第74話:神よ……ようやく……!(※ただし目の前には巨大怪獣)
アンジュ―帝国解体男の爆誕ですね(ΦωΦ)
――少しだけ、時間を戻す。
1165年。
ロンドンの宮廷で、私は窓の外を眺めながら深いため息を吐いていた。
中庭では、また子どもたちが騒いでいる。
「リチャード! 弟を押し倒すのやめなさい! ジェフリーも煽らない!」
「俺は何もしてない!」
「兄上が勝手に怒っただけです」
「そういう言い方が煽ってるの!!」
朝からこれだ。
息子たちは日に日に元気になり、声は大きくなり、自己主張も強くなっている。
そこへ夫の、
「男子ならもっと競わせろ」
という、火事場に油を注ぐような教育方針まで加わる。
私の精神力はとっくに赤字だった。
「……はぁ」
銀の杯を手に取り、少しだけ葡萄酒を口に含む。
そこで、ふと昔のことを思い出した。
質素な服
いつも少し困ったような顔
真面目で、信仰深くて、悪い人ではないのに、なぜか周囲で事件が起きる男
(……現場猫元旦那、今ごろ何してるんだろ)
ルイと別れてから、もう十年以上が過ぎていた。
私の後に迎えた王妃との間にも娘が生まれ、その王妃にも先立たれた。
そして今では、シャンパーニュ家の娘を三人目の妻として迎えているらしい。
”二度の結婚で、娘ばかり”
王家にとって男子の後継者がどれだけ重い意味を持つのかくらい、
世界史八点の私でも分かる。
(……あっちはあっちで、相当胃が痛そうだな)
こっちは再婚してから男子が続いている。
そのことを思うと、元妻としてほんの少しだけ申し訳ないような気もした。
ほんの少しだけ。
「母上! リチャードがまた!」
「はいはいはい、今行く!!」
感傷に浸る暇もなく、私は再び家庭内紛争の仲裁へ向かった。
◆
その頃、海の向こう。
1165年8月21日、パリ。
フランス王ルイ七世の宮廷は、朝から異様な熱気に包まれていた。
そして、その中心で。
「神よ……!」
ルイ七世は、ほとんど祈るように両手を組んでいた。
「主よ……ようやく……!」
声が震えている。
目には涙が浮かんでいた。
傍らには、生まれたばかりの赤ん坊。
”男子だった”
待ち続けた、男の世継ぎ。
最初の結婚では娘が二人。
二度目の結婚でも娘が二人。
二番目の王妃コンスタンスは、二人目の娘を産んだ際に亡くなった。
ルイはその後、アデル・ド・シャンパーニュを三人目の妻として迎えた。
そして五年。
ようやく…本当にようやく。
男子が生まれた。
「……フィリップ」
ルイは、そっと赤ん坊の小さな手に触れた。
「神が……我らに授けてくださった子だ」
長く待ち望まれた男子の誕生は、王家にとってただの慶事ではなかった。
カペー家の継承そのものに関わる出来事だった。
宮廷には安堵が広がり、祈りと祝福の声が続いた。
この子は後に、「神から授かった者」を意味する呼び名で呼ばれることになる。
フィリップ。
後の『フィリップ二世』
けれど、この瞬間の彼はまだ。
ただ、小さな赤ん坊だった。
ルイは何度も目元を拭った。
「……よかった」
それしか言えなかった。
王としてではなく、一人の父親として。
長い間胸に抱えていたものが、ようやく少し軽くなったような気がした。
ところが。
しばらくして、ルイの視線が部屋の一角で止まった。
そこには、諸侯の勢力や領地関係を確認するための地図が広げられていた。
北にはイングランド
海を挟んでノルマンディー
そこからアンジュー、メーヌ、トゥーレーヌ
さらに南には、広大なアキテーヌ
もちろん、それらが一つの国として単純に塗り潰せるわけではない。
アキテーヌはアリエノールの土地であり、
フランス国内の領地にはそれぞれ異なる権利と関係がある。
それでも…
それらすべての中心に、同じ男がいる。
『ヘンリー二世』
イングランド王
ノルマンディー公
アンジュー伯
そして”アリエノールの夫”
フランス王の臣下という立場を持ちながら、
王自身を遥かに凌ぐほど広い土地と権益に関わる男。
「…………」
さっきまで浮かんでいたルイの笑みが、少しだけ消えた。
手が、無意識にみぞおちへ伸びる。
「……アンリ」
その名を口にする。
続いて、もう一つ。
「……アリエノール」
自分の元妻は、離婚からわずか二か月ほどでアンリと結婚した。
そして、その男はやがてイングランド王となった。
気がつけば、フランス王国の西側には、王である自分が簡単には無視できない
巨大な勢力が横たわっている。
ルイは地図を見つめた。
息子は生まれた。
後継者はできた。
これでカペー家の未来は繋がった。
それは間違いなく、今日という日の最大の喜びだった。
けれど
この子がいつか受け継ぐ王国のすぐ隣には、あまりにも厄介な男がいる。
しかも、その男の妻は自分の元妻である。
「…………」
ルイは再び胃を押さえた。
めでたい。
本当にめでたい。
なのに、地図を見ると胃が痛い。
揺りかごの中で、フィリップが小さく身じろぎした。
まだ何も知らない。
父が何を恐れているのかも。
この地図が何を意味しているのかも。
ただ、大人たちの歓声の中で静かに眠っている。
ルイは息子を見て、それからもう一度地図へ視線を戻した。
歓喜と安堵。
そして、その向こうに横たわる巨大な影。
生まれたばかりのフィリップの瞳に映っていたのは、喜びに涙を流しながらも、
結局最後には胃を押さえて地図を睨むことになった父の背中だった。
この赤ん坊が、その地図を自分の目で読むようになるのは。
まだ、もう少し先の話である。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




