第75話:避難先は実家、連れて行くのは脳筋次男
アリエノールはリチャードを一番かわいがっていたとかいないとか(ΦωΦ)
ロンドンの宮廷は、最近どうにも落ち着かない。
原因は分かっている。
子どもが多い。
そして男子が多い。
さらに、その男子たちが全員それなりに元気で、負けず嫌いで、妙に声が大きい。
中庭から、木剣がぶつかる乾いた音が響いた。
「だから、それは俺のだって言ってるだろ!」
「兄だからって何でも先に取るなよ!」
また始まった。
回廊から覗き込むと、若ヘンリーとリチャードが木剣を手に睨み合っている。
その少し離れた場所では、ジェフリーが二人の様子を興味深そうに眺めていた。
「ジェフリー」
「はい、母上」
「見てないで止めなさい」
「でも、どちらが先に怒られるか見ていたので」
「お前はそういうところだけ妙に冷静ね!?」
私は急いで階段を降りた。
「こら、二人とも! 木剣を置きなさい!」
「母上、こいつが――」
「兄上が先に――」
「どっちが先でもいい!」
二人から木剣を取り上げる。
若ヘンリーは不満そうに唇を尖らせ、
リチャードは納得していない顔で兄を睨んでいる。
まだ子どもだ。
まだ、ただの兄弟喧嘩だ。
ただし。
この兄弟喧嘩、日に日に激しくなっている気がする。
「……将来大丈夫かな、この家」
思わず呟いたところで、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「元気があっていいではないか」
振り返る。
ヘンリーだった。
「どこがよ」
「男子なら多少争うくらいでちょうどいい」
「多少って言葉知ってる?」
ヘンリーは答えず、中庭の息子たちを見る。
そして、リチャードへ声を飛ばした。
「踏み込みが浅い。相手の腕を見るな、身体全体を見ろ」
「教えるな!!」
せっかく止めたのに、なぜ再開させる。
リチャードは父親の言葉を聞きながらも、
どこか面白くなさそうな顔をしている。
「分かってる」
「なら直せ」
「俺は俺のやり方でやる」
「勝てないやり方に意味はない」
「まだ負けてない!」
「はいそこまで!!」
私は二人の間に割って入った。
父親と息子。
まだ本気で衝突しているわけではない。
だけど、なんというか……似ている。
ものすごく似ている。
どちらも、人から言われたことを素直に飲み込むタイプではない。
(……これ、近くに置いとくと面倒なやつでは?)
元OLの危機管理能力が、久しぶりに仕事を始めた。
若ヘンリーとは張り合う。
父親には言い返す。
身体を動かすのが好きで、負けるのが嫌い。
だったら。
「……ヘンリー」
「何だ」
「今度、私が南へ行く時、リチャードを連れていくわ」
ヘンリーがこちらを見る。
「リチャードを?」
「ええ」
私はなるべく事務的な顔を作った。
「この子には、私の土地のことも知っておいてもらいたいもの。
アキテーヌの諸侯や土地柄に触れさせるのも悪くないでしょ」
それは嘘ではない。
むしろ、十分すぎるほど真っ当な理由だった。
私の領地は広い。
そして、リチャードは私の息子だ。
いずれ何らかの形でアキテーヌと深く関わることになる可能性は高い。
幼いうちから南の空気を知っておいて損はない。
本音を言えば。
(この子、ロンドンに置いとくと兄と父親にずっと喧嘩売りそうなんだよ!!)
である。
ヘンリーは少し考えてから頷いた。
「悪くない」
「でしょ?」
「南の諸侯に顔を覚えさせておくのも役に立つ」
「そうそう」
「土地も見せておけ」
「分かってる」
「馬ももっと鍛えさせろ」
「それは私が決める!」
最後だけ余計だった。
けれど、とにかく許可は出た。
私は心の中で小さく拳を握った。
こうして私は、リチャードを連れて南へ向かうことになった。
名目は教育。
実態は、家庭内の火種を一個だけ別室へ移す作戦である。
そして。
アキテーヌ。
久しぶりに南の空気を吸った瞬間、私は思わず深く息を吐いた。
「……帰ってきた」
ロンドンとは違う空。
違う匂い。
聞こえてくる言葉も、食卓に並ぶものも、どこか懐かしい。
長い時間をかけて、私の身体に染み込んだ土地だった。
隣を見る。
リチャードは、最初こそ見慣れない景色を珍しそうに眺めていた。
けれど数日もすると、すっかり外へ飛び出すようになった。
馬を見れば近づき、
騎士たちの訓練を見れば混ざりたがり、
市場へ行けば、聞き慣れない言葉を真似する。
「母上、さっきの人、何て言った?」
「葡萄が甘いから食べてみろって」
「食べる」
「即決ね」
渡された葡萄を口へ放り込み、リチャードは目を丸くした。
「甘い」
「でしょ」
「もう一個」
「自分で取りなさい」
彼は笑いながら籠へ手を伸ばした。
ロンドンにいた時より、顔が柔らかい。
兄と比べられることもない。
父親からあれこれ口を出されることも少ない。
ここでは、まだ誰かの跡継ぎでも、誰かの競争相手でもない。
ただの子どもとして走り回っていられる。
それが良かったのかもしれない。
ある晩、
宮廷で音楽が奏でられているのを、リチャードは珍しく大人しく聞いていた。
「こういう歌、好き?」
私が聞くと、少し考えてから頷く。
「嫌いじゃない」
「へえ」
「何だよ」
「剣の音しか興味ないのかと思ってた」
「俺だって歌くらい聞く!」
むっとした顔をする。
私は笑った。
「なら、そのうち自分でも作ってみれば?」
「作れるかな」
「知らない。やってみたら?」
「母上は適当だな」
「何でも最初からできるわけないでしょ」
リチャードはしばらく黙って音楽を聞いていた。
その横顔は、中庭で兄と木剣を振り回している時とは少し違って見えた。
それから私は、可能な範囲でリチャードを連れてアキテーヌを回った。
城。町。葡萄畑。諸侯の館。
土地ごとに違う言葉や習慣。
宴席で交わされる歌や冗談。
リチャードは何でも興味深そうに見ていた。
もちろん、相変わらず馬と剣には真っ先に食いついたけれど。
「母上」
ある日の移動中、馬上でリチャードが言った。
「何?」
「俺、ここ好きだ」
それだけだった。
子どもらしい、単純な言葉だった。
私は少しだけ笑った。
「そう。なら良かった」
「ロンドンより好きかも」
「それはお父様には言わない方がいいわね」
「なんで?」
「面倒だから」
リチャードはよく分からないという顔をした。
私はそれ以上説明しなかった。
ただ、
風の中を進みながら、少しだけ嬉しかった。
この土地を好きになってくれたことが。
私が長い時間をかけて、ようやく自分の故郷だと思えるようになった場所を
この子も好きだと言ってくれたことが。
最初はただ、兄弟喧嘩と父子喧嘩を減らすためだった。
少し距離を置けば、みんな平和になる。
その程度のつもりだった。
まさかこの先、リチャードにとってアキテーヌという土地が、
ただの母親の領地では済まなくなっていくとは。
そんなことまで、世界史八点の私に分かるはずもなかった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




