第71話:また、ギョームなんだ
デリカシーがないと嫌がられるよ?ヘンリーくん?
1156年。
石造りの城の一室で、私は小さなベッドの脇に座っていた。
ほんの数日前まで高い熱に苦しみ、何度も小さな身体を震わせていた長男ギヨームは、
今はもう何の苦しみもない顔で横たわっている。
静かだった。
静かすぎた。
私は膝をつき、冷たくなった右手を両手で包んだ。
少し前までは、この手が私の指を握り返していた。
眠い時には服を掴み、抱き上げれば首に腕を回してきた。
その温もりだけが、どうしても思い出せる。
「…………」
何か言おうと思った。
でも、何も出てこなかった。
普段なら勝手に湧いてくるツッコミも、愚痴も、二十一世紀の言葉も、今日は一つも頭に浮かばない。
ただ、小さな手を握っていた。
すると突然、別の小さな手の感触が脳裏に蘇った。
南仏の明るい陽射し
アキテーヌの庭
まだ私がこの世界へ来て、それほど経っていなかった頃
幼い弟が、私の後を追いかけてきた。
「ねーたま」
そう呼んで笑っていた。
父ギヨーム十世が、それはもう分かりやすいくらい可愛がっていた男の子。
本来なら、あの子がアキテーヌを継ぐはずだった。
”私ではなく”
けれど、弟は熱を出して死んだ。
そして私が残った。
「……また、ギョームなんだ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど乾いていた。
弟も、息子も、同じ名前だった。
どちらもまだ小さくて、これから先の人生なんていくらでもあったはずなのに。
私より先にいなくなった。
「…………」
男の子が生まれたから安心。
これで後継ぎ問題は大丈夫。
そんなふうに思ったことがあった。
ルイとの十五年間では、あれほど周囲から男子を求められた。
娘を産むたびに、喜びより先に「次は男子を」と言われる空気があった。
だからアンリとの間にギヨームが生まれた時、私は笑った。
一発で男児が出た、と。
これで少しは楽になる、と。
馬鹿だった。
生まれれば終わりじゃない。
その子が明日も生きている保証なんて、どこにもない。
「ごめんね」
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
もっと早く何かできたかもしれない
もっと抱いてやればよかった
もっと遊んでやればよかった
そんなことを考えても意味がないと分かっているのに、
頭の中には「もっと」が次々と浮かんできた。
やがて、背後で扉が開いた。
振り返らなくても分かる。
ヘンリーだった。
足音が近づいてきて、私の少し後ろで止まった。
しばらく何も言わない。
珍しいことだった。
普段なら部屋へ入って三秒以内に用件を言い始める男が、今日は黙っていた。
「……逝ったのか」
低い声だった。
「うん」
それだけ答えた。
ヘンリーはベッドの上の息子を見つめている。
表情はほとんど変わらない。
けれど、いつものような勢いもなかった。
二十三歳。
まだ若い。
王になってから、それほど年月も経っていない。
国を治めることも、父親でいることも、夫でいることも、
たぶん全部同時に覚えている途中なのだろう。
しばらくして、ヘンリーが言った。
「葬る場所は手配する。きちんとした場所に眠らせる」
私は黙っていた。
「必要なことはこちらで進める。お前はしばらく休め」
珍しく、まともなことを言う。
その言葉に少しだけ救われた気がした。
けれど、ヘンリーは続けた。
「アンリもいる」
「…………」
「男子はまだいる。お前も若い。落ち着けば、また子を産めばいい」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
ゆっくり顔を上げる。
「……今、何て言った?」
ヘンリーは、私がなぜ聞き返したのか理解できていない顔をしていた。
「だから、アンリがいる。後継ぎが途絶えたわけではない。それに、お前ならまた――」
「黙って」
声が、自分でも怖いくらい低くなった。
ヘンリーが眉を寄せた。
「アリエノール」
「黙ってって言ったの」
私は立ち上がった。
怒鳴る気力すらなかった。
ただ、どうしようもなく腹の底が冷えていた。
「また産めばいい?」
「……何が悪い」
本当に分かっていない。
だから余計に腹が立った。
「この子は、取り替えの利く部品じゃない」
ヘンリーが口を閉じた。
「アンリがいるから何? 次の子を産めば何? それでこの子が戻ってくるの?」
「そういう意味ではない」
「じゃあどういう意味よ」
「王家として、先のことも考えなければならないと言っている」
「今?」
私は笑った。
たぶん、ものすごく嫌な笑い方だったと思う。
「この子が死んだ今日に?」
ヘンリーは黙った。
彼なりに悲しんでいるのだろう。
分かる。
分かってしまう。
この男は、たぶん悲しい時ほど仕事をする。
止まったら何かが崩れるから、次にやることを探す。
息子が死んだ。
なら葬儀を手配する
後継者を確認する
次の備えを考える
それが彼にとっての「立ち直り方」なのかもしれない。
でも
今の私には、それを受け入れる余裕なんてなかった。
「私は今、この子を失った母親なの」
「分かっている」
「分かってない」
私は即座に返した。
「分かってたら、『また産めばいい』なんて言わない」
ヘンリーの顔に、初めてわずかな戸惑いが浮かんだ。
きっと本人なりには、未来があると言いたかっただけなのだろう。
”後継ぎは残っている”
”まだ若い”
”次がある”
合理的には、何も間違っていない。
でも、人の心は合理性で動かない。
「今日は帰って」
「アリエノール」
「お願いだから、今は一人にして」
しばらく沈黙したあと、ヘンリーは何も言わずに踵を返した。
扉が静かに閉じる。
その音を聞いてから、私はもう一度ベッド脇へ座った。
ギヨームの冷たい手を握る。
弟のギヨーム
息子のギヨーム
二人とも、私の人生を大きく変えてから消えていった。
「……代わりなんていないよ」
小さく呟いた。
若ヘンリーがいても、この子の代わりにはならない。
これから先、何人子どもが生まれても同じだ。
一人一人、別の人間だ。
領地を継ぐための駒でもなければ、空いた場所を埋める予備でもない。
私はそれだけは絶対に忘れたくないと思った。
アンリと私は、たぶんこれから何度もぶつかる。
この人は子どもを愛していないわけではない。
ただ、父親である前に王でいることをやめられない。
そして私は、王妃である前に、母親でいたいと思う瞬間がある。
たったそれだけの違いが、いつか取り返しのつかない溝になるのかもしれない。
その時の私は、まだそこまで知らなかった。
ただ、冷たくなった息子の手を握りながら、一つだけ心に決めていた。
この子たちを、誰かの都合のためだけに使わせたくない。
『たとえ相手が、父親であっても』
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




