来の解体業者、現場見学中)
フィリップは見ていた |•ω•。)"
1173年、早春。
まだ肌寒い風が吹き抜けるパリの王宮は、
ここ最近、妙に慌ただしくなっていた。
騎士たちの甲冑が擦れ合う音。
慌ただしく行き交う伝令。
そして、大広間から聞こえてくる貴族たちの話し声。
いつもは祈りと政務を中心に、比較的静かな時間が流れている宮殿が、
まるで別の場所になったようだった。
七歳のフィリップは、回廊の太い石柱の陰から、大広間をじっと見つめていた。
日課の祈祷と文字の勉強を終えたばかりだったが、どうにも気になる人物がいる。
豪奢な毛皮を羽織り、上等な衣服を身につけた、十八歳ほどの青年。
父ルイ七世の側近や貴族たちに囲まれ、身振り手振りを交えながら何かを熱心に語っていた。
時折、笑い声が上がる。
けれど、フィリップには少し不思議だった。
あの青年は笑っているのに、どこか怒っているようにも見えるのだ。
「フィリップ、こんなところで何をしているんだい?」
背後から声をかけられ、フィリップは振り返った。
書類を小脇に抱えた父ルイ七世が、いつものように穏やかな、それでいて少し疲れた顔で立っていた。
「父上!」
フィリップは小走りで駆け寄ると、大広間を指差した。
「あの方は、どなたですか?」
「イングランドの若き王、アンリ殿だよ」
「イングランドの王様?」
「そうだ」
フィリップは首を傾げた。
「でも、イングランドの王様は……いつも父上が地図を見ながら
難しい顔をしている、あのアンリ殿では?」
ルイの眉尻が、ぴくりと下がった。
息子はよく覚えている。
確かに、地図を広げるたびに出てくる名前だ。
『アンリ』
イングランド、ノルマンディー、アンジュー、そしてアキテーヌ。
あの男は、あまりにも多くの土地に関わっている。
「……その息子だよ」
「息子?」
「そうだ。同じ名前なのだ」
「同じ名前なのですね」
フィリップは、もう一度大広間を見た。
「でも、あの方も王様なのですか?」
「ああ。父君が存命のうちに戴冠している」
「……王様が二人?」
「そうだね」
「二人いてもいいのですか?」
「……いい場合もある」
ルイは少し困ったように答えた。
そもそも、生前に後継者を戴冠させること自体は、
フランス王家でも行われてきたことだ。
ルイ自身、父王の存命中に戴冠している。
問題は、王冠を与えたあとだった。
若きアンリには王の称号がある。
しかし、実際に自由にできる領地や収入、権限は乏しい。
父親であるヘンリー二世が、そのほとんどを握ったままなのだ。
「では、なぜこちらにいらっしゃったのですか?」
フィリップは素直に尋ねた。
ルイは少し考えてから答えた。
「……父君と、意見が合わなかったらしい」
「意見が?」
「そうだ」
「喧嘩をなさったのですか?」
「……まあ、そのようなものかな」
ルイは曖昧に微笑んだ。
”喧嘩”
七歳の子どもに説明するなら、それが一番分かりやすい。
ただし、今回の喧嘩は少々規模が大きかった。
王冠を被せたのに、実権は渡さない父親。
王なのだから、自分にも統治する権限があるはずだと主張する息子。
そして、とうとう父親のもとを飛び出し、フランス王の庇護を求めた若アンリ。
しかも、この青年はルイの娘マルグリットの夫でもある。
つまり娘婿だ。
その父親は、ルイの元妻アリエノールと再婚した男である。
……家系図が少々ややこしい。
もっとも、ルイが若アンリを迎え入れたのは、
単に親戚だからという理由ではなかった。
ヘンリー二世の巨大な勢力は、長年フランス王権にとって悩みの種だった。
その内部で親子が対立している。
フランス王として、この機会を見過ごすわけにはいかない。
「父上?」
考え込んでいたルイは、息子の声にはっとした。
「ああ、なんだい?」
「王様なのに、お父上の言うことを聞かなければならないのですか?」
「…………」
返事に詰まった。
王冠を持つことと、実際に政治を動かすことは、必ずしも同じではない。
だが、そんな複雑な事情を七歳の息子にどう説明すればいいものか。
「……王であっても、守らねばならないことはあるのだよ」
「そうなのですね」
フィリップは真面目に頷いた。
少し考え、それから別の質問をした。
「では、父上」
「なんだい?」
「王様が二人いると、喧嘩になるのですか?」
「…………」
ルイは息子を見つめた。
そこには悪意も皮肉もない。
ただ、目の前で起きている出来事を理解しようとする、
子どもの素直な疑問があるだけだった。
「……なることも、あるね」
「そうですか」
フィリップは納得したように頷いた。
「では、僕が王様になるときは気をつけます」
「……何をだい?」
「父上と喧嘩をしないようにします」
「…………」
ルイは、なんとも言えない顔になった。
実に立派な心がけである。
父親としては喜ぶべきなのだろう。
何しろ、自分自身もかつて父王の存命中に戴冠している。
「……そうだね。互いの立場を理解することが大切なのだよ」
「はい!」
よくできた息子だった。
祈りを欠かさず、勉強にも熱心で、父親の言葉にも素直に耳を傾ける。
少なくとも今のところ、家を飛び出して他国の王を頼るような心配はない。
ルイは少し安心した。
ところが。
「父上」
「なんだい?」
「では、あの方はどうして父上のところへ来たのですか?」
「……うん?」
「お父上と喧嘩をしたのなら、仲直りすればいいのに」
「……それが難しいのだよ」
「でも、こちらへ来ても喧嘩は終わりませんよね?」
「…………」
その通りだった。
そもそも仲直りするために来たわけではない。
若アンリは、父親に対抗するための後ろ盾を求めているのだ。
もちろん、そんな事情をフィリップが知るはずもない。
「……あの方がここにいると、お父上は困るのですか?」
「どうして、そう思うんだい?」
「だって、ヘンリー殿のお父上は帰ってきてほしいのでしょう?」
「……そうだろうね」
「なのに、あの方は帰らないのですよね?」
「そうだね」
「だったら困りますね」
「…………」
ルイは息子を見つめた。
フィリップは、ただ当たり前のことを言っているつもりだった。
父親と喧嘩をした息子が、別の家に行ってしまった。
帰ってきてほしいのに帰らない。
それでは困るだろう。
ただ、それだけの話である。
だが、ルイにとっては違った。
あれほど強大なヘンリー二世であっても、
自分の息子たちを思い通りにはできない。
巨大な領地をまとめ上げる能力があっても、
家族の気持ちまで支配できるわけではない。
そして、その亀裂は、周辺諸侯や王たちにとって政治的な機会にもなる。
「……父上?」
「なんでもないよ、フィリップ」
ルイは息子の頭を撫でた。
「さあ、そろそろ部屋へ戻りなさい。まだ勉強が残っているだろう?」
「はい」
フィリップは素直に頷き、父親の手を取った。
そのまま歩き出しかけて、ふと大広間を振り返る。
豪華な衣服を着た若アンリは、相変わらず貴族たちに囲まれていた。
王様なのに、お父上と喧嘩をしている
王様なのに、自分の国へ帰れないらしい
どうにも不思議だった。
「父上」
「……今度はなんだい?」
「あの方は、マルグリット姉上のお婿様ですよね?」
「ああ、そうだよ」
「では、僕の義兄上ですね」
「そうなるね」
フィリップは少し嬉しそうに笑った。
「だったら、仲良くしたいです」
「……そうだね」
ルイも微笑んだ。
素直で、よくできた子だ。
まだ政治の難しい事情など知らなくていい。
そう思ったところで。
「でも、父上」
「……まだ何かあるのかい?」
「父上は、あの方のお父上とは仲が悪いのですか?」
「…………」
ルイは天井を仰いだ。
神よ。
なぜ、この子はこうも答えにくいことばかり尋ねるのでしょうか。
「……仲が悪いというわけではないのだよ」
「そうなのですか?」
「ああ。立場が違えば、意見が合わないこともあるのだ」
「では、喧嘩をしているのですか?」
「…………」
ルイは考え込んだ。
しばらくして、深いため息とともに答えた。
「……そう見えることもあるだろうね」
「そうですか」
フィリップは真面目に頷いた。
そして、心からの感想を口にした。
「大人は大変ですね」
「…………」
まったくである。
ルイは、心の底からそう思った。
その日の夕刻。
フィリップは、以前父親と一緒に眺めた地図を思い出していた。
イングランド
ノルマンディー
アンジュー
そして、アキテーヌ
父親がいつも難しい顔で見つめていた、あの広大な土地。
地図の上では、一つにつながった大きな勢力に見えた。
けれど、そこに暮らす人たちは、必ずしも仲がいいわけではないらしい。
王様でも喧嘩をする。
王様の息子でも、父親の言うことを聞きたくないときがある。
そして、そんな息子が、別の王様を頼ってやって来ることもある。
(……不思議だなあ)
フィリップは首を傾げた。
今の彼は、まだ何も企んでいない。
誰かの領地を奪おうとも、巨大な王家を打ち倒そうとも考えていない。
ただ、父親の話を聞き、目の前で起きていることを
一生懸命に理解しようとしているだけだった。
そして、ひとつだけ決めた。
自分が王様になるときは、お父上と喧嘩をしないようにしよう。
実に素直な、父親思いの七歳児である。
なお。
この六年後、フィリップ自身も父ルイ七世の存命中に戴冠することになる。
そして、さらに時が流れれば。
父が長年警戒し続けてきたアンジュー勢力と、
今度は自分自身が向き合うことになるのだが。
もちろん、今の彼はまだ知らない。
ただ一つ。
(……あんなに広い土地を持っていても、みんな仲良しとは限らないんだな)
そんなことを考えながら、少年は再び勉強へと戻っていった。
遠く離れた場所では、ヘンリー二世とその息子たちの対立が、さらに深まろうとしていた。
そしてルイ七世は
今日もまた、アンリという名前が並ぶ書類を前に、静かに胃を押さえていた。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




