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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第64話:地雷だと分かって踏む地雷ほど怖いものはない

どっちがいいと言われてもどっちも嫌だみたいな。

一晩、寝ずに考えた。


朝の光がポワティエの城館へ差し込む頃、私はベッドから這い出し、

鏡に映ったクマだらけの自分の顔を見つめていた。

昨夜から何度も何度も、頭の中で同じ計算を繰り返している。


まず、独身のまま生きる場合。

自由。最高。誰にも指図されず、好きな時に葡萄酒を飲み、

猫でも飼って、アキテーヌの領地経営だけして暮らせる。


ただし、帰宅途中だけですでに二回誘拐されかけた。


却下。


では、別の諸侯と結婚する場合。

ブロワ伯ティボーは誘拐未遂。アンジュー家のジョフロワも誘拐未遂。

その他の諸侯は、よく知らないうえに信用できない。

軍事力が足りなければ、私どころかアキテーヌまでまとめて食われる可能性がある。


これも却下。


そして最後に残ったのが、ノルマンディー公にしてアンジュー伯、アンリだった。

軍事力は文句なし。領地も強い。十九歳と若いくせに行動力は異常で、

親書を送れば驚くほど早く本人までやって来る。

話の飲み込みも早く、物事を決めるのも速い。

アキテーヌを狙うハイエナどもへの抑止力として考えるなら、たぶん満点だった。


問題は。


”性格”


「…………」


私は両手で顔を覆った。


「絶対ヤバいんだよなあ……」


二十一世紀の社会人経験を積んだ私の危機察知能力が、昨夜からずっと非常ベルを鳴らしている。


仕事ができる。頭も切れる。決断も速い。自信もある。

そのうえ、他人の都合や感情より、自分が正しいと思った結論を平然と優先する。


前世の会社にもいた。

結果は出す。上からは評価される。でも部下は病む。

そして本人だけは、「何が問題なんだ?」という顔をしているタイプ。


「……これ、十年後に絶対地獄見るやつじゃん」


それでも、何度考えても結論は変わらなかった。


「嫌だけど……こいつしかいねえんだよ畜生ぉぉぉぉ!!」


私は枕へ顔を埋めて絶叫した。


これは「誰と結婚すれば一番幸せになれるか」という話ではない。


「どれを選べば、とりあえず今すぐ拉致されずに済むか」という、生存戦略の話なのだ。


二十一世紀の就職活動で例えるなら、

「給料未払い・社長夜逃げ寸前・事務所に怖い人が出入りしている会社」を避けるために、

「激務・高給・パワハラ上等・ただし業界最強」の外資系企業へ、

自分から履歴書を叩き込むようなものだった。


幸せになれる保証はない。

ただ、生き残れる可能性は高い。


「……よし」


私は顔を上げた。


知らない男に街道で拉致され、勝手に結婚させられて、

アキテーヌごと持っていかれるくらいなら、自分で地雷を選ぶ。


自分で踏む。

せめてそのくらいの自由は、私にあってもいい。


そう腹を括って、私は前夜に置いてきた婚姻条件の羊皮紙を持ち、城内の教会へ向かった。


1152年5月18日。ポワティエ。

教会では、すでに必要な準備が進められていた。

そして祭壇の近くには、当然のようにヘンリーがいる。


正装はしている。一応。


ただ、上等な衣服を着ているだけで、立ち方も表情もまったく

「今日は結婚式です」という男ではなかった。

どう見ても、「このあともう一件仕事があります」という顔だ。


私を見るなり、ヘンリーは開口一番言った。


「遅い」


「は?」


「もう来る時間だ」


「花嫁に対する第一声が『遅い』!?」


「時間は決めていただろう」


「そういう問題じゃない!!」


近くにいた聖職者が、すでに胃のあたりを押さえている。


私はヘンリーの前まで歩くと、羊皮紙を机へ叩きつけた。


「一応、一晩考えたから」


「ああ」


「もっと何かないの?」


「何が」


「『考え直してもいい』とか、『本当にいいのか』とか!」


ヘンリーは露骨に怪訝そうな顔をした。


「考え直すのか?」


「……いや」


「なら問題ない」


「そういうとこだよ!!」


この男、本当に人間の感情を「途中の無駄工程」くらいにしか思っていない。

ヘンリーは気にも留めず羊皮紙を広げ、ざっと目を通した。


「アキテーヌの慣習は維持する。お前の家臣も、お前の許可なく私が勝手に入れ替えるつもりはない。

税収も、お前の所領から上がるものは基本的にお前の管理で構わない」


「……うん」


「ただし、戦になるなら話は別だ。軍は一つにまとめる。戦場で二人が別々の命令を出せば兵が死ぬ」


「それは分かる」


「なら問題ない」


「今のところはね」


ヘンリーが私を見る。


「他に不満は?」


「ある」


「何だ」


「お前の性格」


部屋が一瞬、しんと静まり返った。

聖職者の一人が咳き込み、ヘンリーは眉ひとつ動かさない。


「具体的に」


「具体的に聞く!?」


「改善できることなら聞く」


「ほんとかよ」


「内容による」


「もうその時点で怪しいんだよ!!」


私は頭を抱えた。

でも、今さら逃げても仕方がない。

覚悟を決めて、真正面からヘンリーを見る。


「お前さ。自分が正しいと思ったら、相手が嫌がってても押し通すタイプでしょ」


「場合による」


「どんな場合」


「私の判断の方が正しい場合」


「ほら見ろぉぉぉぉぉ!!!!」


思わず天井を仰いだ。

分かっていた。分かっていたけれど、本人の口から即答されると破壊力が違う。


「それをな! 二十一世紀ではモラハラの芽って言うんだよ!!」


「にじゅういっせいき?」


「忘れて!!」


「それで?」


「それで、じゃない!」


「婚姻をやめるのか?」


私は口を閉じた。

ヘンリーは私の顔を見たまま、淡々と続ける。


「やめるなら今言え。私は帰る。だが、お前がこのまま一人でいれば、

また誰かが来る。次も逃げ切れる保証はない」


「分かってる」


「私なら来させない」


「それも分かってる」


「なら、何を迷う」


「お前だよ!! お前自身が最大のリスクなんだよ!!」


ヘンリーはほんの少しだけ考えたあと、平然と言った。


「だが、お前が呼んだ」


「…………」


ぐうの音も出ない。


「お前自身が、私ならアキテーヌを守れると考えたから使者を寄越した。なら、自分の判断を信じろ」


「お前に言われると腹立つな!!」


本当に、この男は全部分かったうえで言っている。


私が何を不安に思っているのか。なぜ迷っているのか。

政治的に他の選択肢が乏しいことも、全部理解している。


そのうえで、「で、結論は?」と迫ってくる。


ルイとは違う。

ルイには、私の言葉そのものが届かなかった。


ヘンリーには届く。

届くし、意味も理解する。


でも、それと自分の結論を曲げることは、まったく別らしい。


(……こいつ、絶対あとで揉める)


私の中の二十一世紀が叫んでいる。

逃げろ。一晩どころか一週間寝かせろ。第三者に相談しろ。レビューを見ろ。口コミを調べろ。


「Google先生ぇぇぇぇ……」


「何だ」


「何でもない」


せめて「ヘンリー二世 人物評価 結婚生活 モラハラ」で検索させてほしい。


星一レビューが並んでいたら即逃げる。


でも当然、Google先生はいない。Wikipedia先生もいない。チャッピーもいない。

今ある情報だけで決めるしかない。


私はもう一度、頭の中で候補を並べた。


独身は危険。

ティボーは誘拐未遂。

ジョフロワも誘拐未遂。

その他は不明。


ヘンリーは地雷臭がすごい。

ただし、強い。


「…………何この多数決」


「何がだ」


「政治判断はお前。人生経験は『お前やめとけ』。でも他の候補は『もっとやめとけ』って言ってんの!!」


「なら決まっている」


「お前は黙ってろ!!」


ヘンリーの口元が少し上がった。


笑っている。

こいつ、面白がってやがる。


「…………羽ペン」


私は手を出した。

聖職者が、恐る恐る羽ペンを差し出す。


ヘンリーが私を見る。


「決めたのか」


「最善だとは思ってない」


「ああ」


「正解かどうかも分からない」


「ああ」


「将来お前の顔見て、『あの時やめときゃよかった』って叫ぶ気もする」


「その時は叫べばいい」


「腹立つなあああああ!!」


私は凄まじい筆圧で署名した。羊皮紙が破れるかと思った。


「よくない!! 全然よくない!! でも他がもっと悪いからお前にする!!」


「承諾だな」


「十二世紀では承諾扱いにしといて!!!!」


近くの聖職者が、ものすごく不安そうな顔をしていた。

それでも儀式は進み、必要な言葉が交わされ、祝福が与えられた。


こうして私は、ノルマンディー公にしてアンジュー伯、十九歳のアンリと結婚した。

十五年続いた最初の結婚をようやく終わらせたのが三月。


そして、五月

教会の外へ出た瞬間、春の終わりの風が頬を撫でた。

青空の下、隣にはついさっき夫になった十九歳のジャイアンが立っている。


「……十五年」


「何だ」


「十五年も結婚して、戦争して、十字軍行って、散々揉めて、やっと自由になったと思ったら」


私は両手で頭を抱えた。


「たった二か月で再婚しましたぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


ヘンリーが眉をひそめる。


「何を今さら」


「今さらじゃねえよ!! 早すぎるんだよ!! 離婚の余韻どこ行った!? 

クーリングオフ期間どこ!?」


「必要ない」


「お前にとってはな!!」


「終わった話を引きずって何になる」


「十九歳が人生二周目みたいなこと言うな!!」


ヘンリーはそんな私を置いて、さっさと階段を下りていった。


「行くぞ」


「どこへ」


「城へ戻る。国境警備の話を詰める」


「今日!?」


「今日」


「結婚式当日なんだけど!?」


「だから何だ」


「新婚初日から会議入れるなぁぁぁぁぁ!!」


ヘンリーは振り返りもせず歩いていく。


「お前がアキテーヌを守りたいと言ったんだろう」


「言ったけど!!」


「なら仕事をする」


「正論で殴るな!!」


私は頭を抱えながら、その背中を追った。

話は通じるし、理解も早い。判断も速く、必要なこともきちんと分かっている。

だから、ルイより楽かもしれない。


そう思ったのは、ほんの一瞬だった。

すぐに気づいた。


『話が通じることと、話を聞くことは、どうやらまったく別らしい』


こうして私は、自分の意思で二度目の地雷を踏んだ。

しかも今度は、地雷だと分かって踏んだぶん、たぶん前よりタチが悪い。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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