第68話:ちょっと待って、あっちの面積おかしくないか?
そりゃ胃が痛くもなるわな( ˘ω˘ )
長男ギヨームの産着を畳んでいた、ある日の午後。
ポワティエの城の執務室の扉が、いつものように遠慮のかけらもない勢いで開いた。
「アリエノール! 決まったぞ!」
入ってきたアンリは、全身から湯気でも出ているんじゃないかというほどの上機嫌で、
手にしていた羊皮紙をこちらへ突きつけてきた。
「スティーヴン王との話がまとまった。私が王位の後継者として認められた」
「…………」
私は畳みかけの産着を膝の上に置いたまま、数秒間フリーズした。
「……は?」
「次のイングランド王は私だ」
アンリは、さも当然のことのように言った。
「スティーヴン王が死ねば、王冠は私のところへ来る」
満足そうに笑う二十歳の暴走戦車。
私の脳内CPUが、激しく火花を散らした。
(また話がデカくなってるぅぅぅぅぅぅ!!!!)
待て待て待て。
私はただ、街道で誘拐されないための
「頑丈な防犯ブザー兼ボディーガード」を手に入れたつもりだったのだ。
それが何だ。
ノルマンディー公
アンジュー伯
アキテーヌ女公の夫
そこへ今度は、次期”イングランド王”
「ちょっと待ちなさいよ! 用心棒を雇ったつもりだったのに、
なんで半年もしないうちに多国籍メガコーポの社長候補みたいになってんの!?
規模感のインフレが少年漫画なんだけど!!」
「何を騒いでいる。王冠が増えるんだ。喜べ」
「増えるって言い方やめろ!」
「お前もいずれイングランド王妃だぞ」
「王妃はもう定年退職したっつってんだろ!くそがぁぁぁぁ!!」
頭を抱えて叫ぶ私を置き去りにして、アンリはもう次の段取りへ頭を切り替えていた。
「船の手配を確認する。兵の配置も見直さなければならない」
「今それ考えるの!?」
「決まったなら次へ進むだろう」
「余韻を持て!!」
私の老後プラン
――ボルドーで葡萄酒を飲み、猫を膝に乗せ、静かに領地経営だけして暮らす未来――
は、また一段遠ざかった。
そして、その知らせは当然、フランスにも届いた。
シテ島の王宮。
「――以上が、イングランドから届いた報告にございます」
重臣から話を聞き終えたルイ七世は、執務机に広げられた地図をじっと見つめていた。
「……アンリが、イングランド王位の後継者に?」
「はい。スティーヴン王との間で話がまとまり、
王の死後はアンリ殿が王位を継ぐことになる見込みです」
「…………」
ルイは黙った。
近臣たちも、何となく声を掛けづらい。
アリエノールが婚姻無効の成立から間もなくアンリと再婚したと知った時も、
王はしばらく沈んでいた。
だから今回も、元妻にまつわる複雑な感情が蘇ったのかと、周囲は思った。
だが、ルイが見ていたのは、もっと現実的で、もっと嫌なものだった。
地図である。
「……ちょっと待って」
ルイは指先を北へ伸ばした。
「ノルマンディーは、アンリのものだね?」
「はい」
「アンジューも」
「はい」
「メーヌやトゥーレーヌも、あちら側だね?」
「左様にございます」
ルイの指が、今度はゆっくり南へ滑っていく。
そこには、かつて十五年間、自らの王妃だった女が持っていた広大な領地がある。
「……アキテーヌも」
ルイの声が少し低くなった。
「アリエノールとの婚姻で、あちら側の勢力圏に入っているんだね?」
重臣は一瞬だけ言葉を選んだ。
「はい。アキテーヌはあくまで女公殿下ご自身の所領にございますが、
婚姻によってアンリ殿と結びついております」
「…………」
ルイの指が止まった。
そして最後に、海の向こう。
『イングランド』
そこへもアンリの手が届こうとしている。
ルイは地図全体を見渡した。
ノルマンディー
アンジュー
メーヌ
トゥーレーヌ
アキテーヌ
そして、いずれイングランド。
全部が一つの国として同じ色に塗られているわけではない。立場も権利も、それぞれ違う。
だが、政治的に見れば。
「……ちょっと待って」
もう一度、ルイは言った。
「これ、あっちの面積おかしくない?」
「…………」
誰も答えなかった。
「私の王領って、ここだよね」
ルイはパリ周辺を指した。
「はい」
「で、アンリはフランス王の臣下でもあるんだよね?」
「はい」
「なのに、どう見ても臣下の方が西側にものすごく広い土地持ってない?」
「…………」
「しかも、今度はイングランド王になる?」
「……はい」
ルイの額に、じわりと汗が浮かんだ。
「待って待って待って」
声は静かだったが、目だけは完全に据わっていた。
「これ、元妻が再婚したとか、そういう話じゃないよね?」
「…………」
「臣下の一人が、海の向こうの王冠まで持つってことだよね?」
「左様にございます」
「ノルマンディーも、アンジューも、アキテーヌも、その男と結びついてるんだよね?」
「……はい」
「それって……」
ルイは地図を見つめた。
「ものすごく面倒なことになってない?」
誰も否定できなかった。
個人の感情なら、時間が経てば少しは薄れる。
だが、領土と王権と臣従関係は、祈っているだけでは消えてくれない。
むしろ地図の上で、はっきりと形になってこちらを睨んでいる。
ルイはしばらく無言のまま西ヨーロッパの地図を見つめたあと、
ゆっくりとみぞおちを押さえた。
「……胃が痛い」
「陛下」
「主よ……これは、どういう試練なのでしょうか……」
敬虔な祈りの言葉も、今回はあまり救いにならなかった。
かつて妻を失った男は今、もっと現実的な問題に直面していた。
元妻の再婚相手が、あまりにも大きくなりすぎている。
そしてその男は、まもなく海の向こうの王冠まで手に入れようとしていた。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




