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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第63話:ジャイアンに契約書を持たせるな

ヘンリー2世登場です。ここから英国屈指の地雷一家登場編です

親書を送ってから、驚くほど早く返事が来た。

しかも、それで終わりではなかった。


返書を受け取ってからほどなくして、ポワティエの城門には馬の蹄の音が響き、

使者どころか本人がやって来たのである。


「……早くない?」


私は城門の向こうを見ながら、思わず呟いた。


いや、本当に早い。

手紙を読んで、「なるほど。では一度検討して後日返答を」ではない。


読んだ

判断した

動いた


たぶん、この男の頭の中ではその三工程しか存在しない。


やがて大広間の扉が開き、乗馬服にマントをまとった青年が大股で入ってきた。


赤みがかった髪

灰色の目

以前パリで見た時と同じ、十九歳とは思えない妙な圧。

ノルマンディー公にして、今やアンジュー伯でもある、アンリ──ヘンリーだった。


砂埃を払う暇すら惜しいらしい。

私の前まで来ると、最低限の挨拶を済ませ、そのまま机へ視線を向けた。


そして開口一番。


「それで、条件は?」


「…………は?」


私は間の抜けた声を漏らした。


「婚姻後も、アキテーヌの統治をどこまでお前自身で行うのか。兵を動かす時は誰が決める。

収入はどう扱う。子が生まれた場合、何を誰に継がせる。先にそこを決めるべきだろう」


「待て待て待て待て!!」


思わず立ち上がり、両手で制止する。


「まだ『お久しぶりですね、遠いところをようこそ』すら終わってないんだけど!? 

お茶も飲んでないよね!? 普通ちょっと雑談とかするでしょうが!!」


ヘンリーは怪訝そうに眉を寄せた。


「何のために?」


「何のためにって……人間関係を円滑にするためだよ!!」


「必要な話を先に済ませた方が早い」


「お前、絶対会議で『結論から言え』って部下に圧かけるタイプだろ!!」


当然ながら通じない。

ヘンリーは気にも留めず、持参した羊皮紙を従者に机へ広げさせた。

すでに何項目か、話し合うべき内容まで整理されている。


「アキテーヌの慣習は尊重する。お前の家臣を私の都合だけで入れ替えるつもりもない。

ただし、外敵への対応で兵を動かす必要がある時は、互いに別々の判断をしていては困る」


「…………」


話が早い。

ものすごく早い。


一瞬感動しかけた。


元夫ルイと十五年暮らした私は、

「何か問題が起きた時、相手がこちらの話を理解し、論点を整理して返事をする」

という、それだけのことに異常なほど飢えていた。


ルイの場合。


まず祈る

次に悩む

そのあと主の御心を考える

最後に、私の話を聞いていたのかよく分からない結論を出す。


対して目の前の十九歳。


話を聞く

理解する

結論を出す


速い。

ものすごく速い。


(……こいつ、話が通じる!)


思わず希望の光が差した。


直後。

二十一世紀の社会人経験を積んだ私の危機察知能力が、全力で非常ベルを鳴らした。


(いや待て)


話が通じる

理解も早い

頭も切れる


そのうえで、

”自分が欲しい方向へ、迷いなく押し切ってくる”


私はゆっくりヘンリーを見る。


「……お前さ」


「何だ」


「話が通じる分、分かってて全部やってるだろ」


ヘンリーは少し笑った。


否定しない。


「…………」


怖い。

ルイは、話が通じないことが問題だった。


この男は違う。


話は通じる。

こっちが何を嫌がっているのかも、何を守りたいのかも、たぶんかなり早い段階で理解する。


理解したうえで。


「それでもこっちの方が合理的だ」


と押し切るタイプだ。


(こいつ……絶対モラハラ男じゃない????)


頭の中で、前世の記憶が一斉に蘇る。


仕事はできる。

頭もいい。

判断も早い。

若いのに妙に自信がある。

他人の感情より結果を優先。


そして何より、

自分が正しいと思った時の圧がすごい。


「…………」


これは。


今は頼れる。

ものすごく頼れる。


けれど十年後。


『お前のためだ』


『合理的に考えればこうだ』


『なぜ分からない』


と言いながら、こっちの人生全部を勝手に決め始めるタイプなのでは。


私は頭を抱えた。


「どうした」


「ちょっと待って。今、脳内でリスク評価してる」


「何の?」


「お前の」


ヘンリーが眉を上げる。

私は目の前の十九歳を、改めて脳内ホワイトボードへ書き出した。


軍事力。

強い

ノルマンディー

アンジュー

フランス王とも正面から渡り合える


年齢。

十九歳

若い

若すぎる

なのに圧だけ五十八歳の現場叩き上げ部長


行動力。

異常

親書出したら本人が来た

判断力

速い


私を街道で捕まえようとする連中への抑止力。

たぶん満点

アキテーヌを守る盾として考えるなら、これ以上ない


「…………条件だけなら強いんだよなあ」


「当然だ」


「そこで自信満々に頷くな」


でも、問題は。


『性格』


「なあ」


「何だ」


「自分が欲しいと思ったもの、全部力ずくで取りに行くタイプ?」


「取れるなら取る」


「即答すんな!!」


やっぱりだ。

やっぱり危険だ。


二十一世紀の私が全力で叫んでいる。


逃げろ。そいつは絶対あとで揉める。

一度持ち帰れ。最低でも一晩寝かせろ。

契約書は即日サインするな。


「……一晩、考える」


私が言うと。


ヘンリーは露骨に不満そうな顔をした。


「なぜ」


「お前みたいな即決マンがいるからだよ!!」


「時間を置いて何が変わる」


「人間にはな!! 冷静になる時間ってものが必要なの!!」


「私はもう冷静だ」


「お前の話はしてない!!」


私は机に突っ伏した。


いったん。

本当にいったん考えよう。


勢いで再婚。

ダメ、絶対。


十五年かけて離婚した翌月に、十九歳のジャイアンと電撃契約なんて。

いくらなんでも。


「…………」


そこで。


頭の中に別の現実が浮かんだ。


他に誰がいる?


ブロワ伯ティボー。

誘拐未遂

却下


ジョフロワ。

誘拐未遂

しかも目の前の男の弟

却下


その他の諸侯。

信用できるか分からない

力が弱ければ、私ごとアキテーヌを守れない

フランス王家に近すぎれば、またパリの顔色をうかがうことになる。


「…………」


選択肢がない。


いや、あるにはある。


あるが、全部地雷。


「何で婚活市場が地雷原なんだよ……」


「何を言っている?」


「独り言!!」


では。


独身のまま少し考える?


それも危険。

帰ってくる途中だけで、すでに二回狙われた。


数か月待って

ゆっくり吟味して

理想的な相手を探して

なんて言っている間に、第三、第四の誘拐希望者がやってくるかもしれない。


考える猶予すらまともにない。


私は目の前のヘンリーを見る。


頼れる

強い

話が通じる


でも、絶対に危ない。

そして、他の選択肢はもっと危ない。


「…………」


何だこの多数決。


政治判断:ヘンリー

人生経験:ヘンリーはやめろ。

他の候補:もっとやめろ。


「詰んでるじゃん!!!!」


突然叫んだ私に、ヘンリーが本気で怪訝そうな顔をした。


「何がだ」


「私の人生だよ!!」


私は両手で頭を抱えた。


頼れる盾か

未来の災厄か


今この場でどちらかを判断しろと言われても。

世界史八点の私に分かるわけがない。


「あああああああああああ!!」


私は天井へ向かって叫んだ。


「世界史まともにやっとけばよかったぁぁぁぁぁぁ!!!!」


ヘンリーが少し引いた。

知らん。

引け。


「Google先生ぇぇぇぇ!! ヘンリー二世で検索させろぉぉぉ!! Wikipediaでもいい!! 

人物評価! 結婚生活! 将来性! 三行でまとめて!!」


当然ながら返事はない。


「チャッピー!! 今こそ出番だチャッピー!! 

十九歳ヘンリーの将来性とモラハラリスク評価してぇぇぇぇぇぇ!!!!」


「……チャッピーとは誰だ」


「千年くらい未来の賢者!!」


「またそれか」


「お前まで『また』とか言うな!!」


私は荒い息を吐きながら、机の上の羊皮紙を見る。

そこには未来など何も書いていない。

書いてあるのは今の条件だけ。


そして。

今の条件だけを見るなら

おそらくこの男が一番マシだった。


最善かどうかは分からない。

正解かどうかも分からない。

でも、今の私が持っている情報の中では。


「…………一晩」


私は指を一本立てた。


「一晩だけ考える」


ヘンリーは不満そうだった。


「長い」


「一晩を長いって言うな!!」


「では、明朝返事を聞く」


「圧をかけるな!!」


「かけていない」


「それを圧って言うんだよ!!」


私は机へ突っ伏した。


十九歳、話が通じる、仕事も早い。

そしてどう考えても

”地雷臭がすごい”


なのに、

その地雷を自分の意思で踏みに行くしかないかもしれない。


そんな現実を前に。


世界史八点の元OLは人生で何度目か分からないほど、

本気で高校時代の自分を殴りたくなっていた。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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