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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第61話:よっしゃ帰るぞ!自由だ!!(※ただし退職手続きは涙腺に悪い)

第一章の終わりというか第二章の始まりというか?

1152年3月21日、ボージャンシー。

フランスの有力聖職者たちが居並ぶ教会会議の広間に、厳かな声が響いた。


「――よって、両者の血縁関係は教会法の定める禁忌に触れるものと認め、この婚姻を無効と宣言する」


教令を記した羊皮紙に、公印が押される。

その音を聞いた瞬間、私はゆっくり息を吐いた。


(……終わった)


十五年の結婚生活だった。


フランス王妃になり、文化も常識もまるで違う北の宮廷へ放り込まれ、

妹の不倫騒動に巻き込まれ、戦争が始まり、十字軍へ行き、砂漠を彷徨い、

矢を射かけられ、現場猫みたいな大惨事に胃を痛め、

挙げ句の果てにはアンティオキアの夜闇で夫に強制連行された。


思い返せば、よく生きていた。


本当に。


契約解除の通知書――もとい、婚姻無効を告げる文書を受け取った時、

長い間ずっと肩にのしかかっていた何かが、ふっと軽くなった気がした。


会議が終わったあと…

人のいなくなった控えの間で、私はルイと二人きりになった。


かつては顔を見るだけで腹が立った男を、久しぶりに真正面から見る。

不思議と、もう怒鳴りたいとは思わなかった。


「……ルイ」


「はい」


ルイは静かにこちらを見た。

アンティオキアの頃のような嫉妬も、私を何としてでも手元に置こうとする必死さも、もうない。

少し疲れた、でも穏やかな顔だった。


私は腕を組み、視線を逸らす。


「……悪かったわね。あんたが欲しがってた『従順で敬虔なフランス王妃』には、

最後までなれなくて」


ルイはしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振った。


「謝るべきは、私の方でしょう」


「…………」


「私は、あなたを愛していました」


思わず顔を上げた。

ルイは少しだけ困ったように笑った。


「ですが、あなたを守ろうとするあまり、あなた自身が何を望んでいるのかを、

私は見ようとしなかった」


「……今さら気づいたの?」


「はい」


「遅っ」


「……はい」


そこを素直に認められると、逆にやりづらい。


私はふん、と鼻を鳴らした。


「本当に、致命的に相性悪かったわよね、私たち」


「そうかもしれません」


「そこ否定しないんだ」


「今さら否定しても、仕方がありませんから」


少しだけ笑った。


こんなふうに、何でもない話をして笑えるのなら。

もっと早く、もう少し違う形で話せていたら。


何かが変わったのかもしれない。


でも。

たぶん。

それでも最後は、同じだったのだと思う。


私が私である限り

ルイがルイである限り

組んではいけない二人だった。


「これからは、あんたに合う人を娶りなさいよ」


私は肩をすくめた。


「ちゃんと信仰深くて、あんたの話を聞いてくれて、今度こそ可愛い男の子が生まれるといいわね」


「……ありがとうございます」


ルイは頭を下げた。


「あなたも、アキテーヌの風の中で、どうかお元気で」


それが

フランス王ルイ七世と、王妃アリエノールとして交わした最後の会話になった。


これまでの十五年間で一番穏やかな会話だった。

だからこそ、少しだけ胸が痛んだ。


でも本当に痛かったのは。


”そのあと”だった。


中庭で待っていたのは、二人の小さな娘。

長女マリーと、次女アリックスだった。


「おかあさま、おでかけ?」


何も知らないマリーが、私のドレスの裾を小さな手で握りしめて見上げてくる。

乳母に抱かれたアリックスは、丸い目でこちらを見ながら、自分の指を夢中でしゃぶっていた。


「……うん」


私はその場に膝をついた。


「ちょっとね。遠いおうちに、お仕事しに行くの」


「とおい?」


「うん。ちょっと遠い」


二人まとめて抱きしめる。


石鹸の匂い

柔らかな髪

小さな身体の温もり


喉の奥が一気に熱くなった。


アキテーヌは持って帰れる。

女公としての権利も。

土地も。

財産も。

自由も。

全部、私の手に戻ってくる。


でもこの温もりだけは、

連れて帰れない。


「マリー。アリックス」


私はなるべく明るい声を出した。


「いい子にしてるのよ。お父様の言うことをちゃんと聞いて、

美味しいものをいっぱい食べて、大きくなるの」


マリーが不安そうに眉を寄せた。


「おかあさま、すぐかえってくる?」


心臓を、ぎゅっと掴まれたような気がした。


「…………」


返事ができなかった。


だから笑った。

できるだけいつもの顔で。


「ずっと、遠くから見てるからね」


二人の頭を撫でる。


「ママの大事な、大事な宝物だから」


立ち上がる。

そして、振り返らずに歩き出した。


背中の向こうから。


「おかあさま?」


と呼ぶ声がした。


聞こえた。


でも振り向かなかった。


一度でも振り向いたら、

全部投げ出してその場に座り込んで泣いてしまいそうだった。


門をくぐり。

用意されていた馬車へ乗り込む。


扉が閉まる。

車輪がゆっくり動き始める。


私は座席へ深く身体を沈め、袖で乱暴に目元を拭った。


窓の外。


シテ島の石造りの建物が、少しずつ遠ざかっていく。


十五年

私の青春も、苦労も、胃痛も

笑ったことも

泣いたことも

全部あの灰色の宮殿に置いてきた。


私は一度、大きく息を吸い込んだ。


そして

両手で、自分の頬をパチンと叩く。


「よしっ!!」


湿っぽい空気を、力任せに肺から追い出した。


泣いている暇はない。


私には

私の土地と、私の民が待っている。


「終わった……!!」


もう一度。

大きく息を吸う。


「終わったぞおおおおおおお!!!!」


馬車の天井へ向かって、両拳を突き上げた。


「王妃引退!! カペー社からの完全退職!! 

今日から私は、ただのアキテーヌ女公だぁぁぁぁぁ!!」


『自由だ』


もう、誰かの許可を取らなくていい。

主に発注書を切る社長に振り回されることもない。

夜中に連れ出されることもない。

現場猫だらけの軍隊に同行することもない。


『次こそ男子を』という無言のプレッシャーを浴び続けることもない。


「よっしゃ帰るぞポワティエへ!!」


私は窓の外へ拳を突き出した。


「美味しいワイン飲んで! 牡蠣食べて! 城で猫でも飼って!!

 今度こそ静かに暮らしてやるんだからぁぁぁぁ!!」


南へ続く街道を、春の光が明るく照らしていた。

私はこれから始まる穏やかな第二の人生を、本気で信じていた。


――もちろん。


そんなものは始まらない。

考えてみれば当たり前だった。


若く独身で、自分の名義で広大な領地を持つ女公。

しかも、その女と結婚すれば、途方もない土地と権利が一緒についてくる。


そんな超優良物件を。


中世ヨーロッパの貴族たちが。


「離婚したばかりだから、そっとしておいてあげよう」


などと気を遣ってくれるはずがなかったのである。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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