第78話:待って、その人事異動、本人たちに確認した?
結局こうなる(`・ω・´)
「アキテーヌでスローライフ! 私の人生、だいたいクリア!」
そんなことを考えながら、葡萄酒片手にすっかり余生気分へ入っていた、
その少し後のことだった。
執務室の扉が勢いよく開いた。
「アリエノール!」
来た。
嫌な予感のする声とともに入ってきたのは、泥のついた長靴を履いたままの夫、
ヘンリー二世である。
相変わらず落ち着きというものがない。
「何」
「子どもたちの将来について決めた」
私は杯から静かに手を離した。
「……嫌な書き出しだな」
前世で月曜の朝一番に届く、
『今後の組織体制について』
という件名の全社メールと、ほぼ同じ悪寒がした。
ヘンリーは私の顔など気にも留めず、大きな地図を机の上へ広げた。
「息子たちも育ってきた。いずれ私の持つ土地を、それぞれに継がせなければならない」
「まあ、それはそうね」
「まずアンリ」
若アンリ。
私たちの間に生まれた、今では長男として扱われる息子だ。
「いずれイングランドとノルマンディー、それにアンジューを中心とした土地を継がせる」
「うん」
「王としても立てるつもりだ」
「……うん?」
少し引っかかった。
だが、ヘンリーは止まらない。
「ジェフリーはブルターニュとの婚姻を進める。あちらとの結びつきを固めればいい」
「それで?」
「リチャードにはアキテーヌだ」
「…………」
私は腕を組んだ。
まあ、”リチャードにアキテーヌ”。
そこだけ聞けば、悪くない。
あの子は南の土地によく馴染んでいる。
言葉も覚えた。
諸侯たちとも顔馴染みになった。
本人もこの土地を気に入っている。
むしろ私自身、
(いつかこの子が継いでくれたら)
くらいには思っていた。
「……なるほど」
珍しく、ちゃんと子どもの適性を見ているらしい。
そう思った。
ほんの数秒だけ。
「……待って」
「何だ」
「なんで私の土地の後継者を、お前が決定事項みたいに発表してるの?」
ヘンリーがこちらを見る。
「リチャードに継がせるのは、お前も異論がないのだろう?」
「そこじゃない!」
私は地図を指差した。
「アキテーヌは私の土地でしょ!リチャードに継がせたいかどうかと、
アンリが勝手に『はい、ここはリチャード!』って人事表作るのは全然別の話だからね!?」
「結果が同じなら問題ないだろう」
「結果だけ見んな!!」
出た。
こういう男だった。
会議など必要ない。
自分が最適解を出せば、それで全員納得すると思っている。
「本人たちには話したの?」
「これから話す」
「決めた後に!?」
「先に方針を決めなければ話にならん」
「順番がおかしい!!」
私が叫んでいると、後ろから声がした。
「父上」
振り返る。
若アンリだった。
いつからいたのか分からない。
ただ、どうやらかなりの部分を聞いていたらしい。
「私を王として立てる、というのは本当ですか?」
「ああ」
ヘンリーは当然のように頷いた。
「いずれ王冠を与える。お前は私の後を継ぐのだからな」
若アンリの顔が、わずかに明るくなる。
「では、私に任せてくださる土地は?」
「将来は十分にある」
「……将来?」
「ああ」
「今は?」
ヘンリーは眉をひそめた。
「今はまだ早い」
若アンリの表情が止まった。
「ですが、王になるのでしょう?」
「だからこそ学べ」
「何をです?」
「統治をだ」
「どこを治めながら?」
「私のそばで見ればいい」
「…………」
部屋の空気が、少しだけ冷えた。
若アンリはしばらく黙っていた。
「自由に使える収入は?」
「必要なものは与える」
「自分で決められることは?」
「まずは私から学べ」
「……つまり」
若アンリは、ゆっくり父を見る。
「王にはする。だが、実際に何かを治めるのは、まだ父上だと」
「当然だ」
ヘンリーは腕を組んだ。
「私はまだ死んでいない」
嫌な沈黙。
私は心の中で頭を抱えた。
(ほらぁぁぁぁぁ!!)
来た。
一番揉めるやつ。
若アンリの口元が、ほんの少しだけ引きつった。
「……分かりました」
声だけは穏やかだった。
それが余計に怖い。
彼はそれ以上何も言わず、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私は数秒待った。
それから。
「アンリ!!」
机を叩いた。
「今の絶対ダメなやつだからね!?」
「何がだ」
「全部!!」
ヘンリーは本気で分かっていない顔をした。
「十分な地位を与える。将来の領地も示す。それのどこが悪い」
「将来! 将来! 将来!」
私は指を突きつける。
「今のあの子に何があるのよ!」
「父親がいる」
「そうじゃねえ!!」
思わず前世語が飛び出した。
「肩書だけ上げて、『権限はまだね』『金も必要な分だけね』
『判断は全部上司通してね』って、それで本人が納得すると思う!?」
「若いのだから当然だ」
「だったら王冠まで与えようとするな!!」
「私はまだ隠居の爺ではない!!」
今度はヘンリーが怒鳴った。
「私はまだ三十代だ! 馬にも乗れる。軍も率いられる。
裁判もできる。反乱が起きれば自分で潰せる!」
「知ってるわよ!!」
「なら、なぜ私が今すぐ権力を息子に手渡さねばならん!」
「だから、そこじゃないって言ってるの!!」
私は頭を抱えた。
悔しい。
非常に悔しい。
だが、ヘンリーの言い分そのものは分かる。
まだ若い
まだ働ける
むしろ、働けすぎる
そんな男が、
「息子が育ったので、今日から全部任せます」
なんてするはずがない。
そこまでは分かる。
でも。
「アンリ」
「何だ」
「まだ自分で全部やりたいなら、それはそれでいいの」
「なら問題ないだろう」
「でも、それなら息子に『お前は王だ』『お前にはここをやる』って
”期待だけ先に与えるな”って言ってんの!!」
ヘンリーが黙った。
私は続ける。
「本人は、もう自分が大人だと思い始めてる。
なのに『お前は偉いぞ』『将来は全部お前のものだぞ』って持ち上げて、
その直後に『でも今は私の言うことだけ聞け』ってやったら、そりゃ腐るでしょうが!」
「甘やかしすぎだ」
「お前は締めすぎなんだよ!!」
しばらく睨み合う。
結局、ヘンリーは鼻を鳴らした。
「若いうちは不満くらい持つものだ」
「その不満を育ててどうすんのよ……」
「いずれ理解する」
「その台詞、理解されなかった時に一番燃えるやつだからね?」
ヘンリーは聞かなかった。
いつものことである。
地図を丸めると、さっさと次の仕事へ向かってしまった。
私は一人、執務室に残された。
机の上には、息子たちの未来が勝手に並べられていた。
若アンリには、いつか王冠と広い土地
リチャードにはアキテーヌ
ジェフリーにはブルターニュとの結びつき
一見すれば、全員きちんと将来を用意されている。
それなのに妙に嫌な感じがした。
誰か一人だけが不満なのではない。
若アンリには若アンリの不満がある。
リチャードにはリチャードの考えがある。
私にも私の領地に対する意思がある。
ジェフリーにも、きっとそのうち自分なりの欲が出てくる。
そして、その中心にいるヘンリーは。
”全員のために最適な配置を考えているつもりで
全員の意思を、自分の計画の中へ押し込めようとしている”
「…………」
私は窓の外を見た。
ついこの前まで、
ようやく人生が落ち着いたと思っていた。
子どもたちは育った
私はアキテーヌにいる
アンリは相変わらず忙しい
このまま、それぞれが少しずつ自分の場所へ落ち着いていくのだろうと。
そう思っていた。
なのに。
「……これ、土地を分ければ解決する話じゃないんじゃない?」
誰に言うでもなく呟いた。
家族それぞれに、それぞれの不満がある。
そこへ、周囲の王や諸侯の思惑まで絡んでくる。
まだ何も起きていない。
ただ火種だけは、あちこちに落ち始めていた。
私は深く息を吐いた。
「……スローライフ、どこ行ったのよ」
さっきまで美味しかった葡萄酒がほんの少しだけ、苦く感じた。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




